隣の席の月島さんは、クールで完璧な優等生。――というのは嘘で、本当は過去と未来に縛られて動けない、俺の残念な幼馴染だ。よし、太陽みたいな俺が君の世界の“解像度”を上げてやる。

Gaku

第一話:四月の風と、世界のチューニング

 空が、馬鹿みたいに青かった。

 三日前に満開を迎えた校門脇のソメイヨシノは、今日のこの穏やかな春風を待っていたとばかりに、惜しげもなくその花びらを空へ解き放っている。それはまるで、これから始まる新しい一年を祝福する紙吹雪のようでもあり、あるいは、過ぎ去った昨日という時間を弔う、静かな雪のようでもあった。

 そんな感傷的なことを考えているのは、たぶんこの県立蒼穹(そうきゅう)高校の全校生徒千二百名のうち、僕、天道輝(てんどう あきら)ただ一人だろう。いや、嘘だ。僕はそんな詩的なこと、一ミクロンも考えていない。


「うおおぉぉっしゃあああ! 見ろよ雫! 桜吹雪だ! 超サイヤ人になった時のオーラみてえ!」

「輝、声が大きい。あと、全然似てないから。オーラは金色で、上に昇るものでしょう。桜はピンクで、下に落ちるものでしょ。ベクトルが真逆」


 僕の隣を歩きながら、生真面目なツッコミを冷静に繰り出すのは、月島雫(つきしま しずく)。僕の幼馴染だ。艶やかな黒髪を肩まで切り揃え、少し大きめの制服にまだ着られている感じが、いかにも新学期、といった風情を醸し出している。彼女のその透き通るような白い肌は、舞い散る桜の花びらを反射して、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。


「細かいことはいいんだよ、雫ちゃん。大事なのはフィーリング! パッション! この、こう、魂が震える感じが大事なんだって!」

「魂が震えるのは、輝が昨日の夜中までゲームしてたからでしょ。低周波振動ってやつよ。健康に悪いからやめなさい」

「うっ…なぜそれを…」


 雫は、僕の母親も知らないはずの昨夜の蛮行を、まるですぐ隣で見ていたかのように言い当てた。彼女のその黒曜石のような瞳は、時々、森羅万象のすべてを見透かしているんじゃないかと思えるほど、深く、澄んでいる。


 僕と雫の関係は、複雑そうで、たぶん驚くほど単純だ。家が隣で、物心ついた時から一緒にいる。親同士も仲が良く、週末には当たり前のようにどちらかの家で鍋を囲む。それはもう、生活サイクルに組み込まれた、歯磨きや入浴と同じレベルの恒常行動。僕が太陽なら、彼女は月。僕がアクセル全開の暴走機関車なら、彼女は的確に線路のポイントを切り替え、時に冷静にブレーキをかける管制官。そんな感じの関係性が、もう十年以上も続いている。


 新しくなったクラス表の前は、期待と不安の入り混じった熱気でごった返していた。人間の感情というやつは、どうやら目には見えない粒子となって空気中を漂うらしい。興奮した犬みたいに鼻をクンクンさせれば、甘酸っぱい期待の匂いや、ほろ苦い不安の香り、友人と同じクラスになれた喜びの香ばしいフレーバーなんかが、ごちゃ混ぜになって脳を直接シェイクする。


「お、俺と雫、二年三組だ! また同じクラスだな!」

「…ほんとだ。よろしく、輝」


 僕が満面の笑みでそう言うと、雫はほんの少しだけ口角を上げて、静かに頷いた。彼女は、嬉しい時でも、悲しい時でも、感情の振れ幅が極端に小さい。まるで、心の中心に巨大な重りがあって、どんな波が来ても決して揺らぐことがない、巨大な船のようだ。いや、違うな。彼女の心は、本当は誰よりも繊細なガラス細工の小舟で、だからこそ、必死に波を立てないように、凪の状態を保とうとしている。そんな気が、ずっとしていた。


 教室の扉を開けると、そこはもうカオスだった。

 一年間という名の長いようで短い航海を共にする仲間たちの、顔、顔、顔。

 窓際の席で、分厚い文庫本を広げ、周囲の喧騒などまるで存在しないかのように自分の世界に没入しているのは、学年トップの秀才、水鏡(みかがみ)レイカ。彼女の周りだけ、なぜか空気がピンと張り詰め、まるで違う時空がそこにあるみたいだ。

 教室の後ろでは、見るからに運動神経の塊といった感じの爽やかイケメン、風間 隼人(かざま はやと)が、バスケ部の仲間たちと談笑している。彼の周りには、キラキラとした光の粒子が舞っているように見える。少女漫画なら、間違いなく背景に薔薇が咲き乱れているタイプだ。

 その風間に、やたらと馴れ馴れしく絡んでいるのは、髪を明るい栗色に染め、スマホのインカメラを鏡代わりに前髪をいじっているギャルの、金森(かなもり)アゲハ。

「てか隼人、あんたまた身長伸びたんじゃない? マジ、モデルじゃん。ウチと並んだら最強カップルじゃね?」

「はは、アゲハは相変わらずだな。俺なんかより、天道の方が太陽みたいでいいじゃんか」

「あー、アキラはないわー。あいつ、彼氏っていうか、どっちかっつーと大型犬? みたいな?」

 大型犬とはなんだ、大型犬とは。聞こえてるぞ。

 そして、そんなカースト上位グループとは明らかに違う周波数を放ちながら、一人でニヤニヤとタブレットを眺めているのは、アニメ・ゲーム・その他もろもろの二次元コンテンツをこよなく愛する男、三田村(みたむら)ヒロだ。

「フヒヒ…今期の『異世界転生したら魔王の娘のペットのハムスターだった件』、作画が神すぎる…! このぬるぬる動く戦闘シーン、制作会社はまさか…!」


 そうだ。ここはそういう場所だ。

 それぞれが全く違うOSで動き、全く違うアプリを起動させ、全く違う目的でここにいる。水と油、醤油とケチャップ、納豆と生クリーム。本来なら絶対に交わらないはずの、バラバラの個体。

 でも、なぜかこの「教室」という名の不思議な箱の中では、それらが混ざり合い、反発し合い、時に共鳴し合いながら、一つの奇妙な混合物――「クラス」という名の、予測不能な液体を生成していく。

 これは、壮大な社会実験なのだ。神様がサイコロを振って決めたとしか思えないランダムな組み合わせで、一体どんな化学反応が「創発」するのかを、高みの見物で楽しんでいるに違いない。


「おーい、アキラ! 雫ちゃん! こっちこっち!」

 僕を呼ぶ声がした。見れば、僕の幼馴染で、小学校からずっと一緒の腐れ縁、大河(たいが)ユウキが窓際の席から手を振っている。

「よお、ユウキ! また同じクラスか! よろしくな!」

「おう! しかし、すげーメンツのクラスになったよな。レイカ様に、風間きゅんに、アゲハちゃん。魔窟かよ」

「ユウキ、それはレイカさんたちに失礼よ」

 雫が小さくたしなめる。ユウキは「へいへい」と肩をすくめた。

 席は自由だったので、僕らはユウキの近くに陣取った。すると、すぐ前の席にいた雫の幼馴染、橘(たちばな)スミレがクルリと振り返った。

「あ、雫! 今年もよろしくね! あ、天道くんも」

「スミレちゃん、よろしく」「おう、よろしく!」

 スミレちゃんは、ふわふわとしたパーマのかかった髪と、人懐っこい笑顔が印象的な女の子だ。雫とは正反対の、明るくオープンな性格。

 こうして、僕らの二年三組という名の実験場は、役者を揃え、静かに稼働を開始した。


 ***


 事件が起きたのは、ホームルームが終わった後の、気怠い昼下がりのことだった。

 担任の、可もなく不可もなく、しかし存在感も空気のように希薄な、たぶん前世はクラゲだったに違いない佐藤先生が退室した途端、教室の空気が緩んだ。その瞬間を待っていたかのように、風間隼人がパンッと手を叩いた。


「えー、みんな、ちょっといいかな! 早速だけど、来月に行われるクラス対抗の球技大会について、俺から一つ提案があるんだけど!」


 さすがはイケメン。その一言で、ざわついていた教室の意識が、一瞬で彼に集中する。これが「イケメン・シンクロニシティ」だ。もし三田村が同じことを言ったら、たぶん誰も聞かずに彼の声はノイズとして処理されていただろう。世界とは、かくも不平等な周波数特性でできている。


「ご存知の通り、球技大会はバスケとドッジボールだ。で、俺たちバスケ部としては、当然、バスケは優勝を狙いたい。だが、それだけじゃ面白くない。そこでだ!」


 風間はニヤリと笑い、とんでもないことを言い出した。


「どうせなら、このクラスの『伝説』を作らないか? 具体的に言うと、バスケとドッジ、両方で圧勝して、さらに、その軌跡をドキュメンタリー映像作品として残す! そして、秋の文化祭で上映するんだ! タイトルは…そうだな、『蒼穹の奇跡〜二年三組、汗と涙の物語〜』みたいな感じで!」


 教室が、一瞬、静まり返った。

 シーン、という擬音が聞こえてきそうなほどの完全な静寂。それはまるで、とんでもなく高い周波数の音が鳴った後、耳がキーンとなる、あの感覚に似ていた。

 最初に沈黙を破ったのは、金森アゲハだった。


「…え、ナニソレ。マジ、ウケるんですけど!」

 ケラケラと笑うアゲhゲハ。だが、その目は本気だ。

「てか、良くない!? 映像作品! ウチ、主演女優いけるっしょ! 汗と涙、超得意だし! てか、絶対盛れるじゃん!」

 彼女の脳内では、スローモーションで髪をかき上げながらボールを投げる自分の姿が、完璧なライティングで再生されているに違いない。


「ふむ…面白い提案ですね」

 次に口を開いたのは、意外にも、水鏡レイカだった。彼女はいつの間にか本から顔を上げて、細いフレームの眼鏡の奥から、冷静な光をたたえた瞳で風間を見ていた。

「勝利という目標に対し、映像制作という付加価値を加え、さらに文化祭での上映という形で二次利用まで見据える。極めて合理的かつ、費用対効果の高いプロジェクトと言えるでしょう。各員のモチベーションを最大化するための、優れたインセンティブ設計です。認めましょう。あなたのその脳、意外と前頭前野が発達しているのですね」

「え、あ、ありがとう…? たぶん褒められてるんだよな…?」

 風間が、その爽やかな顔を困惑に歪ませる。


 そして、この提案に最も激しく共振(レゾナンス)したのは、言うまでもなく、三田村ヒロだった。

「そ、そ、それだぁーーーーっ!!」

 ガタァン!と椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった三田村は、興奮でワナワナと震えながら叫んだ。

「き、奇跡のドキュメンタリー! 凡庸な日常に差し込む、非日常の輝き! 友情、努力、勝利! これぞ、学園モノの王道! 脚本、演出、撮影、編集…すべてこの三田村ヒロにお任せあれ! 俺のこの手で、凡百のクラスビデオとは一線を画す、伝説の『神作品』を創り上げてみせようぞ!」

 彼の目には、もう見えている。エンドロールに流れる自分の名前と、鳴り止まない観客の拍手喝采が。


 こうして、たった一人のイケメンの、ほんの思いつきという小さな入力が、教室という名の複雑系に投じられた結果、アゲハという触媒と、レイカという理論武装と、三田村という暴走エンジンを得て、瞬く間に「クラス全体のプロジェクト」という、誰にも予測できなかった巨大な出力として創発してしまったのだ。

 これが、世界の仕組みか。

 僕は隣の席の雫に、こっそり耳打ちした。


「おい雫、なんかすごいことになってきたぞ。面白そうじゃん!」

「…面白そう、じゃないでしょ。どう考えても、めんどくさいことになる未来しか見えないんだけど」


 雫は、深い深いため息をついた。その眉間には、くっきりと二本の縦皺が刻まれている。彼女は、まだ来てもいない未来の苦労を、わざわざ前借りしてきて、今この瞬間に味わうという、特殊な能力を持っている。


「まず、練習時間の確保はどうするの? バスケ部とそれ以外で、絶対に熱量の差が生まれるわ。ドッジボールのメンバー選考で揉めるかもしれない。映像制作だって、三田村くんのこだわりが強すぎて、編集中に仲間割れするパターンよ。文化祭の上映だって、著作権フリーのBGMを探すので一苦労するし、そもそも機材のレンタル代はどこから…」

「ストップ、ストップ! 雫さん、まだ何も始まっちゃいねえ!」

 僕は思わず彼女の言葉を遮った。

「なんでそんな、まだ起きてもないことで悩めるんだ? 宝くじ買う前から、高額当選した時の税金の心配してるみたいだぞ」

「それは…起こりうるリスクを事前に想定して、対策を立てておくのは、当然のことでしょ。危機管理能力って言うのよ」

「その危機管理能力とやらのおかげで、雫の眉間の皺は深くなる一方だぜ。いいか、雫。なるようにしかならないし、どうにかなる。それがこの世の真理だ」


 僕が何の根拠もない真理をドヤ顔で説くと、雫は呆れたように僕の顔をじっと見つめた。その瞳は、「この単細胞生物は、一体何を言っているのかしら」と、純粋な疑問を投げかけていた。


 ***


 それからの日々は、まさにドタバタ劇の連続だった。

 風間とバスケ部員が中心となって立てた練習スケジュールに、文化部の生徒たちから「そんな放課後毎日練習とか、ありえないんですけど!」と不満が噴出。

 するとすかさず水鏡レイカが立ち上がり、全生徒の部活動、習い事、個人の可処分時間を緻密に計算し、全パターンを網羅した上で導き出された「最適解」としての練習シフト表を、黒板に巨大なマトリクスとして書き出した。あまりの完璧さに、誰も文句が言えなくなった。


 ドッジボールのメンバー選考では、女子の間で「アゲハは運動神経いいけど、協調性ゼロだからやだ」「レイカさんは頭いいけど、ボールから逃げる軌道まで計算してそうで怖い」などと、水面下での醜い足の引っ張り合いが勃発した。

 すると今度は金森アゲハが、「はいはい、ウチが全部決めるから! まず、顔! とにかく顔がいい子から優先ね! 映像映え、大事だから! はい、スミレは合格! 雫は…まあ、黒髪清楚枠でギリ合格!」と、誰もが唖然とする「顔面至上主義選抜」を敢行。あまりの暴挙に、逆にクラスが一つにまとまった。


 そして、その全ての狂乱を、三田村は嬉々としてカメラに収めていた。

「素晴らしい! この、目標に向かう中で生まれる、剥き出しの感情の衝突! リアルだからこそ胸を打つ! これはドキュメンタリーの皮を被った、極上のヒューマンドラマだ!」

 彼の周りには、もはや誰にも見えない「監督」というオーラが立ち上っていた。


 僕はといえば、運動は得意なので、バスケでもドッジでも、主力メンバーとしてそれなりに楽しんでいた。難しいことは考えない。目の前にボールがあれば追いかける。仲間がパスを求めていれば、投げる。ただそれだけ。未来の勝利も、過去の敗北も、僕にとってはあまり関係がない。大事なのは、「今、この瞬間」のボールの感触と、駆け抜ける風の匂い、そして仲間たちの声だけだ。


 一方、雫は、やはりどこか乗り切れていない様子だった。

 ドッジボールの練習中も、彼女は常にコートの隅っこにいて、飛んでくるボールに対して、まるで自分にだけ降りかかる避けられない災厄のように、怯えた表情で身をすくめていた。


「雫、もっと楽しめって! ボールは友達だ!」

 僕がそう声をかけると、雫は忌々しげにボールを睨みつけながら言った。

「あんな硬くて、不規則な軌道で飛んでくる物体が、友達なわけないでしょ。あれは凶器よ。私にとっては、時速八十キロで飛んでくる微分積分の問題集みたいなもの」

「どんな例えだよ!」


 そんなある日の放課後だった。

 練習も終わり、夕日が教室を、まるで蜂蜜をこぼしたかのように、とろりとしたオレンジ色に染め上げていた。ほとんどの生徒が帰り、残っているのは僕と、自主的に居残って撮影データの整理をしている三田村と、そして、一人で黙々と今日の練習の反省点をノートに書き出している雫だけだった。


 チョークの粉の匂いと、埃っぽい匂いが混じり合った、独特の放課後の空気。窓の外では、吹奏楽部が奏でる、少しだけ音程の外れたユーフォニアムの音色が、夕暮れの空に溶けていく。風がカーテンを優しく揺らし、そのたびに、机の上に落ちる光の四角形が、まるで生き物のように形を変えた。


 僕は、雫の前の席に、椅子を逆向きにして座った。

「よっ。まだいたのか」

「…輝。あなたこそ、早く帰ればいいのに」

 雫は、僕から視線を外さずに、シャーペンを走らせ続ける。そのノートには、びっしりと小さな文字で、今日の練習で誰がどんなミスをしたか、どんなフォーメーションが有効だったか、といった分析が書き連ねられていた。


「すげえな、それ。レイカさんよりすごい分析じゃねえか」

「別に…。ただ、できることをしてるだけ。私は、輝や風間くんみたいに、運動神経でチームに貢献することはできないから。せめて、頭で考えられることくらいは、やらないと…」

 彼女の声は、か細く、自信なさげだった。

「みんな、すごいわ。アゲハさんだって、一見、適当に見えて、実は誰よりも周りの子のことを見てる。ムードメーカーとしての自分の役割を、ちゃんと分かってる。レイカさんは言うまでもないし、三田村くんだって、自分の得意なことで、ちゃんと輝こうとしてる。私だけよ。何もできてないのは。コートの中でも、ただ怯えてるだけ…」


 うつむいた彼女の横顔を、西日が黄金色に縁取る。長い睫毛が落とす影が、頬の上で小さく震えていた。

 ああ、まただ。

 彼女は、また自分を苦しめている。

 彼女の心は今、「こうあるべきだ」という理想の自分と、「何もできない」と思い込んでいる現実の自分との間で、激しく引き裂かれている。その摩擦が、彼女の心を少しずつ、確実にすり減らしていく。


 僕は、どうしようもない衝動に駆られて、口を開いた。


「雫」

「…なに」

「あのさ、俺、ずっと思ってたんだけど」

「…」

「雫って、いつも『今』にいないよな」


 彼女のシャーペンを動かす手が、ピタリと止まった。ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳が、不思議そうに僕を見つめている。


「『今』にいないって、どういうこと…?」

「だって、いつもそうだろ。練習してる時も、『ああ、もしボールが当たったらどうしよう』って、まだ来てない未来のことを心配してる。で、練習が終わったら今度は、『ああ、あの時もっとうまく動けていれば』って、もう終わった過去のことを後悔してる」

「…それは」

「過去も未来もさ、どっちも『今』じゃないじゃん。過去はもう終わったことで、変えられない。未来はまだ来てないことで、どうなるかなんて誰にも分からない。どっちも、言ってみれば幻みたいなもんだろ? 雫は、その幻と一人で戦って、勝手に傷ついて、勝手に疲れてるんだよ」


 僕の言葉に、雫の瞳が、わずかに見開かれた。彼女の心の湖に、小さな石が投げ込まれ、波紋が広がっていくのが見えた。


「俺はさ、たぶん、頭が悪いから、今のことしか考えられないんだ。ドッジのボールが飛んできたら、それを避けるか、取るか。バスケでパスが来たら、シュートするか、ドリブルするか。その瞬間に、一番面白いと思うことをやるだけ。過去のミスも、未来の不安も、その瞬間には、俺の頭の中にはないんだよ」

「…」

「だってさ、一番リアルで、一番面白いのは、いつだって『今』じゃんか」


 僕は、そこまで一気に言うと、なんだか急に恥ずかしくなって、ガシガシと頭を掻いた。

 柄にもないことを言ってしまった。まるで、どこかの偉いお坊さんみたいな説教だ。

 雫は、何も言わなかった。ただ、じっと僕の顔を見ていた。その深い瞳の奥で、何かが静かに揺らめいている。それは、怒りでも、悲しみでもない。たぶん、戸惑いだ。今まで自分が信じてきた世界の法則が、根底から揺さぶられたような、そんな戸惑い。


 長い、長い沈黙が流れた。

 夕日はほとんど沈みかけ、教室は濃い藍色とオレンジ色のグラデーションに包まれていた。


 やがて、雫はふっと息を漏らすように笑った。

 それは、僕が今まで見たこともないような、とても儚くて、でも、とてもきれいな笑顔だった。


「…そうかも、しれないわね」

 彼女は、小さくそう呟くと、パタン、とノートを閉じた。

「輝。あなたって、やっぱりただの単細胞じゃなくて、究極の単細胞なのね」

「おい、結局、単細胞なんかい!」


 僕らがそんなやりとりをしていると、教室の後ろでヘッドホンをしながら黙々と作業をしていた三田村が、突然、ガバッと顔を上げた。

「き、来た…! 神の光…! いま、二人の間に、確かに『エモ』という名の光が見えたぞ…!」

 彼は、いつの間にか回していたカメラを、宝物のように抱きしめていた。

「今のシーン、絶対に使う…! 夕日、放課後の教室、交錯する視線、そして、ヒロインの、あの、あの憂いを帯びた微笑み…! これだ! 俺が撮りたかったのは、この『空気』なんだよぉぉぉ!」


 僕と雫は顔を見合わせ、同時に、盛大にため息をついた。

 どうやら、僕らのクラスという名の予測不能な液体は、これからさらに奇妙な化学反応を繰り返しながら、とんでもない方向へと流れ出していくらしい。


 まあ、いいか。

 それもまた、面白い。


 窓から吹き込んできた四月の夜風は、もうすっかり冷たくなっていて、桜の花びらの代わりに、どこか遠くの街の匂いを運んできた。

 僕らの、長くて、短くて、どうしようもなく面倒で、そして、たぶん、かけがえのない一年が、こうして始まった。


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