第3話 昭和を生きた一人の男


 ——そうだ。あれはただの夢じゃなかった。

 俺が見たのは、瓶田嶺という男の人生だった。

 そして、その最期。


 過労死。


 夢の中の俺は、瓶田嶺という名前だった。

 昭和の終わり、この国全体がバブル景気に浮かされる少し前の仙台。

 俺は地元の小さな証券会社に就職した。


 右も左もわからない俺を指導してくれたのは、ひとつ年上の白麗澪先輩。彼女は文字通り「白麗」という言葉が似合う、完璧な美しさを持っていた。

 いつも明るく、俺のどんな愚痴にも笑顔で耳を傾けてくれた。


「嶺君、大丈夫?顔色悪いわよ。昨日は徹夜したんでしょ?」


 入社して半年が過ぎた頃、ようやく初めての契約を掴んだ。

 額は微々たるものだったが、俺にとっては大きな一歩だった。

 その日の夜、澪先輩は「お祝いよ!」と言って、俺を連れて近所の小料理屋へ行った。


「嶺君、おめでとう!よくやったわね!」


 先輩の笑顔は、いつも以上に輝いて見えた。

 俺は照れ臭くて、うまく言葉が出なかった。


「あ、ありがとうございます……でも、先輩のおかげです」


「あら、謙遜しちゃって。でも、本当に頑張ったわね。私、嶺君ならもっともっと上に行けるって信じてるから」


 その日から、何か成果を出すたびに、澪先輩は俺を誘ってくれた。

 時には洒落たバーでグラスを傾け、時には仕事帰りの駅ビルで立ち飲みをすることもあった。

 俺は先輩を尊敬し、憧れ、そしていつしか、淡い恋心を抱くようになっていた。


 しかし、ある時を境に澪先輩は変わってしまった。

 あれほど明るかった彼女の笑顔は消え、日ごとに憔悴していくように見えた。

 目の下のクマは消えず、話しかけても心ここにあらずといった様子。


「先輩、どうかしたんですか?最近、元気がないように見えますが……」


 俺は、その理由を知らないまま、ただ傍で見守ることしかできなかった。

 先輩は何も語らず、俺も踏み込むことはできなかった。

 もどかしくて、苦しかった。


「……何でもないわ。ちょっと疲れてるだけよ。心配かけちゃってごめんね、嶺君」


 そう言って、先輩は力なく笑った。その笑顔は、いつもの輝きを失っていた。


 そんなある日、俺は仕事で起死回生とも言えるような大型案件をまとめた。

 地方の老舗企業の株式公開案件。

 数ヶ月にわたる交渉の末、ついに会社全体が沸き立つような大金星を挙げた。

 俺は営業部のヒーローとなった。


 その夜、以前のように澪先輩が祝いの席を設けてくれた。

 場所は、仙台市街を見下ろす高層ホテルの最上階にあるバーだった。

 窓の外にはきらめく夜景が広がり、ジャズの生演奏が心地よく響いている。


「嶺君、本当に、よくやったわね」


 澪先輩は、少し潤んだ瞳で俺を見つめた。

 いつもの軽快な笑顔ではなく、しっとりとした、まるで夜景に溶け込むような表情だった。

 酒が進むにつれて、先輩は少しだけ本音を漏らした。


「嶺君、ごめんね。最近、私、ずっと変だったでしょう?色々、あってね……」


 先輩の口から語られたのは、想像以上に重い話だった。

 会社の大きなプロジェクトでの失敗、それによる責任の重圧、そして、信頼していた人物からの裏切り。

 俺はただ、黙って先輩の言葉に耳を傾けた。


「そんな……先輩、大丈夫ですか?」


 俺は震える声で尋ねた。


「大丈夫じゃないわよ、馬鹿ね。でもね、嶺君の頑張りを見ていたら、私、もう少しだけ、頑張ってみようかなって思えたの。ありがとう」


 その言葉と、先輩の少し酔った、頬を赤らめた顔が、俺の心臓を強く掴んだ。俺は、気づけば先輩の手を握っていた。

 先輩の指は細く、そして少しだけ震えていた。

 その震えが、俺の心をさらに揺さぶる。


「先輩……俺は、ずっと先輩のことを見てました」


「嶺君……」


 そして、そのまま俺たちはバーを後にし、ホテルの部屋へ向かった。

 初めての女性、初めての経験。

 舞い上がるような気持ちで、俺は童貞を卒業した。

 先輩の温かい体温、肌の柔らかさ、そして甘い香りが、俺の五感を支配した。

 その夜、俺は生まれて初めて、真の幸福を知った。


 しかし、その幸福な時間は一夜にして崩れ去った。

 翌朝、会社からの連絡があり、澪先輩が、海で遺体となって発見されたという。

 警察は自殺として処理を終えた。

 信じられなかった。

 あんなに明るく、俺を導いてくれた先輩が、昨晩、俺と共にあんなに幸せそうに笑っていた先輩が、なぜ。


 俺は呆然自失となり、会社をしばらく休んだ。

 会社は俺を責めることなく、静かに見守ってくれた。

 二週間後、上司の勧めで俺は会社に戻った。


「平田、ゆっくりでいいからな。無理はするな」


 そう言われても、俺は人が変わったかのように仕事に没頭した。

 澪先輩の死の真相を探ることもなく、ただひたすら金を稼ぐことだけを考えた。

 まるで、何かに憑かれたように。

 そう、あのときの俺は、先輩との素晴らしいひとときを忘れたいのではなく、その後の先輩の死を受け入れられずに、先輩そのものを忘れるように、何も考えずに仕事にのめり込んでいった。


 この国全体がバブルに浮かされていた。

 株価は連日高値を更新し、土地神話が叫ばれる。

 誰もが今日よりも明日、明日よりも明後日の方が豊かになると信じて疑わなかった。


 しかし、俺は澪先輩の教えてくれたことだけは忘れることができず、いや、これは絶対に忘れて良いものではないと思い、先輩の教えを忠実に守り続けた。

 彼女が常々言っていた「投機ではなく投資」を顧客に勧め、リスクの高い国内投機からは距離を置いた。


 小さな証券会社だったので、営業職だが投資アドバイスや運用まで手掛けていた。

 国内の市場がギャンブルの様相を呈する中、俺は海外、特にアメリカを中心とした案件に注力した。

 もちろん、国内投資、それもレバレッジをかけた方がはるかにリターンは良かった。

 一部の顧客からは不満の声も上がったが、そういう顧客は他の先輩社員に回し、俺の運用を信じてくれる顧客に全身全霊でサポートした。


 海外案件はとにかく時間がかかった。

 寝る間も惜しんで仕事に打ち込んだ。

 気づけば、数年が経ち、この国はあのバブルも弾け未曽有の事態に直面していた。

 俺の顧客はほとんど影響を受けなかったが、先輩たちの顧客は悲惨な状況に陥っていた。


 そこらじゅうで追証の嵐が吹き荒れる。

 中には自殺者まで一人ではなく出ていた。

 そんな状況の中、会社は俺にさらなる無理難題を突きつけてきた。


「瓶田、どうにかしろ!お前の顧客は助かったんだから、他の顧客も何とかするんだ!」


 鬼のような形相で上司が叫んだ。


「しかし……こればかりは、どうすることも……」


 俺は唇を噛み締めた。


「何を言っている!お前は当社のエースだろう!会社を、顧客をどうにかしろ!」


 俺は必死で働いた。寝食を忘れ、ただひたすらに。

 だが、ある日、限界を迎えた。

 机に突っ伏したまま、二度と目を開けることはなかった。


 過労死。


 それが俺の人生の終焉だった。


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