第二章 デオラⅢ【4】

 ロンの言うとおり、船室に入ってすぐにエアタイトレバーを降ろした。室内の気密度が強化されたことは、肌でわかった。

 ここにいれば、安心だ。

 そう実感できるのは、エアタイトの効果ではなく、ロンの態度のおかげだろう。だらしない身なりをしてはいるが、いざという時のてきぱきした行動力や肝の座り方は、力強くて頼り甲斐がありそうだ。

 アリスは、六歳のときに両親を亡くしていた。ことに父親は仕事で家を空けていることが多かったから、アリスの記憶にはあまり残っていない。

 今はヒルベルトが父親代わり、いや正式な養父だが、体がほっそりしていて、知的で、学術論文か百科事典に口がついたみたいに明晰かつ流暢に喋るヒルベルトは、アリスが漠然と抱いている父親のイメージとは、少し異なっていた。

 ただし、ロンが父親のイメージかと問われれば、それも違う。

 と言うよりも、ロンには父親の匂いがない。なんとなくロンに避けられているような気がするのは、おそらくロンには子どもがおらず、自分のような年ごろの少女との接し方が身についていないからではないだろうか、とアリスは予測していた。

 愛想が悪いのが単に避けられているだけなのだとしたら、デオラⅨ行きの件は、まだ少し交渉の余地がありそうだ。

 さっきの警報には少し驚かされたけれど、ロンが手際よく対処したのだろう、すぐに異常は収まったらしい。今は、船もごく静かに航行している。耳鳴りを起こすようなことはない。

 ただ、三種類ほどのあやふやな不快感は、まだ消え去っていない。それから、果汁のような温かい〈声〉も。

 不快感のほうは、ほぼ察しがつく。声のほうは、ほんとうにかすかなもので、何なのかぜんぜん見当がつかない。

 アリスはエアタイトを解除し、船室を出てブリッジへ上がってみた。

 しかし、扉が内側からロックされていて、中に入れなかった。

 やっぱり避けられている。

 しかたなく、船室に引き返してきた。

 することがなくなった。

 ベッドに寝転がった。

 円形シールドの外の景色は、まるで変化がない。

 退屈な時間だった。

「退屈だな……」

 あまりに退屈なので、アリスは口に出して言ってみた。言ってから、そういえば退屈するなんて久しぶりだな、と思った。

 退屈しているということは、緊張を強いられていないということでもある。

 教育センターでは、それこそ夢の中でも緊張しっぱなしだった。

 もう、思い出したくもない。

 体を起こす。

 メディカルプロセッサーを外してみた。出血は止まり、傷口もきれいに乾きはじめている。

 ふと思い立って、体を洗うことにした。

 プロセッサーとインタラプターとペンダントをベッドの枕もとに置いた。それから、着ているものをぜんぶ脱いで、船室の隅に造りつけのバスルームへ立った。

 宇宙船の中にいるとは思えないほど、シャワーの湯はふんだんに出た。体と髪を洗った。頬の油汚れも、爪の間にはさまっていた泥も、丁寧に落とした。

 シャワーを切り、温風のスイッチを入れ、体を乾かした。

 胸からタオルを巻きつけてバスルームを出て、ベッドに寝転がった。

 そのまま、寝入ってしまった。

 サンドバギーで星空の下を走る夢を見た。ずいぶん長い間、見忘れていた夢だった。

 どれぐらい眠ったろう。

 航法コンピュータのアナウンスで目が覚めた。

 正確には、その寸前の耳鳴りで、だが。

『デオラⅢ重力圏に入ります。位置制御ジャイロに数値の入力を要求します。デオラⅢ重力圏に入ります。位置制御ジャイロに数値の入力を要求します』

 どうしてバカ正直に二回繰り返すんだろう、と思いながら、体を起こした。

 タオルが、床に落ちた。それで初めて、自分が裸のまま寝てしまっていたことに気づいた。

 あわててタオルを拾い上げて胸にかき抱き、素早く周囲を見たが、誰に見られているわけでもなかった。

 そうだった。ここは、四六時中舎監に見張られていた寄宿舎ではない。

 服を着て、ブリッジへ上がった。今度はロックされていなかった。

 入ってみると、ちょうどロンが主操縦席から立とうとしているところだった。

 ちょっとだけ迷って、呼びかけた。

「おじさん」

 ロンは、首がねじ切れそうな勢いで振り返った。迷惑そうな表情がよぎったが、すぐにかき消すように消えた。

「誰が『おじさん』だ、こら」

「だって、なんて呼んでいいか、わかんない」

「だったら、そうだな、とりあえず『船長』と呼べ」

「あたしは」

 乗組員なんかじゃない、と言いかけたが、気が変わった。ともかく、持ち上げておこう。

「はい、船長。で、何か手伝うこと、ない?」

「ない」

 即答だ。光の反射よりも速いぐらいの。

「さっきとおんなじことだったら、あたし、できる」

「ケタが違う。着陸だぞ。宇宙港からの誘導ビーコンに乗っかるまで、ずっとジャイロを補正し続けなきゃならない。素人にはムリだ」

「やらせってたら」

 副操縦席に駆け寄り、ロンが着席しようとしているのを押しのけて強引に座った。

「おっ……おまえなあ」

「何からやる?」

「どけ。ムリだ」

「やだ。やる」

「しつこいな……」

 押し問答のあげく、とうとうロンが折れた。

「ひとつでもヘマしたら、即刻ブリッジからたたき出す。いいな?」

「うん」

 アリスはジャイロに手を置いた。

「要領はさっきと同じだが、リアルタイムで入力、補正、入力、補正、だ。俺が合図をしたら、始めろ」

 ロンは指示し、自らは主操縦席へ戻った。ほどなく、フロントとサイドのシールドに防護シャッターが降ろされた。

 推力調整、耐熱プロテクト作動、下降開始。ロンは口に出して確認しながら、次々と操作をする。

 その途中でアリスのほうを向いた。

「よし、開始だ」

 アリスは、最初からまごついた。

 インジケーターを見ながら同時に数値を計算し、それを補正しながら入力し、という手順を、個別ではなく同時に行なわなくてはならない。

 右横から次々とロンの呆れ声が飛んできた。

「遅いぞ」

「あと六十秒で機関切り替えだ。しっかり間に合わせろよ」

「右に傾いた……今度は左」

「だめだな。貸してみろ」

 最後には席を離れてアリスの背後に立ち、こと細かに指図しはじめた。

「先を読め。ひと呼吸早めに補正を入れるぐらいでちょうどいい……もう一度だ……よし。そのまま絞れ絞れ絞れ……絞り過ぎた、戻せ……そこで確定……」

 指図の合間に主操縦席へ駆け戻っては操舵桿をいじり、推力や舵を操作する。いじればまた戻ってくる。

「これでいい?」

 数値を確定し終えて、アリスは後ろを振り仰いだ。

「結果はコンピュータに聞いてくれ」

 投げやりな調子で言い置くと、ロンはアリスの背後から離れた。間髪を入れず、コンピュータがアナウンスを発した。

『誘導ビーコン捕捉。軸線固定。誘導ビーコン捕捉。軸線固定』

 うまくいった。球形モニターは薄いグリーン色に彩られ、三次元座標を示す光点は寸分のブレもなくモニターの中央で静止している。

 船体が小刻みに揺れる。デオラⅢの大気圏に突入したのだ。

「どう? おじさん」

 アリスは得意げに胸を反らせた。

「おじさんじゃない。船長だ」

 ロンは眉を寄せてたしなめ、続けて、

「俺が手取り足取り指図してやったからできたようなもんだろ。自慢にはならないぜ」

 とつまらなそうに言った。

 船内の擬似重力にかわって、デオラⅢの本物の重力が感じられるようになってきた。

 シールドの防護シャッターが開く。

 遠くに小規模な宇宙港の管制塔が見えてきた。

 このあたりは今は昼半球らしいが、大気が薄いせいだろう、空ぜんたいが落ち着いた紫色に輝いている。こんな空を見るのは、アリスは初めてだった。

 ふと横を見ると、ロンもぼんやりと空を見上げていた。が、アリスの視線に気づくと、

「おっと、着陸準備だ」

 と独り言のように言い、わざとらしく操舵桿を握った。

 アリスは、真顔で尋ねた。

「次は何したらいいの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る