第4話:傾く天秤



第四話:傾く天秤


前夜、重美の自宅。夕食を終え、リビングのソファに座る母親は、重美の顔をじっと見つめていた。重美の目には、まだウサギの件と鷹仲先生への恐怖が宿っている。

「重美、昨日の先生の話、お母さんも聞いたわ。アイツ、本当にやり方が汚いのよ」

母親の声は低く、抑えられているが、その中に含まれる怒りが重美にも伝わってきた。

「先生だもの、捕まるようなことしてるんだから、うまく立ち回らないと危ないって言ったけど……。でも、ウサギのこと、あなたに濡れ衣を着せようとしたり、そんなに子供を追い詰めるなんて、許せないわ」

母親はそう言うと、重美の肩を掴んだ。

「重美、あなたならできるわ。あの先生、万年筆をよく使ってるでしょ? あそこには、何か証拠になるものが入ってるかもしれない。あの先生の万年筆を、ウサギ小屋のケージに投げ込んでみてくれないかしら」

重美は母親の言葉に息を呑んだ。鷹仲先生の万年筆? それをウサギ小屋に投げ込む?

「でも、どうやって……?」

「大丈夫。明日、先生の机からそっと借りてきて、部活の後、夕方にウサギ小屋まで持っていくのよ。誰も見ていない隙にね。もし見つかったら、先生にバレたら大変なことになるかもしれないけど……。アイツ、万年筆くらい、どうということはないわ」

母親はそう言いながらも、その瞳には不安の色も浮かんでいた。しかし、鷹仲先生への怒りと、娘を守りたいという気持ちが、その不安を上回っているようだった。母親は重美の手を強く握りしめた。

「お母さんは、重美の味方だから。うまくやれば、先生の悪事が暴けるかもしれないんだから」

重美は母親の熱意に押し切られるように、小さく頷いた。恐怖と、母親に認められたいという複雑な思いが入り混じっていた。


翌日、重美は母親の言われた通りに行動した。放課後、部活動の片付けを終え、誰もいない教室の鷹仲先生の机へと向かった。心臓がバクバクと鳴り、手が震える。幸い、鷹仲先生は既に職員室に戻っていたようだ。机の上には、使い込まれた黒い万年筆が一本、無造作に置かれていた。重美は周囲を窺い、素早くそれを手に取った。万年筆は、鷹仲先生の匂いがかすかに染み付いているような気がした。


重美は部活の着替えを済ませ、バッグに万年筆を隠し持つ。夕暮れ時の校庭は、昨日に増して静まり返っていた。部活動の残り香が、熱を帯びた空気に溶け込んでいる。重美は一人、校舎の影を縫うように歩き、誰もいないウサギ小屋へと向かった。ケージの中では、昨日の悲劇の舞台となった白いウサギが、静かに横たわっていた。


重美は息を止め、母親に渡された万年筆をケージの網目に滑り込ませた。カチャリ、と金属音が響く。万年筆は、ウサギの傍らに、まるで罪証のように転がった。それを確認した重美は、そのまま駆け出した。万年筆を投げ入れたことで、何かが変わるのだろうか。それとも、すべてがさらに悪化するだけなのか。重美の心は、恐怖と、母親への複雑な思いで締め付けられていた。


その日の夕方、鷹仲先生は重美に連絡を取った。

「谷本、ウサギのケージの中に、私の万年筆が入っていただろう? あれはどういうことだ?」

鷹仲先生の声は、普段の穏やかさとはかけ離れ、氷のように冷え切っていた。重美は全身が凍り付くような感覚に襲われた。母親の指示に従っただけなのに。しかし、鷹仲先生の問いには、答えるべき言葉が見つからない。


「先生、私は……」

重美が言葉を紡ぎ出そうとした、その時だった。鷹仲先生は重美の言葉を遮るように続けた。

「ウサギの死について、君に疑いがかかっている状況は理解している。だが、これは君の責任を曖昧にするためのものではない。むしろ、君が私に対して何をしようとしているのか、その意図をはっきりさせてもらう必要がある」

鷹仲先生の言葉は、重美をジワジワと追い詰めていく。母親の思惑は、鷹仲先生の予想以上に、彼を刺激してしまったのかもしれない。鷹仲先生は、重美の弱みを利用して、さらなる心理的ゲームに引き込もうとしているのか。重美は、これから一体どうなってしまうのか、全く見当がつかなかった。


翌朝、校舎は騒然としていた。


ウサギ小屋の様子を見に来た飼育係のクラスメイト、タカシが、真っ青な顔で駆け込んできたのだ。

「みんな! ウサギのケージの中に、なんか変なものが入ってる!」

皆がウサギ小屋に集まると、そこには昨晩重美が投げ込んだ、鷹仲先生の黒い万年筆が、まさに母親が言っていた通り、ケージの中で無造作に転がっていた。その横には、弱々しくも息をしているウサギがいた。まだ死んではいない。だが、万年筆のせいで動けなくなっていたのか、明らかに弱々しく、怯えている様子だった。


生徒たちは万年筆を見てざわめいた。「あれ、先生の万年筆じゃない?」「なんでこんなところに?」重美は、その場に立ち尽くすしかなかった。万年筆がウサギの近くにあったこと、それがなぜかウサギの衰弱と結びつけられ、自分自身にも疑いの目が向けられかねない状況になっていた。母親の「証拠になるかもしれない」という言葉は、皮肉にも、自分に疑いの矛先を向けさせるための道具になってしまったのだ。


「先生の万年筆……? ウサギがこれで怪我でもしたら……」

誰かのそんな囁きが、重美の背中に冷たい風を送り込んだ。重美は、自分が意図せずして、鷹仲先生の思惑通り、あるいはそれを超えて、事態をさらに複雑にしてしまったことを悟り、言いようのない恐怖に襲われた。母親の計画は、思わぬ方向へと転がり始めていた。


その日の午前中の職員会議。


鷹仲先生はいつものように落ち着いた様子で席についていたが、ふと、自身の机の上を見た時、眉をひそめた。

「……おかしいな」

黒い万年筆が見当たらないのだ。普段から持ち歩くようにしていたそれを探しても、ポケットにもカバンの中にもない。職員室の中を探し回ったが、どこにも見当たらない。鷹仲先生の顔に、微かな動揺の色が浮かんだ。その時、ふと昨日の放課後、校庭の片付けをしていた重美の姿が脳裏に浮かんだ。何か彼女に関係があるのだろうか?


偶然、廊下で重美とすれ違った鷹仲先生は、彼女の顔を見た瞬間、その表情に気づいた。昨日よりもさらに憔悴し、何か罪悪感を抱えているかのような、微かに顔色が悪い重美。その様子を見た鷹仲先生は、万年筆がなくなったことと、昨日の重美の微妙な表情の変化を結びつけた。


鷹仲先生は重美にゆっくりと近づき、耳元で囁いた。

「谷本、万年筆のこと、何か知らないか?」

その声は、凍るように冷たかった。重美は、鷹仲先生の視線が鋭く自分を射抜いているのを感じ、思わず顔を上げた。その目に映った鷹仲先生の顔は、昨日見た歪んだ表情よりも、さらに深い底知れなさを湛えているように見えた。重美は、言葉を失い、ただ鷹仲先生の視線に晒されるばかりだった。その間、重美の口元には、かすかに苦笑いが浮かんだ。母親の計画は裏目に出たが、同時に、鷹仲先生の万年筆を探す労力は、彼女を更なる恐怖の淵に突き落とすための、鷹仲先生の新たな一手なのだろうと、重美は直感していた。彼女の苦笑いは、自嘲と、これから起こるであろうことへの諦め、そしてわずかな抵抗の意志の表れだったのかもしれない。


そして、その日の午後。


鷹仲先生は、重美が万年筆を投げ込んだことを確信したかのように、彼女に話しかけてきた。

「谷本、ウサギの件で、君が私の万年筆をケージに入れたこと、そしてそれがどういう意図だったのか、お母さんも交えて話す機会を設けたいと思っている」

鷹仲先生の言葉は、重美の予想を遥かに超えていた。母親の名前まで出して、事を大きくしようとしている。重美は、母が鷹仲先生に何かを抱いているのか、それとも鷹仲先生が母と何らかの関係を持っているのか、考えもつかないことに思いを巡らせた。昨日の夜、母親が「アイツ、手強いよ!」と言っていた意味が、今なら理解できた気がした。鷹仲先生は、自分の悪事を隠蔽するだけでなく、周到に計画を練り、相手の弱みを巧みに突いてくる、底知れない人物だった。重美は、この状況からどう逃げればいいのか、途方もない不安に襲われた。


第五話予告:沈黙の檻


鷹仲先生の追及は、重美だけでなく、その母親にまで及ぶ。万年筆の件を皮切りに、鷹仲先生は巧みな言葉で重美を心理的に追い詰め、母親の思惑さえも利用しようとする。学校という閉鎖空間の中で、孤立無援の重美は、教師の冷たい視線と周りの疑いの目に晒される。事態は思わぬ方向へと進み、重美はさらなる窮地に立たされる。鷹仲先生と重美の母親の隠された関係性が、徐々にその姿を現し始め、重美の絶望は深まっていく。一体、鷹仲先生の真の目的は何なのか? そして、その歪んだ執着の先に待つものは? サスペンスフルな展開が、読者を更なる深みへと誘う。

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