第36話 現在、補習中

「……う……帰りたい……」


 汗が額をつたう真夏の朝。

 七瀬奈央は、学校の昇降口でひとり、憂鬱そうに立ち尽くしていた。


 制服の襟元をちょっとだけゆるめて胸元に風を送っても、この空気の重さは晴れない。

 今日から三日間──赤点を取ってしまった数学の補習が始まる。


「ふぅ……行くしかない……」


 恋人である結斗以外には見せないように、暑さを我慢して緩めた襟元をしっかりと締め、重たい足取りで階段を上がり、指定された教室へと向かう。

 ガラリと扉を開けると、すでに数人の生徒が座っていた。


「……男ばっかり……」


 小声でつぶやき、奈央の顔が一瞬だけひきつる。


 教室内にいたのは、奈央を含めてわずか六人。

 その中で、奈央以外の全員が男子だった。


(最悪……)


 そうは思っても、いつものように無表情を装いながら、教室の一番後ろの空席に腰を下ろす。

 男子たちがちらちらと奈央を見ているのが、痛いほど伝わってくる。


「静かにー。今日から三日、補習がんばってもらうぞー」


 教室に入ってきた数学担当の先生が、片手を挙げて声をかける。


「まずは腕試し。小テストやるからな」


「「「えぇぇ……」」」


 一斉に漏れる男子たちの声。奈央は無言でシャーペンを取り出す。


 ◇◇◇


 10分後。


「んじゃ、ペア作って答案交換して丸つけてくれー」


「「え?」」


 男子たちがざわつく。奈央もまた、眉をピクリと動かした。


(ペアって……)


 自分の両隣は空席。そして、いるのは男子のみ。

 どうしようかと迷っていると──


「えっと……七瀬さん?」


 低めで、でもどこか軽さを感じる声がした。

 奈央が顔を上げると、近くの席の男子が少し照れくさそうに笑っていた。


「交換、する?」


 見覚えのない顔だった。恐らく、他クラスの生徒。

 黒髪をやや無造作に伸ばした、爽やかな雰囲気──だけど、少しチャラい印象もある。


「……うん」


 他に相手を見つけるのも面倒なのて、奈央は小さく頷き、答案を差し出す。

 目を合わせず、淡々と丸つけを始めた。


 ◇◇◇


 補習終了後。


 ようやく開放された奈央が教室を出ようとしたそのとき──


「ねえ、七瀬さん!」


 廊下に出た瞬間、後ろから駆け寄ってくる足音とともに、さっきの男子の声がした。


「……なに」


 奈央は無表情のまま振り返る。


 男子はにっこりと笑い、胸元の学生証を示す。


「オレ、渡瀬康太わたせこうた。クラス違うし、たぶん初めましてだよね?」


「……うん」


「なんかさ、今日の補習で思ったんだけど──」


 康太は軽く手をポケットに突っ込みながら、にこにことした笑顔を崩さない。


「七瀬さんって、実は……めっちゃ可愛いっしょ? オレ、そーゆーの、わかるんだよね〜」


 奈央はその言葉に、明らかに表情を変えた──けれど、それは“引き気味”という方向で。


「……そ」


「そ、って!」


「じゃあ、帰るから」


 ぴしゃりと塩対応。


 康太はショックを受けたように胸を押さえるジェスチャーをしながら、


「えぇー!? ひどくなーい!? でも、そーゆーのも可愛いって思っちゃうな〜」


 そう言って奈央の隣を歩き始めた。


「……めんどくさい」


 奈央はため息をひとつ落としながら、歩みを早める。

 すると康太はピタと足を止め、「また明日な〜!」と、声をかけるとどこかに行ってしまった。


「……変な奴……」


 奈央はそう呟くと、バッグを肩にかけて校門を出た。


「早く……結斗に会いたい……」


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