すれ違い勇者と、だいたい何とかなる俺の異世界道中
Gaku
第一部:出会いとすれ違いのプレリュード
第1話:トラックに轢かれたら、そこは異世界だったが、まあいいか。
死んだ。
うん、まあ、死んだんだろうな、これは。
意識の最後の記憶は、アスファルトの無機質な匂いと、甲高いブレーキ音、そして視界の端で弾け飛んだ、小さな赤いランドセル。ああ、あと、月曜の朝から叩きつけられた上司の理不尽な叱責と、今月のクレジットカードの請求額。人生の最後に思い出すのがそれかよ、と我ながら情けなくなる。
俺、佐藤陸(さとうりく)、享年二十八。しがないシステム会社の平社員。趣味は週末の寝だめ。特技は満員電車での完璧な立ち位置の確保。彼女いない歴は年齢とほぼイコール。可もなく不可もない、しかし明らかに可の方には寄っていない、そんな人生だった。
交差点で、信号が点滅していた。向こう側から、小さな女の子が母親の手を振りほどいて駆け出してくるのが見えた。その足元に、コロリと転がる防犯ブザー付きのスマートフォン。今どきの小学生はそんなハイテクなものを、と感心したのも束の間、女の子はそれを拾おうと道路に飛び出した。左手から、巨大なトラックが迫っていた。
そこからの俺の行動は、自分でも驚くほど素早かった。多分、人生で一番の俊敏性だったと思う。
「危ない!」
誰かの叫び声が聞こえた。ああ、俺か。俺が叫んだのか。
子供を突き飛ばし、代わりに自分が宙を舞う。スローモーションの世界で、空の青さだけがやけに目に焼き付いた。ああ、そういえば、ここんとこずっと、会社の天井かモニターしか見てなかったな。空って、こんなに青かったんだな。
衝撃は、なかった。
ただ、ぷつり、と。
古いテレビの電源が切れるみたいに、俺の世界は終わった。
◇
「――というわけで、あなたは誠に残念ながら、お亡くなりになりました」
気づけば、俺は真っ白な空間にいた。
床も、壁も、天井もない。ただ、どこまでも続く白。目の前には、透き通るような白い衣をまとった、とんでもない美人が浮いている。背中からは光の翼まで生えていて、頭上には天使の輪っかみたいなものが、くるくる回っている。非現実的すぎて、逆に現実感があった。
「はあ、そうですか」
俺の返事は、自分でも驚くほど気の抜けたものだった。
目の前の女神様(仮)は、完璧な微笑みをピクリと引きつらせた。
「え? あ、はい。そうです。…えっと、何かこう、質問とか、悲しみとか、怒りとか…ございませんか?」
「いや、特に。未練もないんで」
「み、未練…」
女神様(仮)は絶句している。その表情には「え、この人、人生コスパ悪すぎない?」と書いてあるように見えた。失礼な。こっちだって、もう少しマシな人生を送りたかった。
「こ、コホン! とにかく! あなたのその勇敢な自己犠牲の精神に免じ、素晴らしいチャンスを差し上げましょう!」
女神様(仮)は、仕切り直すようにパンパンと手を叩いた。途端に、俺たちの間にキラキラと光るウィンドウが出現する。おお、なんかそれっぽい。
「剣と魔法の異世界『アストリア』へ、あなたを転生させてあげます! 新しい人生、今度こそ謳歌してください!」
「はあ」
「そこで! 転生するにあたり、特別な力、いわゆる『チート能力』を授けましょう! さあ、何がいいですか? 全ての魔法を操る力? 神をも断ち切る聖剣? それとも、全ての女性を虜にする魅了の魔眼…きゃっ」
最後のを言う時、女神様(仮)は少し頬を染めた。ノリがいい人らしい。
俺は少しだけ考えて、口を開いた。
「じゃあ、そうですね…」
ゴクリ、と女神様(仮)が固唾を飲む。
「頑丈な体が欲しいです。ゴキブリみたいに、何があっても死なないくらいの」
「……はい?」
「あと、うーん…物事の本質が、なんとなく分かる、みたいな能力がいいです。空気読むの苦手なんで」
「…………」
女神様(仮)は、今度こそ完璧に固まっていた。その顔は「私が用意したSランクレアスキルリスト(渾身の出来)を全否定されたんだが?」と物語っていた。
「あ、あの…聖剣とかは…」
「いらないです。手入れが面倒くさそうだし、重いじゃないですか。肩こるの嫌なんですよ」
「ま、魔法は…」
「呪文とか覚えるの無理です。パスワードすら覚えられないのに」
「み、魅了の魔眼は…!」
「コミュニケーションがそもそも面倒なんで、寄ってこられても困ります」
もう、女神様(仮)は泣きそうだった。綺麗な顔がくしゃりと歪むのを見て、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「わ、分かりました…もういいです…。あなたの望み通り、『神々の祝福(ゴキブリ級の耐久性)』と、『深淵を覗く目(なんとなく本質が分かる)』を授けます…。ああ、私の用意したカッコイイ名前のスキルたちが…」
ぶつぶつと何かを呟きながら、女神様(仮)が俺に指を向けると、ふわりと体が光に包まれた。
視界が白に染まる直前、女神様(仮)が叫んだ。
「こ、今度こそ! 幸せになるんですよーっ!」
それは、なんだか母親にでも叱られているような、不思議と温かい響きだった。
◇
次に目を開けた時、俺の視界に飛び込んできたのは、見たこともないほどの、青だった。
空が、青い。
日本の、排気ガスやPM2.5に汚染された空ではない。まるで生まれたての地球にでも来たかのような、どこまでも純粋で、深く、吸い込まれそうなほどの青。白い絵の具を溶かしたような雲が、ゆっくりと、本当にゆっくりと流れていく。
体を起こすと、視界いっぱいに広がるのは、緑の絨毯だった。
地平線の彼方まで続く、なだらかな草原。風が渡るたびに、草の海がさわさわと波打ち、緑の濃淡が美しいグラデーションを描き出す。背の高い草もあれば、地面を這うように広がるクローバーのような草もある。その合間合間に、名も知らない小さな花々が、赤や黄色、紫といった色とりどりの点描を加えていた。
ふわり、と風が頬を撫でる。
その風は、匂いを運んできた。
青々とした草いきれの匂い。少し湿った土の香り。そして、微かに混じる、蜜のように甘い花の香り。都会の、アスファルトとコンクリートと、誰かの香水の匂いしかしない世界とは、まるで違う。肺の隅々まで満たしていく空気が、あまりにも綺麗で、美味しい。
太陽の光は、真上から降り注いでいた。
日本の夏のような、肌を刺すような暴力的な日差しではない。かといって、冬の頼りない陽光でもない。春のうららかな日差し、とでも言うのだろうか。ぽかぽかと温かく、目を細めると、草の葉一枚一枚が光を透かして、エメラルドのようにきらきらと輝いているのが見えた。
俺は、しばらく呆然とその場に座り込んでいた。
死んだはずだ。
女神に会った。
異世界に来た。
頭では理解している。理解しているが、この圧倒的な現実感を前にすると、そんな理屈はどうでもよくなってくる。
「……さて、と」
俺は呟き、両手両足を投げ出して、草原にごろりと寝転がった。
チク、と草の先が首筋をくすぐる。地面からは、太陽に温められた土の匂いが立ち上ってきた。見上げる空には、遮るものは何もない。
これからどうしようか。
生きるためには、何をすればいいのか。
食料は? 寝床は? 魔物はいるのか?
そんな、当たり前に抱くべき不安や疑問が、不思議と湧いてこなかった。
なぜなら、考えても仕方がないからだ。情報が、何一つない。
過去を悔やんでも、死んだ事実は変わらない。未来を憂いても、何が起こるか分からない。
それなら。
「……まあ、いいか」
俺は目を閉じた。
風の音が、子守唄のように聞こえる。
鳥の声が、遠くで響いている。
肌に当たる陽光が、心地よい。
俺にできるのは、今、この瞬間を、感じることだけだ。
そして、今、この瞬間の俺は、猛烈に眠かった。
「とりあえず、一眠り…しよ…」
意識は、あっという間に心地よい闇に沈んでいった。
これが、俺の異世界での、記念すべき最初の行動だった。
◇
ぐうぅぅぅぅぅぅ………。
腹の虫の、あまりに盛大なオーケストラで、俺は目を覚ました。
空を見上げると、太陽は少し西に傾き、空の色が深い青から、燃えるようなオレンジ色へと変わり始めていた。どうやら、かなりの時間、文字通り道端で眠りこけていたらしい。
体を起こすと、腹のあたりに何やらモゾモゾとした感触があった。見ると、手のひらサイズの、ウサギとリスを足して二で割ったような、やたらと毛の長い生き物が、俺のシャツの切れ端を懸命に引っ張っている。どうやら、巣の材料にしようとしていたらしい。
「おっと、そいつは一張羅なんだ。勘弁してくれ」
俺が言うと、その生き物はピクリと動きを止め、くりくりとした黒い瞳で俺を見つめた後、ぴょん、と跳ねて草むらの中に消えていった。
頑丈な体にしてくれ、とは言ったが、服まで頑丈になるわけではないらしい。まあ、当然か。
さて。
状況を整理しよう。
俺は異世界にいる。所持品は、着ているこの安物のシャツとズボンだけ。金も、食料も、知識もない。ないない尽くしだ。
だが、今の俺にとって、最も優先すべき事項はただ一つ。
猛烈に、腹が減った。
生命の危機とか、今後の人生設計とか、そういう高尚な悩みは、腹を満たしてから考えるべきだ。それが道理というものだろう。
「腹が減っては戦はできぬ、って言うしな。いや、戦する予定は全くないけど」
俺は一人でツッコミを入れ、立ち上がって伸びをした。
さて、どっちに行くか。
見渡す限り、360度、草原。道もなければ、目印もない。
ここで役に立つのが、女神様(仮)にもらった、あの胡散臭い能力だ。
『深淵を覗く目(なんとなく本質が分かる)』
俺は目を閉じ、意識を集中する。
すると、頭の中に、ぼんやりとしたイメージが浮かんでくる。
こっちの方向は、なんとなく『行き止まり』って感じがする。
こっちは、『危険』な匂い。
そして、あっちの方向からは…微かに、パンの焼ける香ばしい匂いと、人々の賑わいの『気配』がする。
「よし、決まりだ」
俺は、その『気配』がする方角へ向かって、ゆっくりと歩き出した。
急ぐ必要はない。どうせ腹は減っているし、日が暮れるまでにはまだ時間がある。
道端に咲いている、ラッパのような形をした青い花を摘んで、その香りをかいでみる。ミントのような、すっとした爽やかな香りがした。
面白い形の石を見つけては、サッカーボールのように蹴ってみる。石は放物線を描いて、ぽとりと草むらに落ちた。
空を飛ぶ、翼が四枚ある奇妙な鳥の群れを、飽きもせずに眺める。
死ぬ前の俺は、いつも何かに追われていた。
納期に追われ、時間に追われ、ノルマに追われ、人間関係に追われていた。
空を見上げる余裕も、道端の花に目を留める心のゆとりもなかった。
でも、今は違う。
俺を縛るものは、何もない。
過去も、未来も、ここにはない。
あるのは、どこまでも続くこの道と、「今、ここ」を生きている俺だけだ。
夕焼けが、草原を金色に染め上げていく。
吹き抜ける風が、少しだけ冷たくなってきた。
俺は、なんだか無性に愉快な気分になって、鼻歌交じりに歩き続けた。
その先で、どんな出会いが待っているのか。どんな理不尽が待ち受けているのか。
そんなことは、その時が来たら考えればいい。
今はただ、この腹の虫を黙らせる、温かくて美味しそうな晩飯のことだけを考えていよう。
俺の異世界での人生は、こうして、実にしょうもない動機で始まったのだった。
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