第25話 「神」の本質を見極める

 ぼくは、一般的に語られる「神」という存在について、受け入れていません。季節の風物として初詣などにはいきますが、洋の東西を問わず受け入れていません。

 子供のころから、「神」についてはずっと違和感がありました。

 全知全能と言われ、天地創造をしたと言われる存在が、人間のやることに天罰を与える。そこに強烈な違和感がありました。

 天罰を与えるぐらいならその場で消去すればいいわけです。それぐらい簡単なことでしょう。そもそも天罰が必要な存在を生みだしていることにも違和感があります。

 それに、「神」が存在しているなら、現代の世界の有様はどういうことなのか、とも思います。

 西洋の「神」の話に、選ばれたものだけが救われるというものがありますが、個性や個人の考えを認めない、その程度の器と知性なのか、という疑問もあります。

 これを感じたのは十歳ぐらいでした。それからずっと疑問のまま抱えていました。

 それから約三十年後、小さな悟りを得ることができたとき、その疑問は一瞬で消え去りました。あくまでもぼくにとってですが、明確な答えが提示されたからです。

 「すべてはひとつである」

 この答えが引き金になり、ぼくの長年の疑問はすっかり解消されました。

 すべてはひとつ、その名を「神」と呼ぶのだとしたら、世界の宗教で呼ばれている神とは意味が違ってきます。

 すべてが「神」であるなら、何かのシンボルや象徴的なものはなにも必要ありません。空も風も、車もビルも、タンポポもアリも、ぼくもあなたも「神」なわけです。

 多くの場合、何かを象徴的に掲げるのは、権力者や独裁者の技術です。わかりやすいシンボルがあると傾倒しやすくなります。現代の宗教はほとんどその形をとっているところに、何か深い意味があるのではないかと疑ってしまいます。

 すべてが「神」だとしたら、天罰も必要ありませんし、天国や地獄も意味がありません。逆に、八十億人いる地球人に、八十億通りの個性があること、雪の結晶に同じ形が二つとないことなど、それぞれが「神」だと考えたほうが納得できます。


 もし何かに頼りたくなったとき、それは誰かが作った人工の神ではなく、まず自分を信じることからはじめます。ぼくも「神」ですからね。

 その「神」であることを思いだし、その力を存分に振るうためのマニュアルのようなものが、スピリチュアルの思想であると、ぼくは考えています。

 ヘタに何かを信じるよりも、自分を信じたほうが無難です。それに、有るとか無いとかで言えば、「有る」から始めないと何の発見もありません。

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