恋じゃない。でも一緒に暮らしている。BL オタクの私と、恋をしない彼の話
川上水穏
プロローグ 静けさの前に立つ
ぐるりと会場を一周する。
一次創作オンリー同人誌即売会の空気は、とても落ち着く。
二次創作のように急ぎ足で歩き回る人は少数派だ。
そして、入り口からまっすぐ見たところに同僚が立っている。
彼女――伊東さんは、物を持つようなジェスチャーをし、入り口近くの出張編集部を指さす。
私は、一般参加者だから、手を縦に見せて横に振って否定する。
それから、笑顔で財布からお金を取り出すジェスチャーをし本を受け取る仕草をする。
肩に提げているトートバッグに入れるジェスチャーを加える。
伊東さんは、胸をなで下ろした。自分の顔を指さし、右を指さした。
私も、私の顔を指さした後に、右へ行くと指さした。
彼女は、BLを廻ってから百合・グッズ方面へ足を伸ばすようだ。
私は、外周からBLの二周目に入る。異動にともなって新しく同僚となった彼女と、トラブルは起こしたくない。笑顔で対応して、休日くらいは楽しく過ごしたい。
おそらく同じ趣味である彼女とは、これからの休日、何度となく顔を合わせることになるだろう。
黒い髪をぴったりと後ろで結っている。仕事場と変わらないスタイル。
年下ではあるけれど、編集長以外の漫画編集業務の経験は第四では同じくらいだろう。安定感を覚えた。
どことなく生活に余裕がある感覚。オタクとは違う。少し環境が違えば、丁寧な生活やもっと他人に打ち明けやすい趣味へ没頭していることだろう。
ジャンルと指向の違いくらいで、ボツ交渉になるような人間関係は、若いときにしか許されていない。
今は業務以外のお喋りにはまだ距離がある。
彼女の薬指に指輪は見えなかったから、アフターのお茶会だってするようになるだろう。
璧川出版第四BL漫画編集部は、先月始動したばかりの部署だ。
第四は鰐カラ先生を看板作家として「
私、神林真帆が入社したときには鰐カラ先生によるサラリーマンBLは話題になっていた。
その頃の私は、能力者によるバトル物の少年漫画から大所帯の男性アイドルグループによる恋愛シミュレーションゲームへと二次創作の興味が移っていた。
サラリーマンといえば、事務所スタッフやモブであり、まったく興味はない。今もない。
だがしかし、第一BL漫画編集部の編集長から第四へ推薦されてしまった。学生時代にイベントの壁サークルであったことを編集部から認知されており、どうやらBL内におけるジャンル変遷をよく分析していると評価されているようだ。
第四の顔合わせは三月に行われた。
まだ編集部となる部屋の工事が完了してなかったから、会議室で行った。
第四の編集長は元第三BL漫画編集部副編集長の
人嫌いで有名な鰐カラ先生の担当を続けている。
善知鳥さんも寡黙な人と知られている。第四で指輪を嵌めているのは編集長だけだ。
そして、第二BL漫画編集部から推薦された伊東奈々香さん。BL漫画と百合小説が好きだと聞いている。
各BL漫画編集部からの推薦はそのぐらい。
あとは社内からの異動願いを出された、永原雅さんと関口
他に、もう一人グループ会社からくるようだが合流には至っていない。
永原さんは、同性愛ジャンルなら全般追いかけているらしく文芸編集からの異動だ。
同性愛にもっと特化した作品を売り出したいのだろう。
私と年齢の差はほとんどないが意欲が違う。私は漫画は読むのも描くのも好きだけど、サラリーマンBLに興味が湧かない。
鰐カラ先生の漫画を読破してから挨拶に行きたいと編集長に話は通してある。
それから、営業部から異動になった関口さん。私よりずっと年上で、少年漫画が好きということしか知らない。
第四での業務は、今のところ「るりいろコミックスのサイト」と「るりいろコミックス編集部アカウントのSNS更新」がメインだ。
永原さんと違って編集業務の経験がないのにどうして受け入れたのだろうか。会社が考えることはわからない。ただ、営業以外の仕事を黙々と続ける関口さんには正直なところ違和感がある。けれど、その違和感がどこか引っかかっていた。
一次創作オンリー同人誌での勢いに任せて、鰐カラ先生の漫画を読破した。シリーズ物は少なく、単行本が多い。
繊細な線の美しさには気づいていた。
けれど、読んでいなかったから漫画の良さに気づいていなかった。
社内恋愛を軸にした付き合うか付き合わないかのやりとり。
――これは、サラリーマンBLと相性が良い。
人気が出る理由に確信をもてた。
ジャンルごと切り捨てていた自分を深く反省した。
それから、第一の編集長が推薦してくれた理由もなんとなく理解した。
五月半ばに編集長に話して、すぐに編集長と一緒に鰐カラ先生の元を訪ねた。
「第四の編集部員の神林さんです。私は編集長になりましたので、これからは永原を含めた後輩に任せます」
え? そんな話は聞いていない。
「ご紹介に預かりました神林真帆と申します。BL漫画全般が好きで、鰐カラ先生の漫画も全巻読破しました」
嘘はついていない。
だけど、先生は、眉をつりあげて左目をかっぴらいた。
「BL漫画が好きなだけの異性に興味はないんですが」
「先生、いつものお菓子を買ってきました」
「善知鳥さん。テーブルに置いておいてくれないか」
「は、はぁ。あの次回作のお話をする予定ですが、いかがいたしましょう」
「次回も善知鳥さんが来るんだよね?」
鰐カラ先生の長い前髪のせいで、表情は読めないが、イライラしているようには察せられる。
「いいえ、次からは後輩に任せます」
ただ寡黙な人だと思っていたが、編集長も鰐カラ先生の前では一歩も引かない気の強さを感じる。
「……そうか。今日は帰ってくれないか」
「失礼します」
帰り道、編集長からすぐに「来週は永原さんと神林さんの二人で行って欲しい」と伝えられた。
鰐カラ先生の好きなお菓子リストも渡される。お土産を持っていくと、普段はコーヒーを飲みながら話が始まるんだけど、と編集長は話を続ける。
「それに、編集長になったら忙しくなるし、鰐カラ先生にも他の人ともっと話して作風を広げて欲しいんだ」
「編集長は鰐カラ先生の漫画がお好きなんですね」
「うん。最初は手描きだったから、線の美しさに惚れちゃったんだ」
「えっと、先ほどの仕事場ではデジタル作業のようでしたが、漫画で手描きからデジタルへの変更がわからないほどスムーズに移行されてます」
「そうそう。手描きからデジタルになって、作業時間が短くなったんだ」
そういって、編集長は肩をすくめて笑った。
漫画を描いていたからわかる。
手描きからデジタルへの移行は本来時間がかかる。
けれど、元からの細い線を均一に長時間引くにはデジタルは合っている。
作風を広げて欲しいというよりは、手描きと同じだけの時間をかけて描いたらもっとたくさんの読者を魅了できると信じている。
編集長は人間だけど、鰐カラ先生の漫画原稿用紙は無機物だ。
人間(編集長/有機物)が原稿用紙(無機物)に手をかけて世話をする。
私は、そんな「かけ算」も大好きだ。
そして、鰐カラ先生の漫画という概念。有機物と概念のかけ算。
加えて、先生にだけは強気な編集長と編集長には心を開いている鰐カラ先生。
ここ第四は、私にとって楽園のような仕事場じゃないか。
神林真帆、ナマモノもいけます!
今日からご飯が美味しくなりそうだ。
物価高騰のご時世、無料のおかずは、脳内の空想だけでいい。
二次創作をしなくても、美味しいものは向こうからやってくる。
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