依頼


〈2066年2月26日(金曜日)20時〉


「安いよー」

「兄ちゃん、一杯どうだい?」

 喧噪に飲まれた街路を埋め尽くすように人の流れができていた。幅5メートルほどの道は既に歩行者天国状態であり、ここに突っ込む勇気のある車は(数年に一度ほど出現するテロリストの車両を除けば)無いだろう。そんな人のごった返す中を、茶色いコートを着た男が足早に歩いていく。彼の放つ独特のオーラは周囲の人を寄せ付けず、故にその人物の行く先は自然に人が晴れるのだ。男は俯き気味ではあるが、しかしその険しい表情は確かに確認できる。何かぶつぶつと呟きながら歩みを進めていた。

 下を向いていたのが災いしたのだろう。彼はすれ違いざまに肩をぶつけてしまう。

「おいてめぇ」

 さらに災難だったのは、ぶつかった相手が体格の良い男だったことである。しかもその右手には一升瓶——中身は半分以上なくなっている——が握られていた。中身を呑んだ張本人であることは、周囲に漂う臭いで判別が付く。柄の悪い酔っ払いだ。これほど面倒な相手はそうそう居ない。

 しかしコートの男は動じない。

「失礼」

 それだけ言って立ち去ろうとする。当然ながら酔っ払いが退くはずもない。

「んじゃおまぇなめやがってこんちくしょう……」

 辛うじて聞き取れるのは低レベルの罵詈雑言である。「んだぁべんしょうしろよこのふくたけぇんだぞこらぁ」などと喚き散らす酔っ払いは、相手が完全に無視していると見るや、おもむろに右手をポケットに突っ込んだ。ポケットの中で握ったそれは……。

 しかし次の瞬間、硬直したのは酔っ払いの方であった。相対する相手がコートの隙間から覗かせたのはグリップだ。拳銃の持ち手だ。酔っ払いの鈍った思考回路でも判別できた。このリボルバーを持ち歩いているのは警察だ、と。

 酔っ払いは右手を隠したままそそくさと退散する。厄介者を追い払ったコートの男——守屋翔は、溜息を一つ吐くと、再び険しい顔で歩き始めた。白い吐息が風に靡く。



「待たせたな」

 守屋は葉を落とした街路樹に寄りかかっている女性に声を掛けた。彼の同僚の一人・山岸やまぎである。尾行や私服巡回のプロフェッショナルでもある彼女は、今までいくつかの事件で守屋と組んで活躍してきた経緯がある。

「その格好めちゃ浮いてる。それで尾行なんてできないよ」

 山岸の辛口な評価に「そうか?」と頭を搔く守屋。彼にこのような発言ができる人物など滅多に居ない。その稀有な例外が彼女なのだ。

「で、頼みってのは、アンタが最近のめり込んでいるキラー事件だろ?」

 分かってますよとばかりに悪戯っ子のような笑みを浮かべる山岸。やはり見透かされていたか。

「最近あった人が殺された事件は主に二つ。一方は休暇中の海軍大将が暗殺された事件……これは私も捜査してるからアンタが参加してないってのは分かる。ならもう一方の連続殺人だって想像できるさ。アンタ好みだしね」

 彼女はそう思った経緯を述べる。守屋の思いと相違ない、見事な推理であった。

「話が早い」

「でもキラーを追いかけるのはアタシでも無理。どんな奴か分かんないから」

「その必要はない」

 事件を解決したいのに犯人を追いかけない——。意味を図りかねて怪訝な表情を浮かべる彼女に言う。

「詳しい話はあそこのファミレスで」



「つまりアタシは神崎とかいう警部補を尾行すりゃぁ良いワケ?」

 山岸はお冷の氷を噛み砕きながら突っかかってくる。彼女が依頼されたのは、キラーの捜索ではなく警部補の尾行だったのだから。

「そうだ。神崎警部補はキラー事件の全ての現場を見ている。そして文書では公開されなかった箇所が……」

 守屋の脳裏に浮かぶのは、カジノ店襲撃事件や蛇骨組構成員変死事件の報告文書にあった、黒塗りにされていた箇所だった。検死についての暫定報告、そして目撃者についての記述……。なぜ伏せる? 事件解決に大いに役立ちそうな箇所なのに、なぜ警察官たちに共有して捜査しない?

「上が何か隠そうとしてるってことね」

 興奮を抑えきれないのか、対面からテーブルに身を乗り出してくる山岸。「子供かよ」などと窘めながら、守屋は話しを続ける。

「それに神崎警部補は案外ボロを出してくれる。上手いことやれば上層部が隠してることの尻尾を掴めるかもしれない」

「まぁ巡査部長のアンタを現場に入れてる時点で危機管理能力はねぇ……」


 彼らの座るテーブルにオムライスが2つ運ばれてきた。店員に会釈をしつつ料理に目を落とす。良い香りのする湯気を上げるオムライス。黄色い膜の上にかけられたトマトケチャプが、守屋には何故か印象深く感じられた。「美味い!」などと大げさなリアクションをする山岸を眺めつつ、彼も卵の膜にフォークを突き立てた。


 二人はオムライスを食べつつ話を続ける。

「で、アタシは神崎警部補をどのタイミングで見張れば良いんだ?」

「彼は毎週金曜の21時にこのファミレスに来る」

 たまらず吹き出しそうになる山岸。慌てて米を飲み込む彼女を見て守屋は笑う。今回はこちらが一枚上手だったな、と。彼は神崎との何気ない会話の中で情報を聞き出していたのだ。

「あと20分じゃん! 先に言ってくれりゃぁ尾行用の服着てきたのにもぅ」

 そんな文句を言いつつも、彼女もまた笑い、オムライスをたいらげるのだった。




 時は流れ21時3分、中年男性が一人、レストランの扉を開いた。店員に人数を尋ねられ「一人」とだけ答えて入店した彼は、店の隅、一人席に荷物を下ろした。

 神崎警部補である。神崎はメニューを指差して何か注文した後、カバンからパソコンを取り出して作業を始める。

 通路を二つ挟んだ席に座る女性に監視されているなど知る由もなく……。

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