7
央間邸に着いたら、主たる道鷹にどんなことを言ってやろうか。いや、主人自らお出ましになるはずはないから、従者に対してどんな口実を使うか。それとも、もう高飛びでもしていたらどうしよう……。
紗百合と怜とは、各々そんなことを考えながら、如月邸の廊下を並んで歩いていた。その後ろを邦明と警官がついていく。一同は全く口を噤んで、足音ばかりが壁に反響する……。
頭の中で様々に思案しつつ、玄関へ。怜がいつも通り扉を開けて、客人の紗百合を先に立たせる。彼女も何の気なしに一歩外に踏み出して……。
その途端、彼女は鋭く息を呑み、立ちすくんだ。
「やあ、待っていたよ、紗百合さん」
敷石道の上に立ちはだかり、にやにや笑いを浮かべているのは央間道鷹に間違いない。そしてその背後には、数十人もの軍服姿の男達が、こちらに銃口を向けたまま横一列に並んでいる。
「そこにいる若者はお連れかい」
半ば嘲弄するように問う道鷹。その眼差しは、紗百合の後ろに立つ怜に投げかけられる。彼もまた、道鷹の眼をきつく睨み返していた。
「紗百合、どうしたんだい。まさか央間氏がもう――」
怜は玄関の扉を半開きにしてそこから身体を出しかけていたのだが、ふと内から邦明が呼びかける声がしたので後ろ手で制した。邦明も事態を察したとみえ、それ以上食い下がることはしなかった。代わりに胸ポケットから手帳と鉛筆を取り出した……。
紗百合は内心の怖れを読み取らせまいとして、わざと強気に切り出す。
「央間さん、もう私達何もかも知っていますわ。富貴氏があなたと共謀して色々な悪事を働いたと、はっきり認めたんですもの。証拠になる書類も手元にあるわ。潔く観念なさい」
「悪事? どんなことを」
「一番には、ダイヤモンド鉱山を掌中に納めようとしていたこと。実際は硝子工房よ」
「ハッハッハ……如月には硝子工房しかないことくらい、初めから知っていたさ。だが奴さんの重い腰を上げさせるには、ああ言うほかなかったんでね」
「そう、わかっていてなさったのね。では、地盤の弱い土地に大劇場を建設したのも、わざと? 大惨事を引き起こした罪を如月家に負わせるために?」
「勘がよいね。だがあまり悪く取ってもらっては困る。俺だって仮にも土地の長だ。地元の得になることを俺なりに考えている。……つまり、地元の発展を優先した結果の不幸だったのだよ」
「人でなし」
紗百合の漏らした罵りは、彼女の口中にくぐもって、相手には聞こえなかったらしい。彼はなお鷹揚に笑って続ける。
「地元の未来が明るくなることを思えば、多少の犠牲は仕方あるまい。せいぜい立派な慰霊碑でも建ててやるさ。そうすればあの辺もまた栄えるだろうよ、ハハハハ……」
「人でなしッ!」
今度は全身を慄かせて、力一杯叫んだ。しかしながら根っからの悪党の道鷹は、それすらも笑い飛ばした。紗百合はどれほど悔しく思っただろう……。
「どうだい紗百合さん、俺の悪事はそれきりかい? 他にもあるというなら、この場で言いたまえ。みな見事に釈明してみせるよ」
「……如月邸の庭で私に眠り薬を嗅がせて誘拐したのも、あなたかしら」
「ああ」
「何のために? それまでも私と瑶子は二人きりで旅をしていたのだし、いくらでも機会はあったでしょう。瑶子も一緒に連れていった方が、あなた方の目的には適いそうなものだし、なぜ私ひとりの時を狙ったのか、わからない」
「紗百合さん、君はひとつ大切なことを忘れている」
「何かしら」
「君は私の婚約者だってことをさ。婚約者たる君を掌中に入れるのが私の使命なのだ。体面を保つ上でも、自分を満足させる上でも。……そのために、君には塔の頂上で失意に涙する姫君でいてもらわなきゃならなかった。焦らしに焦らして君が憔悴した頃にやっと、無実の婚約者を救出する英雄として現れるはずだったのだが。生憎、如月のお坊ちゃん達に先を越されてしまったよ、ハハハハ」
「何て身勝手なの、あなたは……」
紗百合の表情にも仕草にも、今度ははっきりと憎悪の色が現れる。ふと、肩に熱さと圧力を感じたので、見ると、怜の手がわななきながらも置かれていた。この手に抑えられているがために、紗百合は辛うじて正気を保っていられた。
その様を暫し眺めていた道鷹は、おもむろににやりと笑う。
「紗百合さん、さっさとここを出て外国にでも逃げようじゃないか。俺達の罪は、富貴家と如月家がみな引き受けてくれるさ」
「嫌よ。断じて私はここを動かないわ」
「嫌がるのなら、そこの仮面の男もろとも証拠隠滅だが、構わないかね? 俺の後ろに並んでいるのは全員、優秀な射撃手だよ」
「……」
居並ぶ私兵達の顔は何れも無表情で、銃口は寸分違わずこちらを向いている。懸命に踏ん張っていた紗百合の足が揺らぎかける。
彼女の胸の内では、良心と愛情が激しく相克していた。道鷹のような悪鬼を許すわけにはいかない。自分が助かるために肉体を捧げて、人々を裏切るなんて絶対にしてはならない。そうするくらいなら、最期まで抵抗の気概を抱いて雄々しく死んだ方が、ずっとずっと気分がよい。けれど、死ぬのは自分ひとりではないのだ。それを考えると……。
彼女の迷いを見透かしたように怜は、力強い声を頭上に降らせる。
「紗百合様、邸内にお逃げ下さい。私が楯になりますから」
「だめよ!」
思いがけず大きい、甲高い声が出て我ながら驚く。殆ど絶叫といってよかったであろう。そして、自分の前に身を挺そうとする怜を、縋りついて押し止める。二人はこれまで敵を警戒するのに向けていた眼差しを、互いの瞳に向け合った。双方とも、互いを自らの代わりに生き永らえさせようと、必死である。なりふり構わぬ熱情が、二人を支配していた。
「紗百合様、ご家族にこれ以上ご心配をかけてはなりません。あなたのお生命は、あなただけのものではございませんのです」
「それを言うなら、あなただってそうよ。第一、あなたの生命は、瑶子に助けられたから存在している。こんなクズ男のために死んじゃ瑶子に済まないとは思わないの!」
「けれどそのためにあなたを見捨てたら、私の生命は一体何の役に立ったといえるのです? 瑶子様にお救いいただいた生命だからこそ、あなたのために使いたい」
紗百合にもわかる。怜の言葉は、紛れもない本物であると。芝居や何かの台詞ではない、本心の迸りであると。彼は本当に、自分のために死ぬことを望んでいる。
これ以上の押し問答は無駄だと、紗百合の胸に囁きかけるものがある。打ち消そうとしてもたちどころにまた現れる、その声ならぬ声は、天使のものか、悪魔のものか? わからないけれど、紗百合に決心を促していることは明らかだ。――彼女は、怜の諸手を強く握りしめた。
「怜さん、あなたの気持ちはよくわかったわ。でも、私は逃げない。あなたがここに残ろうと残るまいと、いつまでも踏ん張ってやるつもりよ」
「紗百合様! 私も――」
彼は言葉に詰まったが、その代わりに己の手を握りしめる彼女の手を自らの胸に押し当てた。
二人とも、身内に勇気が湧き来るのを感じていた。今ならどんなに英雄的な行為も恐ろしくないと思えるほどに。
再び道鷹の方を振り向いた紗百合の表情は、驚くほど晴れやかで、生気に溢れて美しい。
「央間さん、わかったでしょう。これが私の、いいえ、私達の、本心よ!」
「そうか。いや殊勝な心がけだ、恐れ入った。せいぜい望みを叶えてさしあげよう。二人とも、清々しくあの世に送ってやる」
紗百合と怜とは手を握り合い、身体をぴたりとくっつけ合う。
「準備はいいかね。せいぜいあの世で、結婚式を挙げるがいい。ダイヤにも見紛う硝子の祭壇で、愛を誓い合うがいい。その前に私から、鉄の餞別をあげよう。――」
彼が背後の私兵達に合図を送ったのが、気配でわかった。紗百合も怜も、今は互いの身体をきつく抱きしめ合って、痛みの来るのをただ待った。
耳をつんざく轟音――激しい銃声が戦陣のドラムロールのように鳴り響く。
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