40話 観測開始:3年128日目 / 妹はお転婆さん
テーブルに置かれたカゴから、植物の青い匂いがリビングに広がっていく。その中からしわの刻まれた手が1枚の葉っぱを取ると、目を丸くしているアリシアの小さな鼻先にそっと差し出した。
「アリシアや。ほれ、この匂いを嗅いでごらん?」
「ん? ……わ、いいにおい!」
ふわりと香る、爽やかで少し甘い匂いに、アリシアは驚いたようにぱっと目を見開く。その純粋な反応に、エバは「かっかっか」と皺の刻まれた顔をほころばせた。
「魔除草と言ってね。こうしている分には良い香りじゃが、燃やすとひどい悪臭を放つんじゃ。魔物は、この匂いが大嫌いでの。覚えておくと、いつか身を守る役に立つやもしれんよ」
「んー……わかった!」
こくりと頷く小さな頭を、エバが微笑ましく見つめていると、背後で仕事部屋の扉が開く音がした。片付けをすると言って籠ってしまったレイラが、少しだけ疲れたような、それでいてやり切った充実感を漂わせた顔で姿を現す。
「エバさん、お待たせしました」
「おお、構わんよ。こうしてアリシアと薬草の話をするのも、楽しいしねえ」
エバがゆっくりと立ち上がると、アリシアも椅子からぴょんと飛び降り、とととっと駆け寄ってレイラのスカートを掴んだ。
「ママー! おにわ、いっていい?」
「あら、今日も行きたいの?」
「うん!」
ぶんぶんとスカートを揺らす娘に、レイラは苦笑しながら窓の外に目を向けた。
魔法の練習を始めてから、家の中が水浸しになるのを避けるため庭で練習していた。それが「庭なら魔法を使って良い」という認識になったのか、最近のアリシアは毎日のように外へ出たがる。気温も下がり、外で過ごすには心地よい季節だが――。
「そうねえ……エレちゃんが一緒なら、いいかしら」
「ピッ!?」
レイラの言葉に、リビングの飾り棚の上から様子を窺っていた小鳥が、驚いたようにぱっと振り向いた。
「ほんと!?」
アリシアの顔が喜びに輝く。
「ええ。でも、危ないことはしちゃ駄目よ? お約束できる?」
「うん! おねえちゃん、いこ!」
約束するやいなや、アリシアは裏口から弾丸のように庭へ飛び出していく。その後を追って、白い小さな影も慌てて飛んでいった。
開け放たれたままのドアをレイラが閉めると、いつの間にかすぐ傍に立っていたエバと視線が合う。その深い瞳は、すべてを見通すかのように、ただ静かな微笑みを湛えていた。
「のう、レイラ。エレは……ただの小鳥じゃないんじゃろう?」
核心を突く言葉だった。けれど、レイラは動揺する素振りも見せず、穏やかに微笑み返した。
「はい。その通りです」
肯定の言葉と共に、レイラはエバの前を横切り、再び仕事部屋のノブに手をかける。その背中に、エバはさらに問いかけた。
「この前、アリシアと話しているのを見てしもうた。あの子は、一体何者なんじゃい?」
「そうですね……」
レイラは少し考える素振りを見せ、くるりと振り返ると、悪戯っぽく笑った。
「わたしの、もう一人の娘で、アリシアのお姉ちゃん、ですよ」
その答えに、エバもつられて「かっかっか」と笑ってしまう。
「それがどういう意味か、まるで分からん。……まあ、おまえさんが心配していないのなら、問題ないんじゃろうな」
「はい……エバさん」
レイラは扉を開きながら、その表情を真剣なものに変えた。
「いつか……必ず、ちゃんとお話しします」
「ん? そうかい。まあ、好きにするのがええ」
エバは鷹揚に頷くと、「さて、それじゃあ、今日持ってきた薬草の中にのう――」と、仕事部屋の中へ入っていった。
*********
丸みのあるお腹、そこから伸びる3本に枝分かれた2対の小さな翼。ちょこんと乗った頭には、塗りつぶされたような目と丸い嘴。アリシアの小さな手のひらから生まれた水色の鳥は、懸命に羽ばたこうとしたが、バランスを崩し、ぽとりと地面に落ちるのと同時にはじけて消えた。
「あー……」
きらきらと光る魔力の粒子が宙に溶けていくのを見つめ、アリシアが残念そうに眉を下げる。その頭上で、ぴったりと寄り添うように羽を休めていたエデンが、慰めるように声をかけた。
「今の、今までで一番良かったんじゃない?」
「そう?」
「うん。ちゃんと、鳥の形に見えた」
「むぅ……」
そのあまり高いとは言えない評価に、アリシアはぷうっと頬を膨らませた。不満気なその様子に、エデンは頭上からアリシアの顔を覗くと、羽をばさっと広げた。
「前よりずっと上手」
「ほんと!? えへへ」
アリシアはほっぺに手を当てると、そのままごろんと芝生の上に寝転がってしまった。その拍子に、頭に乗っていたエデンもころんと落ちてしまい、ぴょんぴょんと跳ねながらアリシアの元へ近づいていく。
「アリシア、お洋服よごしたら、ママにしかられちゃう」
「あ! だ、だいじょうぶかな?」
「んー……スカートの裾が、ちょっとだけ」
エデンは小さな羽をばさばさと動かし、アリシアのスカートについた土を健気に払い落とす。継続している魔力循環のおかげで、アリシアの魔力は日に日に増している。その恩恵はエデンにも及び、この程度の衝撃では体が割れることも少なくなった。
汚れが落ちたことに満足していると、アリシアがむくりと起き上がり、エデンを両手でそっと持ち上げて、再び自分の頭の上に乗せた。
「おねえちゃん、とりさんだして?」
「うん、ちょっと待ってて」
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[REQUEST] 新規魔法プログラム『Ice_Familiar_ver.1.0』の実行を要請。
[PROCESSING] 現象再現のため、氷結及び、リアルタイム制御アルゴリズムを構築中...
[LOADING] 基礎パラメータをロード...
> TARGET_ENTITY: 氷 (H₂O)
>> MOLECULAR_GEOMETRY: 高密度アモルファス氷構造
>> INITIAL_STATE: 温度 - 153.15K (-120°C) | 状態 - 準安定固体
> FORM_MODEL: 『アバター・ボディ』内データ 'Blue-and-white_Flycatcher' を取得
> BEHAVIOR_MODEL: 外部コマンド入力をリアルタイムで反映 (デフォルト:空中での待機姿勢を維持)
> DURATION: 任意 (術者による明示的な解除命令、または魔力供給停止まで維持)
> COORDINATES: 指定空間座標に実体化
[ROUTING] アバターの魔力を指定座標へ集束中...
[EXECUTING] 全パラメータを適用し、魔力変換及び、相転移プロセスを開始。
[SYSTEM_LOAD] 95%... 98%... [COMPLETE]
[COMMAND] Ice_Familiar.exe --RUN
--------------------
エデンの嘴の先に、魔力が青白い光となって収束していく。その冷気で周囲の空気が白く凍りつき、レイラの魔法とはまた違う、精緻で怜悧な氷の小鳥が空間に顕現した。アリシアの上空を優雅にくるくると旋回すると、ゆっくりと目線の高さまで舞い降りてくる。
「うわあ……。やっぱり、きれいなとりさん」
「とても冷たいから、手では触らないでね」
「うん。ほら、ちちちー」
アリシアは指先を鳥の嘴のように動かしてみせる。それに呼応して、氷の鳥も小さな嘴をぱくぱくと開閉させた。その仕草に、アリシアが鈴を転がすように笑う。
「アリシアも、いつかママやおねえちゃんみたいに、まほうつかえるかな?」
「私はママ様ほど上手じゃないけど……ママ様が言ってたわ。きっと上手になれるって」
「うん……うん! がんばる!」
ぐっと拳を握るアリシアを見て、エデンもこくこくと頷いた。その時、氷の鳥が放つ冷気に当てられたのか、アリシアが「くしゅん!」と可愛らしいくしゃみをする。それを見て、エデンは即座に小鳥を霧散させた。
「アリシア、そろそろ夕方だし、お家に入りましょう?」
「んー、そう? ママとエバーバ、まだおはなししてるのかな?」
「ママ様が呼びに来ないということは、そうなのかもしれないわね」
「じゃあ、いまならおへやでおいかけっこできる!」
アリシアは名案を思いついたとばかりに、家に向かって駆け出した。その振動で、頭の上のエデンがぐらぐらと揺れる。
「い、急がなくても」
「ん? だって、わぁ!?」
その瞬間、アリシアの足がもつれ、小さな体は為す術もなく、前へ、家の入り口の石段へ向かって投げ出された。
「アリシアっ!」
咄嗟に頭から飛び降り、受け止めようとするエデン。だが、小鳥の体では衝撃を殺しきれず、アリシアの体と硬い石段の間に挟まれ、パリン、と音を立てて砕けてしまう。そのまま、アリシアの額が、ごつん、と鈍い音を立てて石段の角に打ち付けられた。
エデンは即座にアバターを再構築し、うつ伏せに倒れたアリシアの顔を覗き込む。
「アリシア!? 大丈夫!?」
「……び、びっくりした……」
顔を上げたアリシアは、一瞬きょとんとした後、エデンに気づいて「だいじょうぶ!」と笑った。その笑顔にエデンはほっと胸を撫で下ろすが、すぐに凍りついた。アリシアの額から、たらりと一筋、赤い血が流れていた。
「あ、あ、アリシア!」
エデンがぎょっとしたように体を震わせるが、当の本人は「え?」と不思議そうに首を傾げている。
「どうしたの?」
「け、怪我! 怪我をしてるの!」
言われて初めて、アリシアは自分の額から頬に伝う生温かい感触に気づいた。そっと指で触れると、その指先にべったりと付いた赤い色。それを見つめ、大きく目を見開くと、やがて状況を理解し、突然「たいへん!」と大きな声を上げた。
「ママーっ!!」
「あ、アリシア!? あまり動かない方が!」
バタバタと家の中へ駆け込んでいくアリシアの背中を、エデンは必死に追いかけた。
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