第4話

 心臓が、まだうるさい。

 

 今朝の教室での一件以来、俺の心拍数は明らかに正常値を逸脱している。原因は明白。大神瑠璃――いや、瑠璃との、あの甘すぎる朝の挨拶のせいだ。


 俺は、ただ契約を遂行したにすぎない。


 昨夜合意したレギュレーションに基づき、「付き合い始めたばかりのカップル」を演じる。そのためには、彼女を特別扱いしていると周囲に明確に認識させる必要がある。恋愛攻略サイトによれば、朝の挨拶における「慈しむような笑顔」と「相手を気遣う一言」は、極めて有効な初期アプローチのはずだった。


 だが、彼女の反撃は、俺の想定を遥かに超えていた。


『あなたの声を聞いてから寝たから、ぐっすり眠れたわ』


 あのセリフを、あの、花が綻ぶような笑顔で言われた瞬間、俺の脳内の全回路がショートしかけた。なんだあの破壊力は。計算か?だとしたら、彼女の恋愛偏差値は、俺の見立てを遥かに上回る。


 頭を撫でたのも、手を繋いだのも、すべては動揺を隠し、主導権を握り直すための咄嗟の判断。いわば、防衛行動だ。それなのに、彼女はさらに「あなたの手、温かいのね」などと追撃してくる。……恐ろしい女だ。彼女とのビジネス契約は、想像以上にハイリスク・ハイリターンなプロジェクトになりそうだ。


 そして、昼休み。俺の精神を休ませる間もなく、次のミッションがやってきた。


「よぉ、紅輝! ちょっとツラ貸せや!」


 ガバッと俺の肩を組んできたのは、中学からの腐れ縁、佐伯健太。バスケ部のエースで、クラスの人気者。良くも悪くも、学園のゴシップにはやたらと詳しい男だ。そのニヤニヤした顔を見れば、用件は聞くまでもない。


「……なんだ。騒々しいぞ、佐伯」


「とぼけんな! お前、大神さんとどうなってんだよ! 今朝の教室でのアレ、クラス中が大騒ぎだぞ! さ、学食行くぞ! 全部吐いてもらうからな!」


 強引に腕を引かれ、学食へと向かう。どうやら、尋問は避けられないらしい。これも、周囲に関係を周知させるためのプロセスの一環か。ならば、ここで完璧に演じ切るまでだ。


 学食に着くと、そこには既に、健太の彼女であり、瑠璃の友人でもある女子、小野寺美咲と、その隣に座る瑠璃の姿があった。なるほど、合同尋問というわけか。美咲も、好奇心に満ちた目でこちらを見ている。


 そして、瑠璃は……。俺と目が合うと、ふわりと、またあの心臓に悪い笑顔を向けてきた。


「紅輝くん、こっちよ」


 手招きするその仕草に、周囲のテーブルから「うわ、マジかよ」「公然とイチャつきやがって……」という囁きが聞こえてくる。……すごいな。彼女はもう完全に「恋する乙女」モードに入っている。俺も、乗り遅れるわけにはいかない。


 俺は瑠璃の隣に座ると、健太と美咲に向き直った。


「で、話とはなんだ?」


「だから! 大神さんと付き合ってんのかって聞いてんだよ!」


 健太が、テーブルをバンと叩く。よし、来た。ここが正念場だ。


 俺は、はっきりと答える前に、ちらりと瑠璃の顔を見た。彼女は、少し頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いている。……完璧な演技だ。ここで俺が肯定すれば、シチュエーションは完成する。


「……ああ。昨日から、付き合ってる」


 俺がそう告げた瞬間、健太と美咲は「「やっぱりー!!」」と声を揃えた。


「マジかよ! お前、この学園のアイドルをどうやって口説き落としたんだよ!」


「ちょっと健太! 失礼でしょ! でも、私も聞きたい! 瑠璃、いつの間に!?全然そんな素振りなかったじゃない!」


 友人二人の、興奮した質問の嵐。それに、俺と瑠璃は、即席のカップルとは思えない、完璧な連携で応酬していく。


「きっかけは……まあ、色々あってな」


 俺がそう言葉を濁すと。


「私が、助けてもらったのが、きっかけ、かしら……。ね?」


 瑠璃が、絶妙なタイミングでフォローを入れ、俺に同意を求めてくる。


「助けてもらったぁ?詳しく!」


 健太が食いつく。


「それは、二人だけの秘密、だな」


 俺が少し意地悪く笑うと。


「もう、紅輝くんったら……」


 瑠璃が、俺の腕を軽くつねる。その仕草の、なんと自然なことか。


 美咲が、キラキラした目で瑠璃に詰め寄る。


「ねえねえ、瑠璃! 天弓くんのどこが好きになったの?いつもみんなに優しい瑠璃が、一人の男の子を選ぶなんて、大事件だよ!」


 これは、アドリブ力が試される質問だ。俺は固唾を飲んで瑠璃の答えを待った。


 瑠璃は、一瞬だけ思案する素振りを見せた後、俺の顔をちらりと見上げ、そして、はにかむように言った。


「……いつも、クールで、誰にも媚びないところ、かな。……でも、本当は、すごく優しいの。それに……」


 彼女は、そこで一度言葉を切り、そして、とどめの一言を放った。


「……私だけに見せてくれる、あの、とろけるみたいに甘い笑顔が……好き、です」


 ……ぐっ。


 不意打ちの、カウンター。


 好き、という直接的な言葉の破壊力もさることながら、「私だけに見せてくれる笑顔」という限定表現。周囲に「自分は特別だ」とアピールする、模範解答中の模範解答。俺は、彼女の演技力に内心で戦慄しながらも、ポーカーフェイスを崩さない。


 今度は、健太が俺に矛先を向ける。


「じゃあ紅輝は!?お前、大神さんのどこが好きなんだよ! まさか顔だけとか言うなよ!」


 俺の番か。瑠璃が完璧なパスを出してくれたのだ。俺も、完璧なシュートで応えなければならない。


 俺は、わざと少しだけ照れたように視線を逸らし、そして、覚悟を決めて口を開いた。


「……全部、だが。強いて言うなら……」


 一度、言葉を切る。そして、瑠璃の瞳を真っ直ぐに見つめて、告げた。


「……いつも、みんなに優しくて、完璧なアイドル様だけど、時々、俺の前でだけ、すごく無防備で、可愛らしいところを見せてくれる。……そういう、俺しか知らない顔を、もっと見たいと思ったから、だろうな」


 言った後、自分の言葉の恥ずかしさに、内心で身悶えする。なんだ、「俺しか知らない顔」って。キザすぎるだろう。だが、攻略サイトには「独占欲を匂わせることで、本気度をアピールできる」と書いてあった。これも、契約のためだ。


 俺の言葉に、瑠璃は顔を真っ赤にして、完全に固まっている。……おっと、少しやりすぎたか?


 だが、その沈黙を破ったのは、目の前の友人二人だった。


「「…………ごちそうさまでした!!」」


 健太と美咲は、声を揃えて天を仰いだ。


「もうお前ら、なんなんだよ! 付き合いたてでその完成度は! 漫画とかゲームでももっとぎこちないぞ!」


「わかる……! 瑠璃、そんな顔するんだ……。天弓くんも、瑠璃のこと、ちゃんと見てるんだね……。いつもみんなのお姉さんな瑠璃が、一人の男の子の前で、ただの女の子になってる……。なんか、私、感動しちゃった……!」


 美咲は、目にうっすらと涙さえ浮かべている。


 どうやら、俺たちの「偽装カップル」としての演技は、友人という最も手強い審査員さえも、完璧に欺くことに成功したらしい。


 瑠璃は、まだ顔を上げられないでいる。その耳が、林檎のように真っ赤に染まっているのを見て、俺は、少しだけ、本当に少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 これは、演技だ。


 そう、自分に強く言い聞かせながらも、目の前で照れている彼女の姿が、どうしようもなく「可愛い」と思ってしまった事実は、このビジネス契約における、想定外のバグ、だった。


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