短編
変身
俺は虫であった。
イヤ、これは順序が逆か。虫が俺の精神を持ったのだ。俺は俺として、三十余年の惨めな男としての記憶がある。
人生を終えた時、神に逢ったのだ。
天神様から何か有難い
輪廻転生とは仏の
──名も知らぬ、声も上げぬ。飛ぶことはおろか、首がない。頭と胸と尻だけの、空を見上げることも叶わぬ虫ケラだった。
元よりスバラシイ人間ではなかったが、今や往来を避け、日陰を好み、石ころの下を這いずり回る薄汚い虫に成り果てた。
キット、これは罰だろう。とりわけ善人でなく、取り立てて悪人でもなかった半端者への、罪を
思えば
生家は裕福でなく、環境も恵まれたものではなかった。将来がボンヤリとした薄闇の中、怖気付きながらジリジリ踏み出す一歩で、輝かしい栄光など得られよう筈もない。
学校を出た後は内定を拾っただけの思い入れもない企業に勤め、体と
喜びも哀しみも、就業時間で薄く引き延ばした日々を送り、そのまま死んだ。
俺は善行を積み重ねていなかったから、こんな虫なんかに転生したのだ。こんな生き方で徳を積めというのが土台無理な話だというのに、当たり屋めいた運命から逃れられないというのか。
しかし逆説的に考えると、
のそりと節くれだった六脚を動かし、穴の空いた落ち葉を掻き分ける。虫としての勝手が判別つかない今、取り敢えず寝床は寄せ集めた草葉で
──何も知らん靴に踏み潰されたらどうしよう。イヤ、どころか鳥や獣にパクリとやられたらひとたまりもない。ナント、この身のナントちっぽけであることか。
毛も皮もない外骨格に、夜風の冷たさがジンと沁みた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
これは何度目の朝だろうか。
柔らかな土の中でグッスリと睡眠を摂り、とびきり冷たい朝露を飲む。そのまま青々とした茎を登り、その先端に取り付くと重みが葉を
穏やかな風に触角を撫でられつつ、暖かい朝陽を浴びる。黒く艶のある我が外殻がキラキラと反射させている。
ふと下を見ると、蟻がセッセと労働に汗を流していた。いやはや虫の世界も社会を
風に運ばれた湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。今の俺には、それが淹れたてのコーヒーのように感ぜられる。思わず鼻歌の一つでも出そうな気分だ。
いつの間にやら、俺はこの気ままな生活が気に入っていた。
どころか、人の歩む先行きの起伏に、ほとほと呆れ果てていた。運命は平坦である方がイイ。
下手に善行をこなしてしまい、ウッカリ人間にでも転生するとことだ。また従いたくもない規則に雁字搦めにされ、手足を縮こめてヒッソリと息をせねばならない。正しく息苦しい。そうまでして生きるのはさぞ苦しいだろう。
そう気付いてからは自堕落に、無為に日々をスリ潰していた。
蟻の運ぶエサを
そうして性根が虫に堕ちた後は実にイイ気分だった。本当に、ナントモ胸のすく思いだ。
──ハハァ、もしかすると俺は虫の精神を持っていたのに、誤って人なんかの器に注がれてしまったのやもしれんな。
明日は何をしようか。
この辺りでいっとう高い木に
それとも昨今激化している、西の蟻共の縄張り争いでも眺めに行こうか。一帯の元締め
アァ、朝
日がなそんな瑣末な──もはやこの姿になっては重大な──ことを考えていると、ジワリと迫ってくるものを感じる。重く、冷たく地中深くの土のようにジットリと濡れている。
一度死んだ俺にはわかる。これは、死だ。
映画なんかで
このまま進んではいけないと思いつつも、
死んで生きてを繰り返しているのだ。御天道様は転生の大先輩と云っていいだろう。
やんぬるかな。何も出来ない。幕引きになって改めて、己の矮小さを知る。
──暗転。
虫ケラが一匹、赤日に照らされつつ、その命を終えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
光があった。
直視していると目が
俺には覚えがあった。ここに来てやっとこさ思い出したが、神と逢ったのはこの空間だ。
しょうもない男が死んだ時、神の御手で
俺はこの、光の塊を霊験あらたかな天神様として認識していたんだ。その御業に疑う余地はなく、全幅の信頼を預けるに足る存在だ。
「虫としての生を終え、再び旅路へ赴く時です」
声が聞こえた。
それは上から降ってきたようでもあり、横から囁かれたようでもある。下手すると後ろから吼えられたのかもしれない。ともかく、玄妙さを纏った音が、何らかの意思を伝えてくる。
「あなたは前世で碌に功徳を施しませんでした」
よし、と心の
「なんと! それじゃ、それでは俺は一体どうなると云うのですか?」
大仰に声を出し、見かけだけ残念がってみせる。顔では名演技を披露しつつ、ソッと
あんな惨めな人生はもう御免だ。
妬み嫉みの風雨に晒される、凍えるような人の一生のどこに暖かさがある。暗雲立ち込める空の下のどこに優しさがある。
再び、この清い五分の魂を胸に、気高い一寸の虫として生を全うしてやろう──。
「なので、来世は人間として転生していただきます。地中より自由の効かない家庭で育ち、仕事をするようになったら日の目を見ることもないでしょう。日の出より早く働きに出て、日が暮れてから家路に着く。そんな暗黒の人生を送りなさい」
俺は声を上げる間もなく、落ちていく。体も無いのに不快な重力が、俺に落下を伝えてくる。
男は、哀れにも人間として生まれ落ちた。
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