第9章 影と影を探す道

 私が期限付きのルームを作成し、編集長と関口さんを招待した。

 編集長は、動きだせば、詰め将棋やパズルゲームをするようにタスクを消化するタイプのようだ。

 関口さんから、浦川さんについての情報を交換し、共有していた。

 私からも、次のプレゼンテーション会の予定について質問を行う。

 明日の午後に仕切り直そうと提案をいただいた。

 浦川さんと鰐カラ先生への対応が決まったようで、安心する。

 それに、困ったときにいつも一緒にいるのが彼――関口さんだ。

 保留にしていた返答は、事実となって目の前に現れた。


 浦川さんが編集部に戻ってきたら、すぐに定時だ。

 どこで道草を食ってきたのやら。


「もう定時に近いですし、鰐カラ先生からは連絡もらいましたし、今日のところはもうこれで」

「すみません、後輩の変化に気づけなくて大変申し訳ないです。オメガバースのプレゼンテーションはまた日程を調整しましょう」

「編集長。定時に帰宅して旦那充をしてください」

「神林さん、ありがとう。すみません、帰ります。みなさんもちゃんと帰ってくださいね」


 ぐったり疲れている様子の編集長を見送る。

 伊東さんから、メンバー宛に飲み会の連絡が入っていた。

 関口さんを見送る。




 外で伊東さんと待ちあわせる。

 夜風に少し冷たさが混じる。

 カフェのチェーン店で一番小さいサイズの紅茶を飲んだ。


「プレゼンテーション会どうなるんですか? ホントは日程とか聞いてるんでしょ?」

「まぁね。ちょっと実験みたいな感じだから、浦川さんだけわかってない状態も嫌だし」

「関口さんにBL漫画以外の業務も教えてます?」

「伊東さんも一緒にいたときに、浦川さんが子どもっぽいと聞いたことくらいかな。BL漫画以外だと」

「え? 逆に、それ以外はずっとBL漫画の話してたんですか。どれだけ教え込んだんですか」

「まぁまぁまぁ。関くんから連絡来ないけど、いつものお店だよね、きっと」


 そんなまったりした会話の後に、いつもの居酒屋へ向かった。

 なぜか、永原さんが浦川さんについてきてしまって、場が荒れている。

 永原さんもプレゼンテーション会を楽しみに思っていたから、今、荒れているんだと実感した。

 嬉しい。

 素直に嬉しいと感じた。

 退店すると、伊東さんからは「お先に失礼します」と駅へ一直線に向かう様子があった。

 永原さんは浦川さんを見守るように駅へ向かったようだ。




 二人で電車を待つ。


「神林さん、そろそろ飲み会を解散しないといけない時期にきてると思うんです。まだプレゼンテーション会は終わってないんですけど、飲み会が無くなったら、こういうちょっとした会話の時間も少なくなってしまうかもしれません。そう思ったら寂しいです」

「たぶん、一緒だよ。私たち、なんだかんだで一緒にいそうな予感がある」

「へ? どういう意味ですか」


 入線してきた電車はそこそこ空いていて、関口さんは私に座るように伝えてきた。


「明日、頑張るのは神林さんですから。俺、約束してた質問をしますよ」


 二人だけしか知らない関係が構築されていて、それが心地よいと感じた。

 少しでも体に触れるだけの関係じゃない。

 大切にされていると感じる。

 仕事も、私自身のことも。そして、関口さん自身の生活も。


「頼むよ」

「はいっ!」


 帰宅した頃に『ちゃんと湯船に浸かってくださいね。 関口』とメッセージが届いた。

 ドライヤーまでかけ終わってから『ありがとう。 神林』と送った。




 翌朝、ホームで電車を待っていると『楽しみです。 関口』と短いメッセージが送られてくる。

 女性専用車両に乗車するから、関口さんとは会社まで顔を合わせることはない。


「オメガバースのプレゼンテーション会は午後に行います。また社内で共有後に鰐カラ先生へのプレゼンテーションを行う。先生には私の方から伝えておきます。私への相談無しに勝手な行動は控えるようにしてください。以上」


 編集長からの締めの言葉の後、全員の共有チャットに編集長から「お昼休憩のあとはオメガバースプレゼンテーション会をします」と送信された。

 昨日の会話内容は期限切れで見返せないが、てっきり浦川さんへだけに送るのかと思っていた。

 別のルームに関口さんを招待したら、編集長と関口さんと浦川さんのルームが作成されて、そこで進捗を確認しているそうだ。


<<<お気遣いありがとうございます。午後のプレゼンテーション会が無事に開かれますように。

>>>そうだね、今回のでもうまくいかなかったら、また対応を考えなきゃいけません。

<<<編集長に任せましょう。神林さんは、神林さんの仕事があります。


 向こうのルームがどうなっているかわからないが、落ち着いて仕事ができているようだ。


 お昼は、三人で社員食堂へ行く。

 関口さんから、浦川さんはお弁当なので永原さんがドーナツを食べながら見張ってくれるそうです、と教えてもらった。


「浦川さん、お弁当で良かったね。役得」

「いやー、編集長とのチャットがうまく作用しているとは思うんですけど、俺の仕事も見張られてる感じです」

「まぁ、そうなっちゃうか」

「あれ? お二人はなんでそんなに意思疎通がはかれているんですか」

「昨日、編集長から聞いた話だと、浦川さんだけに送ると思っていたから、どうなってるんだろうと共有チャットの限定ルームから関口さんに聞いたの」

「ああ、そうか。もう二人だけの場所じゃないんですよねぇ」

「え!? 神林さんも伊東さんも活用されてたんですか!?」

「編集部がずっと忙しなくて、伝える機会がなかったから。関くんは営業部にいた頃はどうしてたの?」

「もう、忘れちゃいました!」


 一瞬、関口さんの表情が曇ったような気がしたが、笑顔の印象が強く残った。

 伊東さんも、そうですよねと同意したので深くは追及しない。


 編集部には休憩が終了する十五分前に戻った。

 浦川さんと永原さんがいない。

 はやる心臓をおさえながら、プロジェクターの準備をしていると、二人がトイレから戻ってくる。

 昨日、それぞれの机から回収した資料を配付しようと準備を進める。


「神林さん、すみません。編集部の扉を閉めるので、プロジェクターは会議室に設置してもらえないでしょうか」

「は、はいっ、わかりました」


 編集長、早く伝えてくださいよ。

 関口さんと会議室の中に入り、いつものソファやテーブルの位置を変えてくださっているようだ。

 プロジェクターを設置しに、中に入ると私が持っていたプロジェクターを関口さんが受け取った。

 それをローテーブルの上に設置する。

 私のノートパソコンを取りに戻る。

 関口さんが、テキパキとコードを取りつけていく。

 おかげで時間前に設置が完了した。


「ええと、永原、浦川は前の席に、私と関口は後ろの席に座る。伊東さんも手伝ったんだよね?」

「はいっ! 神林さん、手伝います」

「資料配付をお願いします」


 伊東さんが資料を配付すると、場があたたまった感じがした。

 彼女は、焦ると感情が顔に出やすいから、それが良い方向へ作用したんだろう。


「本日は、このような機会を設けてくださりありがとうございます。オメガバースプレゼンテーション会を始めます」


 小さな拍手が起きる。


「それでは、二ページ目の説明を行います。男女の性別の他に、アルファ、ベータ、オメガの第二の性ダイナミクスが加わっています。βは、いわゆる普通の人間で人口の九割を占めています。一割はαまたはΩとなります。三頁をごらんください。αがΩの首を噛むと運命のつがいとして認められ、Ωは他のαと交わることはできなくなります。番になったあとは、Ωのみ首輪カラーをつけることになっています。噛み跡を隠すためのものです。またΩには発情期ヒートがあり、医者から処方された薬――抑制剤を飲むことで発情期を抑えることが可能です。四頁目では、αとΩが番になるまでを簡単に説明した図になります。はい、関口さん、なんでしょうか」


 質問の時間はあとでもうけると説明したはずなのに。

 でも、ちょうどいいぐらい例の質問だ、とわかった。


「ヒートによってどんな症状が出るのでしょうか」

「αにとっていい匂いを出して、本能的に運命の番を探す期間に入ります」


 回答に応えたのは編集長だった。


「なるほど、抑制剤の効果を高めるための製薬会社ものなどはサラリーマンBLと相性が良さそうだね。持ち込み漫画の設定で増加傾向で合ってるんだよね?」

「はい。お互いにとって運命の相手といえど、両者に必ず葛藤が生まれるのでストーリーを作りやすいのではないでしょうか」

「個人的には鰐カラ先生にはあまりやって欲しくないなぁ」


 編集長は資料に視線を落としたまま、呟いた。

 その後も説明をして、質疑応答の時間を設けたが、関口さんからの「発情期ヒートの症状について」の質問がクリティカルヒットだったのか、伊東さん以外は曖昧な顔をして頷いていた。


「編集部の方針としてはどう致しましょうか」

「もちろん受け入れます。面白い作品があったら、ぜひ。鰐カラ先生には、来週、私と関口くんで伺います。神林さん、伊東さん、今回はありがとうございました。以上、解散」


 飲み会の報せが伊東さんから届いた。

 関口さんがプロジェクターを、私は自分のノートパソコンを回収する。

 プレゼンテーション会のあとは、作家さんと進捗確認や関口さんから明日からの持ち込み漫画の案内を受けた。


 今回は私と伊東さんへの労い、そして、来週ついに鰐カラ先生の元へ向かう関口さんの壮行会だった。

 一通りごはんを食べ終えた頃、永原先輩がふらりと顔を出した。


「みんな、たくさん飲んでる? 浦川の顔をちょっと見に来ただけ、なんだけど」

「すみません、俺がお願いしちゃいました。……浦川さんと同じ失敗はしたくないと思ってしまいました。先生のところに行くの、怖いんです」


 関口さんは、恥ずかしそうに頭頂部をかいた。


「大丈夫だよ。関口くんは人当たりいいし、真面目だし」

「……俺がBL漫画の解像度が高くならないのは、誰かを好きになったことがないからだと思うんです。そういう意味では、片想いしているだけでも鰐カラ先生も浦川さんも、俺にとっては羨ましくて仕方ないんです。失礼がないようにと思うほど、怖くなっちゃいます」


 関口さんは静かに笑ったけれど、少しだけ目が赤く見えた。


「その気持ち、編集長にそのまま伝えたら? 先生にどう伝えるべきかも、判断してくれると思う」

「私、やっぱりトラブル起こしちゃったんですか」

「違うよ。私は、浦川の味方だから顔を見に来ただけ。大好きだよ」

「先輩……! 私も先輩が大好きです!」

「永原さんの急な百合営業、私も好きですよ」


 と伊東さんがからかっているけれど、それもいつもの空気。


「実は、編集長と、鰐カラ先生と浦川を同年代でうまく育てていけたら、って話をしてたんだ」

「副編集長がもう決まってるような口ぶりやめてくださいよ」

「まだだってば! でも、関口くんも外に出たり、少しずつね。みんなもがんばろ」


 帰る直前に、伊東さんからメールアドレスの交換を提案され、受け入れた。

 もしイベントが被ったら、そのときは一緒にアフターへ行きましょうと誘われた。




 ホームで電車を待つ。

 今夜は少し長く会話をしたい。

 誰かを好きになったことがないと、関口さんは言った。

 勘が当たって安心すると思っていた私はいない。


「関くんへの返事、決まったよ。ゴールデンウィークに予定ある?」

「ありません」

「じゃあ、同人誌即売会へ一緒に行こうよ」

「……はいっ!」


 どんな距離の関係がいいのかは、まだわからない。

 ただ、穏やかな関係を保てる距離に関口さんがいて欲しいのは事実だ。

 鰐カラ先生に会えてからのBL漫画の審美眼はまた変わってくるだろう。

 入線してきた電車に乗る。


「編集長にはいつかオメガバースとサラリーマンBLのコンテストが開催できたら嬉しいですとお伝えできました」

「そうだったんだ。開催できたら嬉しいね」

「はい。俺、神林さんとどういう距離感を保ちたいか、決まってきた気がします」


 関口さんは笑顔で、具体的なことは何も聞けないまま電車を降りた。

 今夜ぐらい、関口さんとの会話の時間を独り占めしたかったなぁ。




 鰐カラ先生への訪問後も飲み会をした。

 同じ線に乗車するため同じ方向に歩いていく。


「神林さんが誘ってくれたゴールデンウィークの同人誌即売会って、以前、俺を連れていってくれたイベントですよね?」

「うん、そのつもりだけど」

「電子チケットを購入しておきます。それと早い時間に行ってみたいです」

「えー? 行列すごいよ?」

「そういうのを外から眺めてみたいんです。今までインターネットの情報だけで感想を読んでましたけど、どういう熱量で同人誌を買いにくるか見れるじゃないですか! あっ、こういうの市場調査になっちゃうのかな」


 階段を上がった先のホームに、冷たい夜風が抜ける。


「……それに」

「ん?」

「神林さんが教えてくれたおかげで、オメガバースにもサラリーマンBLにも興味が出てきたんです。出張編集部にも」

「えっ。ジャンルとして、仕事として、だよね?」

「そうです。前回連れてもらったときに、ほとんど女性だけのスペースの中に男性作者もいらっしゃって、会話したんです」

「私と別れた後?」

「そうです。もし、出張編集部に男性がいたら、この人たちはどれだけ気が楽になるんだろう、と思いました。鰐カラ先生とお喋りして、その気持ちが強くなったんです」

「そっかぁ。会えて良かったね」

「はい! 第四BL漫画編集部と出会えて良かったです!」


 屈託のない笑顔が眩しい。

 私は、鰐カラ先生に会えて良かったと伝えたつもりだったけれど。

 関口さんは、恋を知らない代わりに、とても愛情深い方かもしれない。


「今週の仕事頑張って、一緒に同人誌即売会行こうね」


 もっとお話をしたかったけれど、明日があるから気を引き締めて最寄り駅で下車した。

 一人暮らしの自宅へ帰るのが寂しい。



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