6
「ハイ」
長谷川はあきらめずに挙手した。反応はなかった。見回すと、角の方に立っていた内山と目が合った。内山は顔の汗をハンカチで拭きながら長谷川の元に駆けつけた。
「私が、お願いします、と言ったら一斉に保存ボタンを押して下さい」
岡林が声を張り上げた。内山が半ば息を切らしながら長谷川の横にしゃがみ込んでいた。
「これは、なんでタイトルも本文も入力しなくてもいいの? 運動会のお知らせと文化祭のお知らせで何が違うの? 運動会の方だけ覚えればいいわけじゃないの?」
「えっとそれは……」
内山は顔を俯かせ気味に返答に窮した。
「保存ボタンを押すだけでいいの?」
「は、はい……」
長谷川は彼の表情をのぞき込んだ。内山が少し顔を上げた時だった。
「これは一体何のための操作なの?」
内山は、ぎこちなく唾を飲み込むと、胃の中から絞り出すようにして答えた。
「実際にやってみれば……わかります」
長谷川は彼の表情に並々ならぬ熱意のようなものを感じ取った。
「やってみれば?」
「はい……」
内山は目を血走らせながら長谷川の顔を見た。長谷川は思った。こいつはいい表情をしている。彼を信じてみようと思った。
「まずやってみる、か。なるほど!」
「はいっ」
内山は急いで立ち上がると、スクリーンの横に走り去った。
長谷川は保存ボタンにマウスポインタを合わせると、すぐにクリックできるように構えた。
教室は少しざわついていた。みんな何を心配してるんだ。やってみればわかるんだよ。何も心配することなんかないのに。長谷川はマウスを構え、画面に見入りながら一人でつぶやいた。
「はい! お願いします!」
岡林が叫んだ。長谷川は蠅叩きで蠅を仕留めるような勢いでマウスをクリックした。
緑が丘高校掲示板には、「タイトルなし」の文書だけが一覧に表示されていた。
職員室は一斉に静まったが再びあちこちで私語が始まった。岡林はその瞬間、内山に目で合図をすると声を張り上げた。
「これで、本日の研修を終了します。ご静聴ありがとうございました」
岡林とアシスタントの男は斜め三十度の角度でお辞儀をすると、スクリーンを片づけることもなく、足早に職員室から去っていった。
彼らが職員室のドアを閉めた瞬間、職員室は一斉にどよめいた。
「もう終わり?」
「おかしいな。昨日受講した先生方はもっといろいろやってたぞ」
「片づけもしないなんて」
「いや、続きがあるんだろ」
「トイレじゃないのか」
「だけど、ありがとうございましたって言ってたぞ」
「講師が替わって続きをやるんじゃないのか?」
しかし、岡林と内山は戻ってこなかった。彼らの代わりとなる講師らしき者もやって来ることはなかった。
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