いたいけの恋
来生ひなた
第一話 叔父との縁について
初恋は間違いなく叔父だった。
病弱な妹を持った私の孤独を、いつも優しく包み込んでくれた人。妹が熱を出すたび、私一人で叔父の家へ預けられるのが幼い頃の何よりもの楽しみだった。あれは今にしてみれば薄情な姉だったと思う。ともあれ、小さい頃から、叔父は私の憧れだった。パパよりずっと大人っぽくて、知らないことをなんでも知ってて、ちょっぴりお茶目なお兄さん。
彼のその、痩せ型の面差しに年輪が目立つようになってなお、微笑まれて疼かないものがないと言えば嘘になる。ずっと、うっすら、あなたがすき。頬に朱を差す淡い好意は少女のままで、胸の奥から彼を覗いている。
それは、一緒に暮らし始めた叔父が、妹に暴力を振い始めても、特段変わることはなかったのだ。
◆
大学一年の春、両親が死んだ。車の単独事故だ。無理心中かと揶揄も受けたが、なんのことはない、ボロ車の整備も疎かに娘の看病を続けたツケの清算だった。発熱発作常連の我が妹を、幾度となく深夜の病院に担ぎ込んだメンテ不足の老戦車は、陸橋下へと砕け散って最期に主を天へと送った。
そうして青天の霹靂に放り出された、大学と高校に進学したての小娘二人。自活するにはあんまりに未熟な我々姉妹を率先して引き取ってくれたのが、
「大丈夫だよ、
お泊まりじゃなくて、ずっと一緒に暮らせるなんて。彼の名前でノートの隅に傘をこさえていた、小学生の自分が聞いたら無邪気にはしゃぐのだろうな。
◆
叔父は理工系の国公立を出た人で、食品メーカーに卸す大きな機械の設計を生業としているすごい人だ。その頭の良さに相応しく、彼の家には読みきれないほどの本があった。小さい頃に私が好んで籠っていたのは、屋根裏部屋の小さな物置。昆虫図鑑と、事典と、地球儀がしまわれていた。
そこで未知の知識にあてられ頁を捲っていると、吊り階段をよじ登ってきた叔父が、私の次なる興味にぴったりの本をどしどし差し入れて持ってきてくれた。この家には溺れそうなくらい本があるのに、探し物が上手な彼は、私が何か気になることを質問すると、すぐ階下に降りて必要な教本を見つけ出してくるのだ。
私は読書の虫だが、別に本が好きなわけではない。両親に負担をかけないため、手のかからない子で居ようと努力する私にとって本は、暇なフリをせずに済むちょうどいい隠れ蓑だったまでだ。そんな私が今でも読書を楽しく習慣づけられているのは、叔父と過ごすこの時間が、ピカピカに眩しい宝石だったからに他ならない。
いつだったか、まだ小学校に通っていた時期のこと。私はある悩みを叔父へと打ち明けた。
「君が、よそからの貰われっ子かもしれないって?」
今にして思えば、随分と飛躍した悲嘆だったと思う。けれど当時の私には、大地の揺らぐ不安の種だったのだ。大人からすれば、一笑のもと蹴飛ばしておしまいにできる、瑣末なこの世の終わり。叔父は、笑わずに私の言葉の続きを待ってくれた。
「どうしてまた、そんな風に思うんだい直美ちゃん」
「だってわたし、おとうさんにも、おかあさんにも似てない……えみはパパ似だって、みんな言ってるのに、わたしだけなんもないの」
「うーん、笑美ちゃんは確かにまあ、姉さん似ではないけども」
やりとりを交わして、幼い私はぺたりと、平たい己の顔に触れる。私はいわゆる純日本人風な顔立ちで、特徴もなく、縁の太い眼鏡が個性の全部と言って過言ではなかった。
片や妹は、父方の血筋に見られるはっきりとした顔立ちを受け継いでいて、あの子のぱっちり愛くるしい目元はご近所でも評判の愛嬌だった。なら私ののっぺりした平安顔は母譲りかと言われると、母も母で切れ長の眼差しの綺麗な人だったから、自意識が生まれ始める思春期において、これは子供の自尊心に瑕疵を生むには十分な出遅れだった。
「だからわたし、きっとよその子なんだ。おとうさんもおかあさんも、えみばっかり大切にしてるのは、そういうことなのよ」
「ううん、どうフォローしたもんかなぁこれは……ていうかね、僕は直美ちゃん、姉さんに似てる方だと思うけど」
「うそ! ぜんぜん似てないじゃない!」
「いやいや、大人になったら女の子はうんと見違えて美人になるんだって! 姉さんも昔は、あんまり目立つ人じゃなかったんだよ。僕は、きれいなひとだと思っていたけど……」
そう言って叔父は、屋根裏の隅に埋もれていたアルバムを引っ張り出してきた。平たい爪の先で指す古びた写真で、へたくそに笑っている女の子。色のぼけた不鮮明な画質だと、似ているかなんてよくわからない。
「ここにある図鑑のいくつかは姉さんのお下がりなんだよ。子供の頃は、僕よりかあの人の方が本の虫だった。いつの間にか真似っこしてた僕の方が本業になってしまって、あの人は小説ひとつ読まなくなっちゃったんだけどね」
それが大人になることなのだと、叔父は苦笑してアルバムの頁を捲る。
「この場所が好きって直美ちゃんが言った時、ああ姉さんの子なんだなぁって実感したよ。あの人も、隠れるみたいに隅っこで百科事典を読むのが好きだった。だからね、きみはまるで全然、よその子だなんてことはありません」
「……ほんとに? ほんとにわたし、おかあさんに似てる? おかあさんみたいな、きれいなひとになれる?」
「勿論だとも。叔父さんが嘘をついたこと、今までにあったかい」
きっと、山ほどあった。けど叔父はいつも優しくて、その優しさを形作る白い嘘はどれも華麗に私を騙してくれていた。だから幼い私は、あれほど膝を抱えて途方に暮れた不安をあっさりと放り出して、叔父の毛玉だらけのセーターに抱きつくことが出来た。というか、現金な子供は、それよりうれしい秘密を貰って、実の熟す前の鬼灯を潰さないよう掲げるので忙しかったのだ。
「ほんとう、この頃の姉さんときたらね……」
あなたがそんな目をして懐かしむ、きれいだと讃えた人に、やがて自分が近づけると知れたのが途方もない優越だった。
◆
両親の四十九日が終わり、私たちは同市内の叔父の家へと身を寄せることとなった。一人に一つ、与えられた部屋に荷物を詰め込んで、心機一転三人での新たな生活が始まった。
程なくして、叔父が妹に手を挙げるようになった。
初めて目撃した時は、我が目の方を疑った。だって康孝叔父さんだ。あんなに優しい人、地球上のどこを探したっていない。いつも余裕があって、紳士的で、善性に満ちた尊敬できる大人。その人が馬乗りになって、女子高生の顔面を殴りつけている? 何かの間違いだ。怖くて私は鞄を取り落として、玄関から逃げ出した。止めなかった薄情者だなんて言ってくれるな。信じられなくて、常識が全部足場ごと崩れていくような。
しばらく呆然と辺りをうろついて、夢だったと整理をつけた頃にはすっかり日も暮れていた。恐ろしさの余韻を頭の隅に追いやって二度目の家路につけば、大好きなカレーの匂い。叔父さんがスパイスからこだわった特製カレーは、三つ星レストランにも負けない絶品なのだ。リビング越しにキッチンを覗けば、ワイシャツの袖を捲ってエプロンを掛けた叔父が笑顔で出迎えてくれた。今はトッピングに添えるふわふわの炒り卵へと、細心の火加減で仕上げを施しているところのようだ。
「おかえり、遅かったね直美ちゃん。手を洗ったら食器を並べるのを手伝ってくれるかな」
「……うん。お安い御用だよ、叔父さん」
やっぱり悪い夢だったのだと胸を撫で下ろす。早く手を洗ってこなければと洗面所へ踵を返そうとした、私の爪先に触れる硬質の感触。蹴飛ばしたのは廊下に転がる通学鞄だった。数秒の硬直ののち、瞳孔が収縮。再度境界を無くした天地の喪失にひゅっと喉から息が漏れる。
「おねえ、ついでにさ、薬箱とってきてよ」
背中にかかる鼻声。居たのか。リビングへと振り返ると、ソファーの陰からひらひらと手首だけが覗いている。またこの子は、手伝いもせず寝転がって。
「……笑美、人に頼み事するのにその態度はないでしょ」
「いいじゃんべつに。いてーんだもん、許してよ」
異常に触れているのはわかった。けど、鼻腔を埋めるカレーの薫香が誘う食欲も、妹のだらしない覇気のなさも日常通りのそれだったから、私は真夏を寒天で固めたプールに飛び込んだみたいに判断力を無くして、茹だる息苦しさの中で一歩も動けないでいる。
「持ってきてよ、薬箱。私、この家のどこに何がしまってあるのかわかんないからさ。お願いよぉ、おねえちゃん」
緩慢に身を起こした妹の可愛らしい頬っぺたは、輪郭を歪に押し上げ青紫に腫れ上がっていた。
〈続〉
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