第11話 花たちの見ていたこと

 温室には、初夏の湿り気が満ちていた。

 人工的に管理された温度と光が、外界よりひと足早く夏の訪れを告げている。

 立ちのぼるのは、咲ききった花々の甘さと、わずかに発酵しかけた土の匂いだった。


 アークライン家の第二公子、セレスは、入り口で立ち止まり、胸元のリボンを直した。

 その背後では、二人の護衛が無言で控えていた。


 「……やっぱり、変わらないな」


 セレスは小さく呟き、しばし視線を彷徨わせてから、ゆっくりと歩を進めた。

 かつてこの場所は、彼の心の拠り所だった。日課のように通っていたが──悲惨な遺体が見つかったあの“事件”以来、母から出入りを禁じられていた。

 ようやく、それが解かれたのだ。


 花壇の間を抜け、ガラス越しの陽光に照らされながら、彼はふと足を止めた。

 ベンチがあった。磨かれた木材は柔らかく、そこに腰を落とすと、背筋から肩にかけて、張り詰めていた空気が少しだけ解けていく。


 「……やっぱり、いい場所だな……」


 花の名をひとつずつ思い出しながら、目で追っていく。

 青の小さな花は、ネモフィラ。

 奥の棚には、かつてこの温室を管理していたアリアという女性が愛していたという、紫のクレマチスが揺れていた。

 土の香りが衣の裾に染み込んでいく。


 だが──その静寂は、ある気配によって裂かれた。


 「……っ、なんだ?」


 護衛の一人が膝をついた。目をこすりながら、よろめくように崩れ落ちる。

 もう一人も同様だった。剣の柄に手をかけたまま、息を荒げ、立っているのがやっとという様子である。


 「……眠い……? なんで……」


 セレス自身も、額に汗をにじませた。

 脳に靄がかかるような眠気が、突如として襲ってくる。

 視界が波打ち、遠くの花がゆがんで見えた。


 ──まさか。


 鼻先を、何かが掠めた。

 花の香りとは違う。もっと濃く、もっと甘い匂い。

 果実のようでもあり、腐りかけた蜜のようでもあった。

 喉の奥にとろりと絡みつき、意識の内側にまで染み込んでくるような、得体の知れない香気──

 それが肺を満たし、思考の縁を静かにぼやかしていった。


 何かに気づきかけた瞬間、その感覚もまた、霧に飲まれていった。

 立ち上がろうとした足が震え、体がベンチへ沈むように崩れる。

 意識が地面へと引きずられていくようだった。


 「……っ、だれか……だれか……」


 声にならない声が空気に溶けていった。

 視界の端で、護衛たちがそれぞれに沈黙しているのが見えた──そのことにも、もう反応できなかった。


 花が揺れていた。

 それが自分の吐息によるものなのか、それとも他者の気配なのか──その区別すら曖昧だった。


 次の瞬間、セレスの意識は、音もなく途切れた。




 * * *




 どれほど時間が経ったのか、わからなかった。

 目を閉じているはずなのに、瞼の裏が白く滲んでいた。


 「……おはようございます、第二公子」


 その声は、まるで耳の中から直接囁かれたように響いた。

 花の香りと同化するような、柔らかく甘い声。だが、どこか底冷えする気配を孕んでいた。


 セレスは、弾かれるように目を開けた。

 身体を起こそうとしたが、全身が鈍く重く、思うように動かない。

 その肩に、誰かの手が添えられていた。


 「無理なさらないでください。……少し、深く眠っていたようですから」


 そっと背を支えるようにして、その人物は笑った。


 そっと背を支えるようにして、その人物は笑った。


 少年だった。

 黒髪に冷たい光を宿した瞳。まだ若いはずなのに、立ち姿には妙に揺らぎがなかった。

 見覚えはない。だが──なぜか、彼の存在だけが空間から浮いて見える。


 「……だ、誰?」


 セレスが掠れた声で問うと、少年は微笑みを深めた。

 その笑みには無邪気さがあった。だが、同時に、異様な静けさがあった。


 「私は、レイと申します。……第五公子ユリウス様に、お仕えしています」


 その言葉が落ちた瞬間、セレスの背にひやりとしたものが走った。

 口調も礼節も穏やかだった。けれど、声の奥には水底のような深さがあった。

 濁りのない瞳のなかに、底知れぬ“狂気”のようなものが、かすかにきらめいていた。


 「ユリウスの……」


 かすれた声が漏れた。

 目の前にいる少年が何者なのか、セレスには即座に理解できなかった。

 だが、この温室を支配する甘ったるい空気──そして“眠り”の支配者が彼であることは、否応なく伝わってきた。


 「……あれは、おまえが……?」


 少年──レイは、微笑を浮かべたまま、静かにうなずいた。


 「眠っていただきました。あなたも、護衛の方々もす」


 セレスは息を呑む。

 あの、喉奥にまとわりついていた甘い香り──ただの花の匂いではなかった。

 じわじわと思考を鈍らせ、視界を歪ませるような、湿った甘さ。

 それが温室の空気に溶けていたのだ。


 「……これは、魔法か?」


 レイは首を振った。

 「違います。植物の力です。……この温室には、幻覚作用のある薬草や、痛覚を鈍らせる花、感覚を麻痺させる胞子を放つ苔など、興味深い種がいくつも植えられています。マリスの言う女性が育てていたのですがなかなか普通ではありませんよ?」


 その語り口は、まるで古い友人の話をするような穏やかさだった。


 「私、昔──孤児院で育ちまして。生活のために、山でそういった草花を採って売っていたんです。薬草も毒草も、ちゃんと見分ければ、使い道があります」


 空気が、ひやりと冷えた気がした。


 「空気に溶け込ませたのは、幻覚作用と睡眠を誘導する香気です。もちろん、致死性はありません」


 その言葉に怒気や傲慢さはなかった。

 淡々と、事実だけを述べる口調。

 ──まるで、温室の空気そのものが彼に従っているかのようだった。


 「……あなたに、ご提案があります」

 レイは表情を変えずに言った。


 「私を──使ってみませんか?」


 沈黙が落ちた。

 セレスの目が、ようやく真正面から彼を捉える。


 「……使う?」


 「はい。ご命令いただければ、それに従います。……望まれるままに」


 その語調は丁寧だったが、明確に異質だった。

 従順というより、自らを差し出す者の口調。

 服従の裏にあるもの──それは、意志だった。


 「なぜ、そんなことを……」


 「──私は、魔法を学びたいんです」


 唐突な告白のようだった。だがその声に迷いはなかった。

 「この屋敷ではそれが許されない。でも、あなたの口添えがあれば状況は変えられる。環境も、人の目も」


 セレスは息を呑んだまま、返せなかった。

 レイはさらに続ける。


 「それから──隷属の首輪。あなたがお母様に頼めば、比較的たやすく解除できると見込んでいます」

 そう言って、レイは自分の首元に手をやった。

 指先で、喉のあたりを軽く、二度──トン、トンと叩く。


 セレスの眉がわずかに動く。

 彼の言うことは一つひとつ正確で、そして、逃げ道がない。


「……あなたが必要なんです。私には“自由”が必要で、あなたには──もっと大きなものを、差し上げられます」


 そこで、レイは一瞬だけ、目を細めた。


「──当主に、なりたくはないのですか?」


 セレスは、わずかに肩を揺らした。

 すぐには答えられなかった。


 「……べつに、なりたいわけじゃない……」

 言葉が宙に漂った。

 「でも、ママが……私がそうなるべきだって、ずっと……」


 自分でも、はっきりとは意識していなかった“本音”だった。

 レイは黙って頷くと、言い切った。


 「では──私が、あなたを当主にしてあげます」


 それは甘い囁きではなかった。

 どこか祝詞のような、静かな宣告だった。


 「命令をください。誰を始末するか、どこへ導くか。それさえ決めていただければ、私はすべて実行します。あなたの指は、ひとつも汚れません」

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