翡翠の手記③ 『処分について』

 今朝の空気は、昨夜の騒乱が嘘のように澄んでいた。主が穏やかな眠りから覚め、共に食卓を囲めること。

 

 これ以上の幸福はない。しかし、僕の胸の奥には、陽光に透かすことのできない鉛のような重みが残っていた。


 ――あの「双六」である。

 身の程知らずの術師が主の屋敷に入り込もうと送り込んできた呪物。主を陥れようとしたその邪悪な意図は、今や盤面の中に封じ込めたはずだが、それでもなお、この箱からは執着が腐敗したような、嫌な気が漏れ出している。主の清らかな魂に、これ以上この因果を触れさせるわけにはいかない。


 主が取り出した龍の根付けに導かれ、僕たちは「朧ヶ巷路地」へと足を踏み入れた。

 そこは此岸と彼岸のあわい。日常の理がほどけ、不可思議が存在している場所。この「余燼堂」こそが、呪いの行き止まりとして最も相応しいと僕は判断した。


 店の扉を開け、立ち上る香煙の中に店主の姿を認めたとき、僕は密かに仲間たちへ合図を送った。一瞬だけ紅玉と真珠の瞳を捉える。言葉は必要なかった。長年、主を共に守ってきた彼らとは、瞬き一つの間に千の言葉を交わすに等しい。二人は小さく、だが力強く頷いてくれた。


「主さん、主さん!見て、あの棚!あっちにすっごく可愛い髪飾りがある!私、新しいのが欲しいなぁ。ね、一緒に選んで!」


 紅玉が殊更に明るい声を上げ、主の腕に甘えるように抱きついた。その無邪気な仕草に、主の意識が僕から逸れる。

 帳場の奥から現れた李央殿も、眼鏡の奥の瞳で状況を瞬時に察したようだった。


「あ、それならこちらへどうぞ。ちょうど、お嬢さん方に似合う季節を閉じ込めたような髪留めが入っているんですよ」


 柔らかな微笑みを浮かべ、自然な所作で主たちを店の奥へと導く李央殿。その手際は、まるで淀んだ水を清流へ流すかのように淀みがない。

 主がふと不安げに振り返り、


「翡翠は……?」


と口にしようとしたが、その声が届くより早く、真珠が背後から主の肩を抱くようにして遮った。


「いいじゃねーか。李央さんの目利きは確かそうだぜ。俺も翡翠も古道具見てぇし。主は紅玉に付き合ってやってくれよ」


 真珠の声が、主の背中を優しく押す。そうして主は、紅玉と真珠、そして李央殿に囲まれるようにして、僕と店主が対峙する帳場から遠ざけられていった。その背中を見送りながら、僕は心の中で小さく詫びる。

 

 主、貴方の目に入れて良いものは、美しい世界だけでいいのです。嫌なことは忘れてください。


 主の気配が遠ざかり、店内には静寂が降りた。


 帳場台の向こう側、煙管をくゆらす店主の視線が僕を射抜く。僕は音を立てぬよう、慎重に風呂敷包みを台の上に置いた。


「……ほう?呪具だな」


 店主の低い声が、店内の古びた品々を共鳴させるように響いた。

 静かに頷き、その品が持つ忌まわしき経緯を説明した。あの術師がどのような慢心から主を狙い、そして自分たちが返り討ちにしこの箱の中に閉じ込めるに至ったか。


 風呂敷の結び目を解くと、中から現れたのは、年季の入った黒ずんだ木製の双六箱だ。

 蓋を閉じていてもなお、中から漏れ出す術師の絶望と逆恨みの気が、毒霧のように帳場の上でうごめく。


 店主は煙をふぅ……と吹きかけ、大きな手でその禍々しい箱を愛でるように撫でた。


 箱が怯えた様な気配がした。やはりこの御仁はかなりの神格だ。


「くっくっく……。なるほど、こいつはいい。しかし、なかなか怖い神様だねぇ、おまえさん達は……。術師を閉じ込めるなんざ、生半可な力じゃあできやしない」


 店主は愉悦に満ちた笑みを浮かべた。

 箱の中から伝わってくる、術師の「ここから出してください」という無様な足掻きと、永遠に繰り返される盤上の絶望。それらすべてを、店主は骨董屋としての好奇心で飲み込んでいく。


「これは骨董屋冥利に尽きる品だ。持ち主の情念がここまで凝縮されたものは、そうそうお目にかかれない」


 僕は笑顔を崩さぬまま、これを買い取っていただけるか、と店主に問うた。

 店主は満足げに喉を鳴らし、深く頷いた。


「ああ、もちろんだとも。

うちのコレクションに、ちょうどいい特等席を空けておこう。……李央に後で代金を持って来させるよ。お前さんたちの主への『手間賃』も込みで……たっぷりとね」


 その言葉を聞いた瞬間、僕をずっと押さえつけていた霧が晴れるように消えていった。


 忌々しいと思っていたあの箱が、ようやく僕たちの守るべき領域から切り離されたのだ。


 ふと見れば、店の奥から主の楽しげな笑い声が聞こえてくる。


 僕は大きく深呼吸をし、肺の中に残っていた呪いの澱をすべて吐き出した。


 代金など、いくらでも構わない。

 主が、美しい物を手にして笑その一瞬の輝きを守るためであれば、僕は何度でも、この手を闇に染めるのも躊躇いなどない。


 安堵の吐息と共に、僕は帳場を離れた。

 主の待つ、光の射す場所へと戻るために。

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