第四章:崩壊の序曲、そして新生の胎動

第22話 大暴落への序曲:冷徹な「売り」の開始


 年の瀬の慌ただしさが過ぎ去り、新しい年が明けた。

 そして、照和1990年1月4日、大発会。

 東京証券取引所は、例年通りの熱気に包まれていた。

 だが、この日を境に、日本の経済は奈落の底へと突き進むことになる。


 市場が開く前、俺はシンガポールのオフィスで、モニターに映し出される日経平均株価の推移を凝視していた。

 俺の隣には法子が、そして後ろには爺さんと婆さんが、固唾を呑んで見守っている。

 テレビの画面には、まだ昨日の大納会の興奮が残る証券取引所の様子が映し出されている。

 だが、俺は知っている。この日の空気は、昨日とは全く違うものになることを。


「レバレッジを最大まで引き上げてください」


 俺の声は、静かだった。

 しかし、その言葉には、未来を完全に掌握した者の揺るぎない確信が込められていた。

 俺の指示通り、ペーパーカンパニーの口座から、信じられないほどの巨額の資金が、日経先物市場の「売り」に投じられていく。


「いよいよか……」


 爺さんが低く唸った。

 彼もまた、長年の経験から、この異様な経済状況が長く続くはずがないことを肌で感じていた。

 だが、まさか、これほど若き少年が、ここまで冷徹に、そして正確に市場の行く末を読み切るとは、想像だにしなかっただろう。


 午前9時。取引開始のベルが鳴り響いた瞬間、俺の目の前のモニターが、青と赤の数字で埋め尽くされた。

 テレビのテロップが瞬時に変わり、キャスターの声には動揺の色が隠しきれていない。


「日経平均、急落! 前日比-500円!」


 市場の参加者たちも、まさかこんな大発会を迎えようとは夢にも思っていなかっただろう。

 しかし、これはまだ序章に過ぎない。


「-800円! 売りが止まりません!」


「大口の売り注文が出ています! 何が起きているのでしょうか!」


 キャスターたちの悲鳴にも似た声が、部屋に響き渡る。


 モニターの数字は、まるで滝が流れ落ちるように、みるみるうちに下落していく。

 投資家たちの顔からは、血の気が失われ、焦燥と絶望の色が濃くなっていくのが想像できた。

 この大発会での急落は、俺の記憶と完全に一致していた。


 そして、その後の展開も。日経平均は、その後10日前後でいったん落ち着きを見せ、3万6千円あたりで短期的な底を打ったはずだ。

 俺は、その記憶に従って、このタイミングで一度、**『売り』**のポジションを調整し、2月まで静かに待つことにした。


 シンガポールのシステムで、冷静に売り注文を確定させる。

 莫大な利益が、静かに、しかし確実に確定していく。


「すごい…」


 法子が、思わず呟いた。


 彼女もまた、弁護士としての冷静な頭脳を持つが、これほどの金額が、瞬時に、目の前で動いていく光景は初めてだった。

 宝塔の顔に、感情の起伏は一切ない。

 ただ、未来を予測し、その通りに事を進める機械のような冷徹さがあるだけだ。

 瓶田嶺の記憶が、宝塔の脳裏で再生される。

 嶺もまた、この大暴落を経験した。

 彼は顧客の資産を守ることに奔走し、その渦中で疲弊しきっていった。


 だが、宝塔は違う。

 彼はこの暴落を、自らの復讐の足がかりとし、巨大な富を築き上げる糧としているのだ。


「相場が…昭和のバブル崩壊と、全く同じ動きをしている」


 俺はそう呟くと、再び指示を出した。


「10日で、一旦手仕舞いします。利益を確定させてください」


 信じられないような指示だった。

 まだ暴落は始まったばかりだ。

 さらに利益を伸ばせるはずなのに。

 しかし、俺には確信があった。

 嶺の記憶が告げている。

 この暴落は、一旦の小康状態を経て、2月からさらに激しい**「大暴落」**へと繋がることを。


 10日後、俺は全てのポジションを手仕舞いした。

 俺のペーパーカンパニーの口座には、初期資金をはるかに上回る、想像を絶する巨額の利益が積み上がっていた。

 それは、この照和の日本において、俺が新たな権力者となるための、揺るぎない基盤となる金だった。


「これで、第一段階は終わりです」


 俺は満足げに、そしてどこか冷たい笑みを浮かべた。


「2月から始まる大暴落に備えましょう」


 彼は知っていた。この巨大な富が、やがて来るさらなる金融の混乱の中で、旧き財閥や貴族たちを呑み込み、自らの支配を広げるための強大な武器となることを。

 瓶田嶺の無念は、今、少年・村井宝塔の胸で、恐るべき復讐劇の始まりを告げていた。

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