第一話 その平凡かつ奇怪な訪問者 -5-

「よし、こんな所かな」

「そうですね……」


 同意したものの、シエルの顔は晴れ切らない。

 一通りの説明を受けても、心から完全に不安を取り除くには至らなかった為だ。

 転生などという代物自体が根本的に安心できるものではないのだが、道筋が明瞭かどうかでもだいぶ違う。なにせ死を前提としての行為なのだから、一度やってしまったら取り返しがつかない。

 騙す意味があるかはまた別の問題として、転生などできずただ死んで終わりの可能性は否定しきれないのである。


「結局、確かな保証は無いんですね……」

「その通り。こればかりは無条件で信用してもらう他ないな」


 ヴァイスは、対応し慣れた様子で言った。

 転生が目的で龍園を訪れた者は、例外なく誰もがシエルと同じ説明を聞かされ、誰もが同じ疑惑を抱き、そして多くが不安を拭いきれず考えを改めて帰っていく。

 いくら転生はできると断言したところで、肝心の証拠が存在していないのだから、そこを期待して訪ねてきた者達から疑いの目を向けられるのは当然だという事を、ヴァイスは理解していた。

 むしろ、ここで全く疑わずに信じ込んでしまう方が心配になる。


 転生は龍園においてヴァイスが執り行える儀式のひとつに過ぎず、別段それで食っている訳でもない為、尻込みする者を無理して引き止める必要もない。規模が桁外れなだけの、ある種の慈善事業のようなものである。


「そしてまた、証拠らしい証拠を示せなかった話を無条件で信じろというのが酷なのも分かっている。到底信じられんだろう、私がお前の立場だとしてもそう思う。だから疑うならやめておけ。転生なんて、どうしてもしなければならない事ではないのだからな」

「――いえ、やります」

「せっかくここまで来たから、ですか?」


 不思議そうに尋ねるクアンに、シエルは弱々しく微笑んだ。


「それもありますけど、僕の行きたい場所に行くには、やっぱりこれしか方法がないと思うから」


 今の今まで二の足を踏んでいたのが嘘のような、怯えていても迷いだけはない声だった。

 行きたい場所。掴みたい夢。今となっては物語の中にしか存在しない、華々しい大冒険、大活躍。


 ふうん、とクアンは唸った。


 悲惨な境遇には同情でき、転生を志願する動機は珍しいを通り越して呆れるようなものだったが、会話から伝わってくるシエルの思考自体は正常で、意思疎通にも支障はなかった。

 こういった普通に会話ができる人間は、最終的に転生の希望を取り下げる事がほとんどなのである。初志貫徹して転生していく者は、どちらかといえばあまり説明を聞いていないか、聞いても無関心かが多い。

 現世にありながら現世を捨てており、その目は既に次しか見ていないのだ。


 それだけに、話をしているうちに怖くなってすごすごと帰っていきそうな典型例に思えたこの不運な青年が、尚も踏みとどまった事にクアンは少し驚いていた。

 死ぬと告げられて踏みとどまれるのは、強さであると同時に欠如でもある。

 現実逃避をしたいだけでは、こうはならない。初見での印象よりもずっと精神に偏りがあるのかもしれない。


 ヴァイスは、それ以上説明を続けず、止めもしなかった。簡潔にシエルに指示する。


「わかった、ではそこに立て」


 自分のすぐ前の位置を、ヴァイスが指で示した。

 はい、とシエルが応じる。気丈ではあったが、短い返事からさえ震えは隠せない。

 いよいよ始まる、今から自分は死ぬのだ。その先に新たな生が待っていると信じていても――信じようとしていても、心臓が激しく脈打ち、顔からすっと血の気が引いていくのが分かった。

 膝から崩れそうになる脚を叱咤しながら、床を踏む。ごく短い距離が永遠の長さにさえ感じる。やめるなら今しかないぞと内側から囁く声が聞こえる。それら全てを首を振ってねじ伏せて、シエルは進む。


 死の恐怖を克服できる人間などそうはいない。掛け値なしの驚嘆すべき精神力だと言って良かった。

 一般的な評価として、発揮する場所を根本的に間違えている点を除けば。


 そして、辿り着いた。ふうっと、シエルは魂まで抜けていくような息を吐く。


 さて、ここからどうすればいいのか。旅支度は。禊は必要なのか。異世界に渡る為に唱える呪文は。何より気になるのは死に方だ。例えば眩い光に包まれて――と思っているシエルを、おもむろにヴァイスの手が掴む。

 親指と他の指を用いて物を握り込めるのは、四足歩行をする動物よりも、人の手の構造に近い。結果、人間が虫を捕まえるのと同じくらい簡単に、シエルの全身はほぼすっぽりと竜の掌の内側に収まってしまった。辛うじて外に覗いているのは、足先と頭の一部くらいだ。


 え、とシエルが言った。

 あーあ、というような顔をクアンがした。


 ヴァイスの表情は変わらない。そもそも表情を変える為の筋肉を竜は人間ほどには持たない。

 そしてシエルが経験した事のない、凄まじい圧力が全身にかかった。


「!? !!!???えげべぼぼボァ!!!! でぇお!???!」


 シエルの口から、出鱈目な悲鳴がほとばしる。

 それは意味を持つ言語ではなく、捕食される動物があげる鳴き声だった。

 己が置かれた状況を理解する事も、周囲に助けを求める事も忘れ、ただ全身を支配する苦痛に絶叫する。握った際に偶然できた隙間に入っていたシエルの手が、竜の掌を内側から何度も叩く。


 何かを言おうとしていると判断したのか、ヴァイスが僅かに手の力を緩めた。

 全身に一気に血流が戻ってきて、シエルはようやく声が出せるようになる。

 結果的に見れば苦しむ時間が長引くだけなのだが、そこまで考える余裕など今まさに殺されつつあるシエルにはない。

 恐怖と、そして純粋な痛みとから充血し、涙で溢れた目で、シエルは掌を隔てた向こう側にいる二人に対して叫んだ。


「なんで、なんでずがっごれっ!?」

「え、シエルさんご自分で言ってたじゃないですか。白竜ヴァイス、その手により命を奪われた者は転生する、って」

「文字通りですかーっ!?」


 それは死にゆくシエルが、方向性のある思考を以て発した最後の声だった。

 ヴァイスの手に再び力がこもる。逃れる術のない拘束の中、それでも本能的に逃げ場を求めてシエルの手足が暴れる。

 不格好なダンスを踊るようにぐねぐねとのたうっていた体が、ごきりと鳴った。獣のようにシエルが吠える。

 限界まで開き切った口は、左右からかかる力によって強制的に開かされたもの。

 頬骨と顎が砂糖菓子のように砕け、支えを失った歯がぐじゃぐじゃに崩れた歯茎からぼろぼろと零れ落ちた。


 ごぇ、とシエルがげっぷを漏らす。

 肺から強引に空気が絞り出される音だった。歪にひしゃげた気管が楽器の役割を果たしている。痛みに悶絶しようにも、全身のどこにも力が入らない。動かせる骨は全て砕かれ、筋肉は捻れるか千切れてしまった。


 もう、壊れていない箇所を数えた方が早い。


 喉をせり上がってくる血と共に、シエルの脳裏を過去の光景が駆け抜けていく。

 幼い頃、足元に気付かず小さなカタツムリを踏んでしまった事があった。

 靴底に伝わる、カシュッ、という妙に小気味良い音と、慌てて足をどけてから泣いてしまった事は今でも憶えている。今の自分はあれくらい呆気なく、あれよりも遥かに苦しんで死んでいこうとしている。


 体感するシエルにしてみれば永遠にも感じたであろうが、始まってから終わるまでの時間はさして長くなかった。声は徐々に途切れていき、入れ替わりに肉と骨の潰れる音の方が大きくなっていく。


「……ガボッ……ゲベ、ギュア……べ……」


 それを最後に、シエルの声は聞こえなくなった。

 この場に彼の両親がいれば、泣きながら制止を懇願しただろうか。

 一部始終を少し前の彼自身が見ていれば、蒼白になった顔で龍園から逃げ出しただろうか。

 そのどちらも、済んでしまった今考えても意味のない事だ。


 ヴァイスが掌を開いた。元の姿が想像できないほど圧搾された人体が、粘度のある赤いジュースに混ざって床に落ちる。最も原型を保っていたのは、元から厚みのない服だった。


「うええ……いつ見てもエグい……」


 顔を顰めるクアンに、今更のくせに、とヴァイスが言う。

 今更でも気持ち悪いものは悪いんです、とクアンが唇を尖らせる。

 これこそが、転生を望んだ者が辿る末路。門出と呼ぶには凄惨に過ぎる。


「これ見るたびに菜食主義になりそう」

「エルフは元からそうだろうが」

「そうだったんですけど、転生した時に食べて以来お肉の味に目覚めちゃって……」


 殺されたばかりの死体を前に、呑気にする会話ではなかった。

 ヴァイスの指摘通り、確かに今更ではあったようだ。


 気を取り直して、クアンが立ち上がる。自分の仕事を思い出したのである。


 クアンは掃除道具置き場からモップとバケツを持ってくると、手際良く後片付けに移り始めた。龍園でも清掃員は雇っているが、こればかりは任せる訳にはいかない。掃除の分野が違う上に特別手当が必要になる。

 肉と骨と内臓は全部集めてから革袋にまとめて口を縛り、床に広がった血溜まりは綺麗になるまで磨く。服と荷物は一応、回収する。なるべく汚れも落とすが、使い物にならない事の方が多い。

 あとは魔法で風を起こして空気を循環させ、匂いを消したら終わりだ。

 死体を詰めた革袋はその日のうちに墓地管理組合へ連絡して引き渡し、必要に応じて共同墓地に埋葬される。

 以前は龍園に分類されるゴミとして処理されていたのだが、ある時、縫い目の甘かった革袋から染み出した汁を怪訝に思った掃除人が袋を開けて卒倒してしまって以来、専門の業者に任せるようになっていた。


 腕まくりをして掃除に勤しんでいるクアンの背後で、ヴァイスがシエルを握り潰した手を一度振る。掌をべったりと汚していた血液も肉片もそれだけで跡形もなく消え、後には純白の鱗が淡い光を放っていた。



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