静かな異物
燈麻がその内容に目を通していたちょうどそのタイミングで、もう一つSlackに通知が入った。
──Kamran Rahimlin(カムラン・ラヒムリン)が、チームチャンネルにジョインしました。
異動の知らせだった。異なる部署で活躍していたはずの彼が、同じプロジェクトに加わるとは思っていなかった。
カムランは、海外育ちで柔らかい物腰の持ち主だが、誰よりも組織の空気を読む。言葉は少なく、冗談もほとんど言わない。それでも、彼が話すと場が整う、不思議な存在だった。
トーマが社内で心から信頼している数少ない人物のひとり。というより、唯一かもしれない。
Slackの画面を見つめながら、燈麻はふと口角をわずかに上げた。
「……心強いな」
彼がこのタイミングでやってくる意味。それは、まだトーマ自身も知らなかった。
Slackの通知音はその後もいくつか続いたが、燈麻の意識はすでにカムランに引き寄せられていた。
あの人が、なぜ今、ここに。
プロジェクトの状況は不穏だった。仕様は変わり続け、ステークホルダーは不明瞭な指示を繰り返す。誰も明言しないが、どこかが、確実に崩れ始めていた。燈麻はそれを肌で感じ取っていた。コードレビューの密度、議事録に残らない沈黙の時間、Slackの絵文字の選び方——細部のすべてが、言葉よりも雄弁だった。
カムランはそういう兆しを見逃さない。むしろ、その「崩れ」を見にきたのだろうか?
デスクに置かれたマグカップに手を伸ばす。冷めたコーヒーに唇をつけながら、燈麻はSlackのプロフィール欄をクリックした。
──最終ログイン:3分前。
何かが始まる。
だが、それが「始まり」なのか、「終わり」なのかは、まだわからなかった。
Slackに視線を戻すと、カムランの名前の横に、小さな緑の丸が灯っていた。
──Toma-san、お久しぶりです。少しお時間いただけますか?
燈麻はキーボードに指を置いたまま、数秒、動かなかった。
「来たか……」
──もちろん。通話?それとも来る?
返信を送って数秒後、オフィスの扉が静かに開いた。
「……もう来てたのかよ」
「Slackで挨拶してからじゃないと、失礼かと思って。」
カムランは以前と変わらぬ落ち着いた口調で言った。黒いシャツの袖を軽くまくり、まっすぐに燈麻を見ている。目の奥に、観察する光が宿っていた。
「様子、聞いてたよ。あまり良くないみたいだね。」
「あまりどころじゃない。」
燈麻は椅子を少し引いて、向かいの席を示した。
「席、空いてる。……歓迎するよ。いや、助けてくれ。」
「うん、わかってる。俺も、今のままだと危ないと思って。」
数秒の沈黙。
「……何を見てきた?」
燈麻の問いに、カムランは一度だけ目を伏せたあと、静かに答えた。
「まだ全部は見えてない。でも、正体は近いと思う。」
その言葉に、背筋がわずかに粟立った。何が「正体」なのか、燈麻にはまだわからなかった。ただ、それが技術的なバグでも、組織的な齟齬でもなく、もっと根深い何かだということだけは——直感で理解していた。
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