短編

変身

 俺は虫であった。

 イヤ、これは順序が逆か。虫が俺の精神を持ったのだ。俺は俺として、三十余年の惨めな男としての記憶がある。

 人生を終えた時、神に逢ったのだ。

 天神様から何か有難い箴言しんげんを賜り、今のこの有様である。

 輪廻転生とは仏のことわりとばかり思っていたが、神仏習合の為せる業なのか神に転生させられていた。チグハグでちゃんちらオカシイのは全く承知しているが、事実はそうであったのだから動かしようのないことだった。

──名も知らぬ、声も上げぬ。飛ぶことはおろか、首がない。頭と胸と尻だけの、空を見上げることも叶わぬ虫ケラだった。

 元よりスバラシイ人間ではなかったが、今や往来を避け、日陰を好み、石ころの下を這いずり回る薄汚い虫に成り果てた。

 キット、これは罰だろう。とりわけ善人でなく、取り立てて悪人でもなかった半端者への、罪をそそぐが如く煉獄なのだ。

 思えば惨憺さんたんたる一生だった。

 生家は裕福でなく、環境も恵まれたものではなかった。将来がボンヤリとした薄闇の中、怖気付きながらジリジリ踏み出す一歩で、輝かしい栄光など得られよう筈もない。

 学校を出た後は内定を拾っただけの思い入れもない企業に勤め、体と精神こころを軋ませてまで労働に精を出す。

 喜びも哀しみも、就業時間で薄く引き延ばした日々を送り、そのまま死んだ。

 俺は善行を積み重ねていなかったから、こんな虫なんかに転生したのだ。こんな生き方で徳を積めというのが土台無理な話だというのに、当たり屋めいた運命から逃れられないというのか。

 しかし逆説的に考えると、好機チャンスでもあるワケだ。この虫の生で懸命に善き行いを重ねていけば、来世は金持ちの息子だろう。才能に溢れ、人にも好かれ。眉目秀麗なる御曹司として、バッタバッタと敵を薙ぎ倒す痛快な人生が待っている。そうしたらでも突いてやるのサァ……。

 のそりと節くれだった六脚を動かし、穴の空いた落ち葉を掻き分ける。虫としての勝手が判別つかない今、取り敢えず寝床は寄せ集めた草葉でしのぐほかない。

──何も知らん靴に踏み潰されたらどうしよう。イヤ、どころか鳥や獣にパクリとやられたらひとたまりもない。ナント、この身のナントちっぽけであることか。

 毛も皮もない外骨格に、夜風の冷たさがジンと沁みた。



  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 これは何度目の朝だろうか。

 柔らかな土の中でグッスリと睡眠を摂り、とびきり冷たい朝露を飲む。そのまま青々とした茎を登り、その先端に取り付くと重みが葉をしならせ、スッカリ頭を垂れさせた。

 穏やかな風に触角を撫でられつつ、暖かい朝陽を浴びる。黒く艶のある我が外殻がキラキラと反射させている。

 ふと下を見ると、蟻がセッセと労働に汗を流していた。いやはや虫の世界も社会をかたどる連中は大変だねぇ。自分の何倍もあるエサなんて、死んでも運びたくはない。一度死んでしまっている俺が云うのだから、まったくその通りだ。

 風に運ばれた湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。今の俺には、それが淹れたてのコーヒーのように感ぜられる。思わず鼻歌の一つでも出そうな気分だ。

 いつの間にやら、俺はこの気ままな生活が気に入っていた。

 どころか、人の歩む先行きの起伏に、ほとほと呆れ果てていた。運命は平坦である方がイイ。

 下手に善行をこなしてしまい、ウッカリ人間にでも転生するとだ。また従いたくもない規則に雁字搦めにされ、手足を縮こめてヒッソリと息をせねばならない。正しく息苦しい。そうまでして生きるのはさぞ苦しいだろう。

 そう気付いてからは自堕落に、無為に日々をスリ潰していた。

 蟻の運ぶエサを掠奪うばい、コオロギの転がすような音に耳を傾ける。自由気まま、誰に命令されるでもなく、法に縛られもしない。

 そうして性根が虫に堕ちた後は実にイイ気分だった。本当に、ナントモ胸のすく思いだ。

──ハハァ、もしかすると俺は虫の精神を持っていたのに、誤って人なんかの器に注がれてしまったのやもしれんな。

 明日は何をしようか。

 この辺りで高い木にたか甲虫かぶとむしの相撲でも見ようか。横綱である大黒おおぐろ甲冑かっちゅうのツノ捌きは実に見事だからナ。

 それとも昨今激化している、西の蟻共の縄張り争いでも眺めに行こうか。一帯の元締め蟻田ありた会と、新進気鋭の大蟻おおぎ組の衝突はもう避けられない。どちらが先に仕掛けるか、というこの草原の火薬庫なのだ。

 アァ、朝まだきから聴くキリギリスの演奏会なんてのもオツなもんじゃアないか。方々に転がる物見遊山ものみゆさんに胸が膨らむ。

 日がなそんな瑣末な──もはやこの姿になっては重大な──ことを考えていると、ジワリと迫ってくるものを感じる。重く、冷たく地中深くの土のようにジットリと濡れている。

 一度死んだ俺にはわかる。これは、死だ。

 映画なんかでるように、視界が段階的にくらくなったりはしない。

 このまま進んではいけないと思いつつも、身動みじろきすら叶わずに進んでいく。死とはそう云うものだ。おそらく、西へ暮れゆく太陽もおんなじ心地だろう。

 死んで生きてを繰り返しているのだ。御天道様は転生の大先輩と云っていいだろう。

 やんぬるかな。何も出来ない。幕引きになって改めて、己の矮小さを知る。

──暗転。

 虫ケラが一匹、赤日に照らされつつ、その命を終えた。


  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 光があった。

 直視していると目がくらみそうなものだが、そんな気配はない。脳でもシナプスでもなく、魂の外側で、これは目で知覚しているワケじゃないんだなと理解した。

 俺には覚えがあった。ここに来てやっとこさ思い出したが、神と逢ったのはこの空間だ。

 しょうもない男が死んだ時、神の御手でって何物にも縛られない自由な虫へと変貌させたのだ。

 俺はこの、光の塊を霊験あらたかな天神様として認識していたんだ。その御業に疑う余地はなく、全幅の信頼を預けるに足る存在だ。

「虫としての生を終え、再び旅路へ赴く時です」

 声が聞こえた。

 それは上から降ってきたようでもあり、横から囁かれたようでもある。下手すると後ろから吼えられたのかもしれない。ともかく、玄妙さを纏った音が、何らかの意思を伝えてくる。

「あなたは前世で碌に功徳を施しませんでした」

 よし、と心のうちでほくそ笑む。

「なんと! それじゃ、それでは俺は一体どうなると云うのですか?」

 大仰に声を出し、見かけだけ残念がってみせる。顔では名演技を披露しつつ、ソッとはらの中で舌を出した。この運びはミンナ俺の目当てに向かっている。

 あんな惨めな人生はもう御免だ。

 妬み嫉みの風雨に晒される、凍えるような人の一生のどこに暖かさがある。暗雲立ち込める空の下のどこに優しさがある。

 再び、この清い五分の魂を胸に、気高い一寸の虫として生を全うしてやろう──。

「なので、来世は人間として転生していただきます。地中より自由の効かない家庭で育ち、仕事をするようになったら日の目を見ることもないでしょう。日の出より早く働きに出て、日が暮れてから家路に着く。そんな暗黒の人生を送りなさい」

 俺は声を上げる間もなく、落ちていく。体も無いのに不快な重力が、俺に落下を伝えてくる。


 男は、哀れにも人間として

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