第10話 QUIETLINE
夜。
降るような蝉の声も、風鈴の音も、ここまでは届かない。
廃ビルの最上階、外れかけた鉄扉の先。
そこに身を潜める人間の気配は、夜の静けさに沈んでいた。
No.17は、天井の抜けた部屋でデバイスを覗いていた。
壁に立てかけたノート型の端末。表示されるのは、地図でも映像でもない……記録の誤差だ。
「……重なってる」
指先が止まる。
ある時間軸、ある地点に、自分が二重に存在している。
一方の記録には、自身の生体データと移動軌跡。
もう一方には、名前のない識別コードだけが記録されていた。
「識別コード……幽…?」
「……誰だ」
その瞬間、端末が微かに唸りを上げ、明滅するようなログが浮かび上がった。
【識別コード:幽(YUU)──接続試行中】
対象:No.17
観測プロトコル:不明形式
記録アクセス要求:拒否
干渉元:不明な時間層からの信号
警告:対象は“記録の外側”からの観測を試みています
No.17の視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「……観測、されている?」
画面はすぐに暗転し、エラーコードが赤い残像のように残った。
まるで、誰かが自分の存在に指を触れ、そして離れていった……そんな痕跡だけを置き去りにして。
彼は、ゆっくりとログを閉じた。
軋む床板に体を預け、夜の街を見下ろす。
風の中に混じる微かな電子音が、まるで誰かの呼吸のように耳に残った。
夕暮れ。
澪は学校帰りの道を歩いていた。
カバンの重さより、今日一日がやけに長く感じられた。
商店街は静かだった。すれ違う人が少なく、いくつかの店のシャッターがすでに降りていた。
ふと、通りの端に停まっている黒いワンボックス車に目が止まる。
窓が一瞬だけ開き、すぐに閉じられた。
「……?」
澪が立ち止まると、その背後から声がかかった。
「結城澪さん、ですね」
振り返る。
背広姿の男が立っていた。表情は穏やかだが、目は乾いていた。
「あなたに少しだけ、お時間をいただきたくて」
「どなたですか」
「都市整備局、第二特別管轄。……まあ、名前は必要ないかもしれません」
男は名刺を差し出すが、澪は受け取らなかった。
「なんの用ですか」
「最近、あなたの周囲で変わったことがありませんでしたか?」
「ありません」
「そうですか。……それなら良かった」
「ご心配なく。私たちは、あなたのような無関係な一般人を巻き込むつもりはありませんから」
男は、軽く頭を下げて歩き去る。
その後ろ姿を、澪は無言で見送った。
彼の足音が消えるころ、空気が少しだけ冷えた気がした。
夜。
祖母の家に帰ると、部屋には線香の匂いがほのかに残っていた。
澪は靴を脱ぎながら声をかける。
「ただいま……」
「おかえり。ごはんできてるよ」
「……今日、変な人に声かけられた」
「都市なんとか局……の人とか言ってたけど、なんか、変だった」
「……ナンパじゃなかったんだねぇ」
「やめて」
祖母は小さく笑い、仏壇に向かって手を合わせたまま言った。
「まあ、変な人なんて、どこにでもいるもんさ」
それだけだった。
深くも、軽くもない。日常に混ざる違和感のような言葉。
澪は黙って席についた。
窓の外では、どこかで白い影がふっと通り過ぎたような気がした……気のせいだろう。
その夜、No.17は眠れなかった。
デバイスの微かな熱が、胸の奥を締めつけるように残っていた。
「……どこまでが、俺の記録なんだ」
外の闇は静かだった。
だが、何かが確かに動き始めている。
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