となりの君へ

水無月朔夜

第一章 日常

 関東縦貫鉄道ときわ線、美都(みと)駅のホーム。冬の朝はまだ空が白みきらず、遠くの街灯がかすかに滲んで見える。スーツの上にコートに身を包み、白い息をうっすら吐きながら、朝六時十分発の帝都行きの普通電車に乗り込む男がいた。


 ――白石遼、二十六歳。都心のコンサルティング会社に勤めている。昨年、転職を機に実家のある美都に戻り、以来、帝都駅までの片道およそ二時間の長距離通勤を続けている。


 決して楽な距離ではない。けれど、遼にとってこの時間は、他人と距離を取りながら、自分に戻れる静かな余白でもあった。だからこそ、彼はいつも同じ席に座る――八号車、三番ドア横。乗り換え駅である北豊島(きたてしま)駅で、改札階段に最も近いその場所は、効率を重んじる遼にとっての“定位置”になっていた。


 足元にリュックを置き、軽く背もたれに身を預ける。手慣れたようにヘッドフォンを耳へと当てて、穏やかなJ―POPを聴きはじめた。歌詞の一つひとつが、まだ動き出さない朝に、そっと馴染んでいく。


 朝早くの電車だからか、車内は静かで、誰もが目を閉じて、つかの間の休息をとっている。


「本日はときわ線をご利用いただきありがとうございます。本列車は美都発、帝都行の普通列車です。停車駅は……」


 いつもの車内放送と、レールの音だけが一定のリズムで耳に届く。


 遼もそっと目を閉じた。音楽と車輪の響きに、心が少しずつほどけていくようだった。


 おおよそ一時間が経った頃、


 ……コトン。


 途中の霞(かすみ)駅での増結。十両に追加で五両が連結されるときの、ごくわずかな衝撃が車体を揺らす。それが、遼にとっての“目覚まし”だった。

 ゆっくりと目を開け、窓の外をぼんやりと見やる。まだ薄暗いホームには誰もおらず、白い息だけが風に紛れて消えていく。


 皆はここで降りて、先発の電車に乗り換える。けれど、面倒くさがりの遼は、そのまま車内に残り、再び目を閉じてつかの間の休息に入った。あと少しだけ、自分だけの静かな時間を味わいたかった。


 そして、約一時間かけて北豊島駅に向かう。


 これが遼の通勤の、何の変哲もない“日常”であった。

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