第8話 理子先輩の研究

 やばい、やばいやばい。


 放課後のチャイムが鳴った瞬間、僕は机の上で握りしめていた手に力を込めた。一日中、いや、正確には今朝学校に着いてからずっと我慢し続けていたあの問題が、もう限界に達していた。


「翼ちゃん、お疲れ様――また明日ね」


 桜井さんが振り返って手を振ってくれるけど、今はそれに応える余裕もない。愛想笑いを浮かべて小さく手を振り返すのが精一杯だった。


「……う、うん……ま、また……明日ね……」


「……? 気をつけてね」


 桜井さんは少し心配そうな顔をしたけど、それ以上は何も言わずに教室を出て行った。彼女の気遣いには本当に感謝している。でも今は一刻も早く——


 クラスの人たちがぞろぞろと帰り支度をしている中、僕は椅子から立ち上がる。下腹部にずっしりとした重みを感じて、思わず顔をしかめた。


 男子だった頃なら、休み時間のたびに男子トイレに駆け込んでいたはずなのに。今日は朝から一度も。


「どっちに入ればいいんだろう……」


 だって、僕は男子なんだ――元々は。そんな僕とトイレで鉢合わせたら、嫌な気分になる女子もいるかもしれない。


「うぅ……」


 お腹の奥がきゅうっと痛んだ。もう本当に限界だった。



     * * *



 人気ひとけのない科学棟に駆け込んだ僕は、階段を上がりながら必死に我慢していた。


「多目的トイレ、多目的トイレ……」


 二階の突き当たりにあったそれを見つけた時は、心の底から安堵のため息が出た。


「助かった……」


 扉を開けて中に入り、慌てて鍵をかける。そして便座に向かって――


「あ……」


 そこで気づいた。立ったままじゃできない。


 当たり前なのに、なぜか戸惑ってしまう。男子だった時の癖で、無意識に立とうとしていたのだ。


「そっか、座らなきゃ……」


 スカートを持ち上げて、そっと便座に腰を下ろす。下着を下ろした瞬間、改めて自分の身体の変化を実感した。


 そして、何度しても慣れない感覚――


「あ…」


 全然違う。感覚が全く違う。


 男子の時は勢いよく一直線に出ていたのに、今は座った状態でチョロチョロと控えめに、まるで扇状に広がるように出ていく。当然音も、勢いも、そして、出る場所も完全に違う。


「うぅ……やっぱり慣れない……」


 不思議な感覚だった。恥ずかしいし戸惑うけど、でも安堵感の方が大きかった。一日我慢していた分、とても気持ちよくて。


 終わった後、トイレットペーパーで拭く時にも戸惑った。


「前から後ろに、だっけ……」


 理子先輩に教えてもらった通りに。


 立ち上がって下着とスカートを直しながら、僕は洗面台の鏡を見た。


 そこには完全に女の子の顔があった。


「っ……」


 思わず声が出そうになる。肩まで伸びた茶色の髪が、顔の輪郭を柔らかく縁取っている。男子だった時の面影はあるけど、でも確実に女の子の顔だった。


「なんで僕がこんな……」


 髪を耳にかけると、いつもと違う感触に戸惑った。こんなに長い髪は初めてで、風が吹くたびに顔にかかって邪魔だし、でも女の子らしくて悪くない気もする。


「とりあえず、理子先輩のところに行かなきゃ」


 手を洗って、トイレを出る。


 廊下を歩いていると、スカートが足にまとわりつく感覚や、胸が揺れる感覚が気になった。男子の時とは歩き方も変えなきゃいけないみたい――


 そんなことを思いながら科学部の部室へと歩みを進めた。



     * * *



 科学部の実験室に入ると、理子先輩が実験台に向かって何やら準備をしていた。


「お疲れ様、翼――」


 振り返った彼女の顔に、安堵の表情が浮かんだ。


「今日一日、大変だったでしょう?」


「は、はい……まあ、いろいろと……」


 僕は苦笑いを浮かべながら、いつもの席に座った。


「体調はどう? どこか痛いところはない?」


「体調は大丈夫です。ただ、その……」


「?」


「トイレを、一日中我慢していまして……」


 理子先輩の顔が真っ赤になった。


「あ、ああ! そうよね、そういう問題もあるのね。ごめんなさい、気が回らなくて」


「いえ、理子先輩のせいじゃないです。僕が勝手に迷っていただけなので……」


「それでもよ――結局、どうしたの?」


「科学棟の多目的トイレを使いました。あそこはあまり人がいないので」


「そう……それは良かった。慣れるまで大変だと思うけど」


 理子先輩が心配そうに僕を見つめる。その視線が、なんだか以前よりも柔らかい気がした。


「それより、何をしようとしていたんですか?」


 話題を変えると、理子先輩の表情が引き締まった。


「RG-47の成分分析を進めてみたの。あなたの血液サンプルも採取したいけど……」


「大丈夫ですよ。何でも協力します!」


「ありがとう。それじゃあ、まず指先から少し血を取らせて」


 理子先輩に言われるまま、指に小さな針を刺す。ちくっとした痛みの後、小さな血の玉ができた。


「これを試薬と混ぜて……」


 理子先輩の手つきは慣れたもので、僕の血液にいくつかの薬品を加えていく。


「最初は中和剤を作ろうと思ったの。RG-47の効果を打ち消す薬を」


「それができれば、僕は元に戻れるということですか?」


「理論上はそうなのだけれど……」


 理子先輩の表情が曇った。試験管の中の溶液が、期待していた色とは違う変化を見せている。


「ダメね……想定とは全然違う反応をしてる」


「そう……ですか」


 少し落胆する僕を見て、理子先輩は慌てたように言った。


「でも、待って! これを見て」


 彼女が別の試験管を指さす。


「あなたの血液と結合したRG-47の成分が変化してるの」


「変化……ですか?」


「そう。別の化合物に変わってる。これは……」


 理子先輩の目が輝いた。


「時間が経つにつれて、効果が薄れる可能性があるってことですか?」


「まだ確証は持てないけど、でも希望はある。RG-47の効果は永続的じゃないかもしれない」


「じゃあ、僕は……」


「元に戻れる可能性は0ではないわ」


 その言葉を聞いて、落ち込みかけていた気持ちが少しだけ舞い戻る。


「――ありがとうございます、理子先輩。希望があるというだけでも、嬉しいです」


「まだ研究は続けるから。きっと、もっと具体的なことが分かるはず」


 彼女の真剣な表情を見ていると、この人は本当に僕のために頑張ってくれているんだなと思った。



     * * *



 部活を終えて、僕たちは一緒に学校を出た。


「今日はありがとう。実験に付き合ってくれて」


「いえいえ、僕のためのことなので、当たり前です!」


 夕日が差し込む帰り道を、僕たちは並んで歩いた。理子先輩の家までの道のりは、まだ少し慣れない。


「翼――」


「何ですか?」


「今日、学校はどうだった? みんなの反応とか」


「思ったより普通でした。桜井さんがいてくれたおかげかもしれません」


「そう……よかった」


 理子先輩がほっとしたような表情を見せる。


「でも、やっぱり大変でしょう? 女の子として生活するのって」


「そう、ですね……トイレとか、着替えとか、いろいろと」


「慣れるまで時間がかかると思うけど、何か困ったことがあったら遠慮しないで言って」


「ありがとうございます」


 家に着くと、彼女は玄関の鍵を開けながら言った。


「今日は疲れたでしょう? お風呂沸かしておくから、先に入る?」


「ありがとうございます。お願いします」


 お風呂。これもまだ、男の時とは違う慣れない体験の一つだ。


「それと、翼――」


「何?」


「実験のことだけど、絶対に諦めないから。きっと元に戻る方法を見つけてみせる」


 理子先輩の真剣な眼差しに、僕は思わず胸が熱くなる。


「理子先輩……」


「だから、それまでは私が責任を持って面倒を見る。約束する」


 その言葉を聞いて、僕は少し安心した。


 この先どうなるか分からないけど、理子先輩がいてくれる限り、きっと大丈夫だ。


「……よろしくお願いします」


 小さくそう呟きながら、僕たちは家の中に入っていった。

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