第12話:ナマクラと、職人の涙。


《リクの視点》


ヴルカンヘイムの街の隅、埃と、酸っぱい酒の匂いが充満する工房。

俺は、主である頑固な老人――ゴードンの、拒絶の言葉を柳に風と受け流し、勝手に木箱に腰を下ろしていた。セレスが隣で「リク、失礼ですよ!」と小声で咎めるが、俺は「まあまあ」と手を振って制する。


こういう、心を閉ざした人間相手に、正論や丁寧な言葉は、分厚い壁に小石を投げるようなものだ。意味がない。

必要なのは、相手の心の、一番柔らかい場所を、無遠慮に、しかし的確に突くこと。まあ、俺にそんな器用な真似はできないので、いつも通り、好きにさせてもらうだけだが。


俺は、腰のポーチから、旅の相棒である安物のナイフを取り出した。

ポルト・リーノの市場で、銅貨一枚で買った、何の変哲もないナイフ。だが、こいつには何度も助けられてきた。俺は、携帯用の砥石を取り出し、慣れた手つきで刃を研ぎ始める。


シャッ、シャッ……。


静かな工房に、規則正しい、心地よい音だけが響く。

俺は、ただ無心に、刃の角度を確かめながら、丁寧に、丁寧に、ナイフを研いだ。会社員時代、死んだ目でキーボードを叩いていた時には、決して感じることのなかった、穏やかな時間。


その、一連の動きを。

工房の隅で酒瓶を傾けていたゴードンが、濁った瞳で、じっと見ていた。

最初は「何をしやがる」という侮蔑の視線だった。だが、俺が、まるで祈るかのように、一本の安物ナイフに集中している姿を見るうちに、その眼差しに、ほんのわずかな変化が生まれた。


やがて、彼は、唸るような低い声で、俺に問いかけた。


「……おい、小僧」

その声には、先ほどまでの刺々しさは、少しだけ薄れていた。


「お前さん、そのナマクラを、なんでそんなに、大事そうに磨いてやがる?」


ナマクラ。彼は、そう言った。

俺は、研ぐ手を止め、きょとんとして、手の中のナイフを見つめた。

こいつが、ナマクラ?

冗談じゃない。


「ナマクラ? これがか? 馬鹿言えよ、爺さん」


俺は、フン、と鼻を鳴らした。


「こいつは、俺の、命の恩人だぜ。森で道に迷った時、木の皮を剥いで目印にしたのも、腹を壊しそうな色のキノコと、美味そうなキノコを見分けるのに、胞子をちょいと削り取ったのも、全部こいつだ」


俺は、研ぎ澄まされたナイフの切っ先を、親指の爪に、そっと当てた。ひやりとした、吸い付くような感触。完璧な切れ味だ。


「よく切れるし、軽いし、とにかく、この、手に馴染む感じが、最高なんだ。無駄な飾り気は、何一つない。ただ、『物を切る』っていう、その目的のためだけに、考え抜かれて作られてる。……作った奴、いい仕事するよな。本当に。会って、美味い酒の一杯でも、奢ってやりたいくらいだぜ」


それは、お世辞でも何でもない。

心の底から、そう思ったのだ。

このナイフは、名もなき職人が、誰に褒められるでもなく、ただ実直に、使う者のことだけを考えて打ったに違いない。その、無言の誠実さが、俺には、どんな豪華な装飾よりも、価値があるように思えた。


俺が、そう言い終わると。

工房に、長い、長い沈黙が落ちた。


ゴードンは、何も言わなかった。

ただ、その、熊のように巨大な体が、小刻みに、わなわなと震えている。

俯いた彼の、もじゃもじゃの髭の隙間から。

ぽたり、と。

熱い雫が、一つ、工房の土間に落ちて、小さな染みを作った。


「……じいさん?」


俺が、戸惑って声をかけると。

ゴードンは、ゴシャゴシャと、乱暴にその顔を、煤汚れた腕で拭った。

そして、持っていた酒瓶を、床に叩きつけた。


ガシャン! と、けたたましい音が、工房に響き渡る。


「……う、うわあああああああああん……!」


次の瞬間、その、熊のように巨大な体躯の、頑固で、偏屈で、酒浸りの老人は。

まるで、迷子の子供のように、声を上げて、泣き出したのだ。


「うおおおおん…! わしの、わしの打ったナマクラを…! そんな風に、言ってくれる奴が、まだ、この世にいたなんて…!」


「「えええええええええええっ!?」」

俺とセレスの、素っ頓狂な声が、完璧にシンクロした。

え、このナイフ、あんたが作ったの!?


ゴードンは、嗚咽を漏らしながら、ぽつり、ぽつりと、自分の過去を語り始めた。

かつて、王宮お抱えの鍛冶師として、国中の尊敬を集めていたこと。

だが、貴族や騎士たちは、彼の打った剣を、ただの飾りか、自分の地位を示す道具としか見ていなかったこと。手入れもせず、その価値を理解しようともせず、ただ、ぞんざいに扱ったこと。

魂を込めて打った一振りが、血も吸わぬまま、ただ、壁の染みになっていく。

その現実に、彼の職人としての誇りは、心は、少しずつ、すり減っていった。

そして、ある日、ぷつりと、何かが切れた。

彼は、全てを捨てて、王宮を去り、心を閉ざし、酒に溺れたのだと。


「もう、誰も、わしの仕事なんざ、分かってくれねえと…。魂込めて打ったって、どうせ、価値の分からねえ奴らの、見栄の道具になるだけだと…。そう、思っとった…」


ゴードンは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、俺の手の中のナイフを見た。


「じゃが、お前さんは…。わしが、酒代稼ぎに、何の思い入れもなく、ただ数だけ打った、こんな、安物のナマクラを…。その本質を、分かってくれた…。道具として、これ以上ねえくらい、大切に、使ってくれた…」


ゴードンの、濁っていた瞳から、大粒の涙が、後から後から、溢れ出してくる。

それは、何十年という、長い、長い時間、彼の心に溜まっていた、悔しさと、悲しさと、そして、ほんの少しの、喜びの涙だった。


俺は、かける言葉もなかった。

ただ、その、不器用な男の、魂の慟哭を、黙って見つめていた。

セレスも、いつの間にか、その美しい瞳を潤ませ、静かに、ゴードンの背中を見守っていた。


やがて、ひとしきり泣き終えたゴードンは、すん、と鼻をすすると、ゆっくりと立ち上がった。

そして、まるで、何かの儀式のように、工房の奥から、一つの巨大な金槌を取り出した。

それは、彼が、何十年も、触れていなかったであろう、彼の魂そのものとも言える、『神の槌』。


ゴードンは、その槌を、俺の目の前に、ゴトリ、と置いた。


「小僧。いや…リク、と言ったか」

彼の声は、もう、震えてはいなかった。

そこには、職人としての、確かな誇りと、覚悟が宿っていた。


「てめえの、その折れちまった安物の代わりを、俺が打つ。この、ゴードン・アイアンハンドの、生涯最高の一本を、お前のために、打たせてくれ」


その言葉は、もはや、問いかけではなかった。

職人の、魂の誓いだった。

俺は、ただ、黙って、力強く、頷いた。

工房の炉に、再び、赤い、赤い炎が、力強く燃え上がった。

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