ラストノートが香るまで
神田川 散歩
第1話 東風吹かば
秀之は一人のアパートのキッチンで、遅い夕食を取っていた。
仕事帰りに駅前のスーパーで、惣菜コーナーに寄り、魚の煮付けとほうれん草の和物を買った。ついでにビールが減っていたのを思い出し、アルコールのコーナーに回って缶ビールも買った。
スーパーを出てから自宅のあるアパートに向かい歩いていると,ふと一枚の看板が目に止まった。『書家 紫響子(むらさききょうこ)の個展』公民館の入り口の掲示板に手書きの文字でそう書いてあった。街灯に照らされてそのポスターは浮かび上がって見えたが、おそらくは自筆の文字で書かれたものだろうと思い、少し興味を惹かれた。
立ち止まって少しの時間そのポスターを眺めていたが、秀之は振り返って自分の家に向かって歩き出した。
古びた階段を、足音を忍ばせ上り、突き当たりまで行くと、ポケットから鍵を取り出してドアを開け、玄関の照明を灯けた。
スーパーで買った魚の煮付けをレンジで温め、ビールを取り出し、冷蔵庫で冷えている缶と交換した。
一人の部屋にはたいした家財道具もなく、がらんとしている。温まった煮魚を口に運びつつビールを一口のみ、軽くため息の様な吐息を吐く。
秀之が一人暮らしを始めたのは5年前。それまで一緒に暮らしていた妻から、離婚を告げられ家を出ることにした。定年まで働き、今はその会社で再雇用を受けた。しかし、後数ヶ月でそれも終えようとしている。大学を出てからずっと同じ会社で働き、妻子を養い定年まで頑張ってきたが、いわゆる熟年離婚という憂き目に遭った。
元妻曰く『つまらない人』と云うのが彼女の離婚の理由だった。当然、結婚していた時もすでに会話はなく、いつも何かに疲れていた。だから、秀之は反対する事もなく離婚届にサインをした。財産分与は住宅ローンの終わった家を妻に渡し、幾ばくかの退職金を手に今のアパートに身を寄せた。
食事の終わった食器を流し台に持って行き、食洗機に突っ込み風呂場に向かった。浴槽に湯を張り、着替えを取りに押し入れに行った。タンス代わりの衣装ケースから下着を取り出し、タオルを持って再度風呂場に向かう。ゆっくりを湯船に体を沈め、さっき見た書道展のポスターを思い出していた。
子供の頃、親に勧められて秀之も書道教室に通った時期もあった。その頃のことをぼんやりと思い出す。数人の子供が黙々と墨をする音や、その香りが懐かしく甦ってきた。これと言って趣味もなく、休日は家で過ごす事しかなかった秀之にとって、外出することは少し面倒だったのだが、『たまには出掛けるか』と云う気持ちになったのは、陽気が春めいて来たせいだけでは無かった。
秀之にとって、その書道教室は特別な思い出の場所で、彼が小学校6年生の時、当時小学校3年生の真由美が教室に入塾して来た。とはいえ、真由美はそこの書道教室の孫娘で、すでに段位も取得していて、秀之より数倍上手だった。幼い頃より祖母の手ほどきを受け、所謂エリート的存在で、同じ書道教室の子から羨望の眼差しで見られており、あっという間に人気者になった。ポニーテールに結んだ横顔が、真剣な表情で筆を動かしている姿を、秀之はそっと眺めていた。大人しい彼は言葉をかけることも出来ずに、いつも彼女の視界に入らない一つ後ろの席に座り、斜め後ろから見つめていた。
夏休みに入ってすぐの時、教室の仲間と出かける事になった。もちろん子供だけで出掛けるので、それほど遠くではないが、近所の神社の境内でお祭りがあるのを聞きつけた同級生がみんなを誘ってきた。もちろん、親に承諾を取り付け、男の子女の子それぞれ3人ずつ6人で縁日に行く事になった。ひとしきり屋台を周り、神社の裏手の日陰で座ってアイスを食べていると、飛んで来た蜂に真由美が刺された。同級生たちはびっくりして悲鳴をあげ、散り散りに逃げ出した。隣にいた秀之は一瞬何が起きたのか分からなかった。気づくと、「ごめん」と一言いって、刺された真由美の腕を取り、腕に残った蜂の針を爪の先で抜き取り、その部分に口をつけ毒を吸い出した。「毒は吸い出したけど、消毒が必要だから」と言い、お祭りの救護所に真由美を連れて行った。
救護所では、地元の医者が詰めておりすぐに処置をしてくれたが、真由美の腕はみるみる赤く腫れて行った。痛さに顔を歪め泣いている真由美に対して、どうすることも出来ずに立ちすくんでいると、医者から連絡を受けた真由美の母親が飛んできて、真由美を連れて帰っていった。その後一人になった秀之は家に帰る道すがら、何も出来なかった自分に落ち込み、肩を落として帰った。そして、その後真由美の姿を書道教室で見かける事はなかった。
夏休みも終わり、小学校では日焼けした同級生と再開し、ひとしきり夏休みの思い出話で盛り上がった。当然、3年生の真由美に会うこともなく、秀之の記憶から少しずつ真由美の姿が消えていき、興梠が泣く頃にはすっかり夏の思い出も遠くなった。
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