第8話 友人の仮面.4
結論から言って、次の日の朝は最悪だった。
たいして強くもないのに記憶を霞ませるために飲んだアルコールと、シャワーも浴びずに就いた床、脱ぎ散らかした仕事着。
それらの全てが不快だったから、私はゴールデンウィークの初日にも関わらず、己への悪態を吐きながらバスルームによたよたと足を運んでいた。
「……最悪…」
もう一度、今日と言う日を呪う。正確には、昨日の自分が取った考え無しの行動と発言を、だろうか。
昨夜、既婚者の分際で純朴な千花に愛の言葉を囁いた後は、私も彼女も互いに無言の時間を過ごした。千花の困惑は手に取るように分かったし、私自身、沈黙がじわじわと毒のように忍び寄ったことで口を閉ざした。
長いドライブから千花の家に戻り、彼女を車から降ろしたときのことだ。
千花は無言で自分を見つめてくる私にむかって深々と一礼すると、「頭の中がぐちゃぐちゃなので、考えをまとめさせて下さい」とお願いしてきた。
それは、仕事をするにあたって、パニックを起こしかけたとき相手にお願いする、配慮依頼として彼女が挙げていた内容であった。
それを口にしなければならないほどに千花が追い詰められていたのだと思うと、さすがの私も罪悪感を覚えずにはいられなかった。そのため、飲み慣れないアルコールの力に縋って眠りに就いたのだが…。
「はぁ…」
私は深いため息を吐く。
脳裏によぎるのは、今朝一番にアルコールでガンガンする頭で覗き込んだ携帯のディスプレイ。そこに映った――『考えがまとまったので、今日、どこかでお電話させてもらえませんか?』というメッセージ。
(良い話のはずがないわ。絶対に怖がらせたもの)
体を拭き、服を着替える。なんとなくひっつかんできたズボンとシャツを着た姿が鏡に映るが…どうしてだろうか、酷く野暮ったく、貧しく見えた。
髪もとかずバスルームを出れば、久が私に気づかわし気な視線を向けてくる。
「二日酔いか?」
「…そうみたいね」私は抑揚なく応じながら、彼が淹れてくれたコーヒーを受け取り、お礼を告げた。「ありがとう」
「どういたしまして」
久は軽く返すと、肩を竦めながらこう続ける。
「いつもは優雅な君が酷いもんだ。もう少し寝ていたらどうだ?」
「ええ…」
曖昧な返事と共に自室へと移動する。後ろから久の視線を感じるが、どことなく煩わしく思えた。
深夜まで遊び惚けた挙句、帰ってきたら晩酌していた妻に小言を言うこともなく心配してくれる、とても出来た人間だ。私などとは本来、住んでいる水が違う。
汚泥に塗れたように重い肩を回しながら、携帯を手に取る。
大窓を開けてベランダに出れば、柔らかな風が私の頬を揺らした。
目に見えない流れに乗って漂ってくる、草刈りの香りを胸いっぱいに吸いながら、私は携帯を素早く操作する。千花に、『もちろん。いつでも大丈夫よ』とメッセージを送ったのだ。
千花からの連絡が待ち遠しくないことなど、今まで無かったのではないかとニヒルに口元を歪めてコーヒーをすすっているうちに彼女から返信があった。
『今からお電話してもいいですか?』
心の準備をする暇もないな、と心の中で強がってみせる。そして、彼女から電話が来る前に私のほうから行動に出た。
独特のコール音が耳元で鳴り響くこと五秒。千花が電話に出た。
『あ…おはようございます』
かすれた声だった。眠れなかったのではないかと心配になる。
『…おはよう。調子はどう?』
『え?あー…明け方に2時間程度眠っただけなので、ちょっと、ぼうっとしてます』
『そ、そう』
何を馬鹿みたいなことを聞いているのだろう、と自分が嫌になったのも束の間、千花は襟を正すようにしてこんなことを提案してくる。
『あのぉ、お布団の中でずっと考えていたことがようやくまとまったので、少し聞いて頂いてもいいですか?』
きゅっ、と心臓が収縮する。同時に、強い不安が胸を抑えつけ、呼吸をしづらくした。
あんなことが起きた後だ。千花が言いたいことなど、聞かずとも分かる。どうせ失望や嫌悪である。裏切りは常にモラルを信じる社会によって唾棄されるのだから。
そのため、私は千花の提案など聞こえなかったかのように早口で口を挟んだ。
『ごめんなさい。私が昨日、意味の分からないことを言ったり、したりしたせいね。本当、申し訳なく――』
『あの』
少し大きめの声で千花が私の言葉を遮った。その事実に、私はとても驚かされた気持ちになる。
千花は元来、自分より他人を優先するタイプの人間だ。誰かのためにと身を擦り減らし、期待に過度に応えようとした結果、彼女は心を患い、社会から離れることになったのである。
そんな千花が、自分で言うのもおこがましいが、ある種の恩人である私の言葉を思い切り遮った。この行動の意味を私がどう捉え、同時に、どれだけ苦しく、辛くなったか…誰に分るだろうか?
『まずは、私の話を聴いてほしい、です。できれば、最後まで聞いてから、言葉を挟んでほしいと思います』
私はか細くも、ハッキリと形が読み取れる、ガラスで出来た器を思わせる声にすべてを諦めさせられたため、大人しく申し出を受け止めざるを得なかった。
『…ええ、分かったわ』
千花はほんの寸秒、静寂を作った。死刑執行の前奏みたいな時間に、私の心は重く沈んだのだが、千花がそれから一分以上に渡って紡いだ言葉は私の予想していないものであった。
『私って、ちゃんと必要なタイミングに必要とされるだけのコミュニケーションを取ってこなかったじゃないですかぁ。そのせいで、人を好きになるとか、あんまり、ピンときません。年齢以上に経験不足なんです。だから、みんなが分かることが、私には分からないんだと思います。
そんな私なので、きらぼ――夕陽さんの気持ちにどんなふうに応えるのが正しいのか、皆目見当もつきません。すみません。
でもですね、それだけの理由で夕陽さんの言葉から逃げるのって、なんだか、ダメな気がしたんです。だから、もっと考えてみたんです、自分のこと。
それで分かったんですけど、私って、巡り会った人たちを3つのカテゴリーに分けているみたいなんです。
下から順に、『どうでもいい人』、次に、『わざわざ傷つけたくない人』。たぶん、全体の8割はこのカテゴリーに分類されます。そして、最後に…『大事な人』。
1割にも満たない、『大事な人』。
私に勇気や希望をくれる人、居場所を与えてくれる人、価値を見出してくれる人、私を大切にしてくれる人、私を理解することを諦めずにいてくれた人。
……全部、全部、あてはまってます。夕陽さん、貴方は、ここです。
私を大事にしてくれる、『大事な人』。その人が望むことで、こんな私でも叶えてあげられることなら…叶えてあげたい。そう、思いました』
私は話の流れがあまりにも予想しない方向に流れ始めたため、いつ千花が、『でも』とか、『だけど』と口にして、話の舵を真逆に切るのかと恐れていた。だが、千花は先ほどああ言ったっきり、何も言葉を発さない。沈黙の帳の向こうで、何かを待っている。
何か?
いや、決まっている。私の言葉だ。私の…。
自分の番だと理解するや否や、私の脳内エンジンは急激な回転についていけず、空回りした。
『わ、私、既婚者よ?』
刹那、私は己の愚かさを恥じた。
そんなこと言われずとも千花は分かっているし、そもそもまだ、千花の言った言葉の真意も把握していないのだ。
というか、普通に考えれば、千花の言葉の意味はきっと、『大事な人だから、これから先、バイセクシュアルだという理由だけで夕陽さんから距離を取りたくはないです』だろう。この考え方でも、だいぶ自分に都合よく解釈されているというのに…。
『ふふ、知ってますよ』とおかしそうに笑う千花。やはり、深い意味はないのだ。
『ご、ごめんなさい。その、びっくりしてしまって…私、馬鹿みたいだと自分でも思うけれど、千花が私のことを受け入れてくれたのかと思ったのよ…』
口にするのも恥ずかしいことを言ってのけてから、気恥ずかしさを払うためにコーヒーを思い切り口に流し込む。その直後だった。
『え?はい。そうですよ』
千花のあっけらかんとした声に、危うくコーヒーを吐き出しかける。私はどうにかそれを喉に流し込むと、目の前に千花がいたら肩を大きく揺さぶっていただろう勢いで彼女に問い詰めた。
『ち、千花。私の言っていることが、ど、どういう意味か分かっているの?』
『はい』
『いいえ、分かっていないわ。あのね、千花。今さら気持ち悪いかもしれないけれど、私は貴方に触れたいの。友人として手を繋ぎたいとか、ハグしたいとかじゃないのよ。恋人のように触れたいと言っているの。ね?分かったかしら?』
『えぇ…?分かってますよ。それくらい』
『あぁもう、分かっていないわ…!千花、私は――』
『夕陽さん。私にできることなら、全部、いいですよ』
驚くほど透き通った声が、私の口の動きをぴたりと止める。
『…でも、旦那さんにバレないようにしましょうね。夕陽さんの大事な人は、『傷つけたくない人』、ですから』
こうして、自分でも信じられないうちに、私と藤光千花は…いわゆる、浮気関係になった。
でも、批判されることを重々承知で明言しておく。
私と千花は、浮気をしているのではない。
――恋をしていたのだ。
モラルなんぞに追いつかれることのない場所で、恋を…。
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