第9話 観客は一人
再び、グラスの音だけが場を支配した。
誰も言葉を継ごうとせず、卓上に流れる空気だけが、静かに沈殿していく。
「まったく、どいつもこいつも神経質だな」
ライナルトが鼻で笑った。
「犬だの牙だの……晩餐の前に語るには、趣が悪すぎる。食欲が失せるじゃないか」
「お酒で補っては?」と、ユリウスがさらりと返す。
それは、礼儀の膜一枚で包んだ、鋭い毒だった。
「兄上の肝臓はまだ機能しているとお見受けします」
ライナルトの口元が引きつった。
皮肉に対して皮肉を重ねることもできたが、彼は黙ったままグラスの中身を呷った。
グランが喉を鳴らし、場の流れを切り替える。
「しかしまぁ……こうして五人揃うのも久しいですね。先日、離宮に呼ばれたときは、末弟の姿しか見えなかった」
言葉を投げるようにして、ディアロスに視線を向ける。
「軍務でお忙しいのは承知しておりますが、兄としての役目もお忘れなきよう」
「兄である前に、ひとりの騎士だ」
ディアロスが即座に応じる。
「職務を疎かにすることこそ、家の名を貶める」
「……理想的ですね」
グランの口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「まさに御伽話の騎士様だ。清く、誠実で、道理にかなっている」
「言葉に棘があるな、グラン」
ディアロスの声音に、わずかな熱が混じった。
普段の彼にしては珍しい変化だった。
「“正論”を貶すことで、何を得られると?」
「得る? いやいや、私はただ……正論だけでは人は動かせない、と言いたかっただけですよ」
グランは言葉の端を笑みに染めながら、続けた。
「お前の言葉には理がある。だが理だけでは、血も、命も、動かない。──それが、この屋敷で学べる現実だろう?」
空気が変わった。
冷たさの中に、今度は圧力が混じる。
誰も口を開かず、ただ沈黙が場を押し潰す。
セレスが小さく咳き込んだ。
乾いた音だった。
誰の顔も見ずに、彼は水を飲み、ナプキンで口元をぬぐう。
その手の震えは、すでに止まっていない。
「正論が人を動かさないのなら、策か力か」
ユリウスの言葉が、氷のように落ちてくる。
「だがそれは、手段の話でしかない。どの道にも、正しさの仮面は必要だ」
「仮面、ですか」
グランは視線をユリウスに向けた。
「それなら君こそ、いちばん巧みに仮面を使っている」
「それを見抜けるのもまた、兄上の才能」
そう返すユリウスの笑みは、揺らがなかった。
「でも──仮面を被ることと、正しさを信じることは、必ずしも矛盾しない」
「まるで詩人だな」
ライナルトが苦笑交じりに言った。
「ここはもう酒と理屈で腹を膨らませる場か。いっそ料理など要らんのじゃないか?」
そのときだった。
扉の前にいた給仕が、かすかに動いた。
目配せがあり、誰にも音を立てずに一歩下がる。
料理が、ようやく運ばれる気配だった。
誰の合図でもなく、だ。
重い空気を引き裂くように、燭台の炎がひとつ、ふっと揺れた。
誰の視線も合わせぬまま、卓の中心に沈黙が戻る。
だがその沈黙は、もはや言葉の余韻ではなかった。
──腹の底に沈む、思惑の“重み”そのものだった。
再び、沈黙が降りた。
今度のそれは、さきほどまでの張りつめたものではない。
言葉が一巡し、火種の匂いだけが残されたあとに訪れる、静謐な“間”。
卓の上には、料理が運ばれている。
香辛料の薫りが湯気とともに立ちのぼり、
銀器が皿に触れる音が、わずかに空気を和らげていた。
しかし──誰も話さなかった。
ライナルトは表情のないまま肉を切り、
セレスは皿の中のスープをひと匙すくっては戻す。
グランは水を口に含みながら、どこか遠くを見ている。
ユリウスだけが、変わらぬ笑みを浮かべ、
ナイフの先を軽やかに踊らせていた。
そして、ディアロスは──
ふと、何もない空間に目を止めた。
窓でも壁でもない。
ただ、静かな空間。
だが、“何か”が揺らいだ気がした。
空気がわずかにずれたような、
光が一瞬だけ、歪んだような──
そんな微細な感覚が、視界の端をかすめた。
……いや。
気のせいだ。
そう思い直して視線を戻す。
だが、脳裏のどこかがまだ引っかかっていた。
あれは、錯覚だったのか? それとも──
背筋に、冷たい感触が這った。
風のない室内で、肌だけが風を感じるような。
視線を落とす。
皿の縁に添えた自分の手。
微かに力がこもっている。
ディアロスは小さく息を吐いた。
──誰かが、見ている?
錯覚だ。
この場には、兄弟と給仕しかいない。
しかし、もう一度だけ──
彼は卓の向こう、壁の奥、光の隙間を見た。
何もいない。
音も、ない。
それでも一拍、呼吸の重さが、誰かの気配のように感じられた。
だが、確証には至らない。
気のせいにしてしまえば、それで済む程度の揺らぎ。
だから彼は、何も言わずにフォークを取った。
肉を切る。
皿の上に、また音が戻る。
卓の背後──給仕のいない扉が、わずかに軋んだ。
ギィ、と微かに。誰の耳にも届かぬほどの小さな音。
扉は、すぐに元通り静かに閉じた。
誰も、それに気づく者はいなかった。
晩餐は、滞りなく“進行”していく。
***
重く閉ざされた扉が、静かに背後で音を立てた。
レイは、廊下へと足を踏み出した。
広間の静寂──毒を仮面で包んだ応酬──を背に、誰もいない回廊をゆっくりと歩いてゆく。
フィンにかけさせた魔法は、すでに解除されている。
感覚の糸が、壁を伝ってほどけていく。
その余韻の中、レイは唇の端を僅かに歪めた。
「……もう少し聞いていたかったんですが、残念です」
ぽつりと零した独り言は、廊下の石に吸い込まれていった。
「やはり、魔法は学ばないといけませんね」
小さく続けた言葉に、皮肉と未練が滲んでいた。
身体から力が抜けていく。
それは安堵ではなかった。むしろ、目を閉じたまま水底に沈んでいくような感覚だった。
空気が重い。
喉の奥に粘りつくような湿り気を感じる。
蝋のにおいがまだ鼻腔に残っていた。
靴底が石の床を踏むたび、微かに反響する音が続く。
だがそれすらも、どこか遠く、夢の中の音のようだった。
──五人の声が、まだ耳の奥で残響している。
乾いた皮肉。
震える指の沈黙。
張りついた笑みと、牙の隠れた言葉たち。
冷えたワインの匂いとともに、声の破片が脳裏に浮かび、
時間の感覚が、少しだけずれていく。
──あれは、“劇”だった。
誰が台本を書いたのかもわからない。
役者は五人。仮面をかぶった兄弟たち。
毒を混ぜた声で語り合い、心を隠しながら手探りで互いを探る芝居だった。
そしてその舞台に、観客は──自分ひとり。
誰にも気づかれず、声を聞き、視線を追い、呼吸の乱れを感じ取っていた。
いや、ひとりだけ、気づきかけた者がいた。第三公子、ディアロス。
最後のあの、空気のゆらぎに目を止めた唯一の者。
正確には、“察した”のではなく、“反応した”に過ぎなかったかもしれない。
だが──それができる者は少ない。
武人の勘か。
ああいうのは訓練ではなく、戦場の空気をくぐった者だけが持つ、獣に似た直感だ。
レイはほんのわずか、口元を歪めた。
認めざるを得なかった。あの男だけは、“眼”を持っている。
──他の者たちは、どうだったか。
第一公子ライナルト。
酔っているのか、それとも素面であれなら──もはやどちらでもいい。
冗談の皮をかぶった毒をばらまくが、そこに意図は感じられない。
最も厄介なのは、無自覚な刃。
そして彼は、その刃を振るうことすら知らずにいる。
ただの軽口。
裏に何もないという事実が、むしろ哀れだった。
第二公子セレス。
終始、視線を落とし、皿ばかりを見つめていた。
指先はナプキンを弄び、落ち着きを装おうとしていたのかもしれない。
怯えていたのか、それとも──何も見たくないという拒絶か。
ただの弱者、と切り捨てるのは容易い。
だが、沈黙の中に、確かに“息のつまり”があった。
耳を塞ぎながらも、心は聞いていた。
それは、理性のぎりぎりの防壁に見えた。
第三公子ディアロス。
言葉は真っ直ぐで、理を重んじ、争いを抑えようとしていた。
その姿勢は、滑稽に映るかもしれない。
だが、彼だけが、あの場を“正しくしよう”としていた。
愚直であるほどに、筋は通っていた。
それが──最も危うく、最も信頼できる者の証でもある。
第四公子グラン。
話題を操り、場の空気を揺らす。
誰の味方でもなく、誰の敵にもならない言葉で、毒を織り込む。
その毒こそが、彼の武器。
噂を装い、探りを入れたのは、ユリウスの“飼っている犬”──レイ自身についてだ。
あれは試みであり、試しだった。
だが、ユリウスはその挑発に、一歩も退かなかった。
そして──第五公子ユリウス。
あの笑みは、最初から最後まで崩れなかった。
揺れず、にじまず、嘘さえも真実に見せる柔らかさをまとっていた。
毒を受け流し、踏み込みすぎた問いには曖昧な返答で応じる。
何も明かさず、何も晒さない。
だが、彼の存在が、あの場の“核”だった。
まるで──あの晩餐そのものが、彼を中心に設計されていたかのようだった。
「……完璧すぎて、気持ち悪いんですよね。ほんとに」
小さく、レイは呟いた。
誰が偽りを語ったか。誰が牙を隠していたか。誰が愚かだったか。
すべての役者が舞台に立ち、それぞれの役割を演じていた。
だが、その芝居を真正面から見ていた者は、他にいない。
気配を断ち、声を伏せ、意識を潜ませていた。
その疲労が、じわじわと背筋を這うように湧き上がってくる。
それでも──得たものは、確かにある。
ディアロスの気づき。
グランの探り。
セレスの震え。
ライナルトの無力さ。
ユリウスの、“完成”。
すべてが、繋がっていた。
あの場で交わされた言葉の裏に、血よりも濃いものが流れていた。
レイは立ち止まり、壁に手を添えた。
冷たい石が、指先に現実を戻してくる。
──この館は、音が多すぎる。
そう思った。
「さて……方針は、ひとまず固まりましたね」
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