夜明け前のソナタ
ファントム
「おしまい」のあとで
第一章:灰色の天井
最初に意識の淵から引き上げられた時、佐藤健一の世界は、光と音と、そして混乱の渦だった。
けたたましく鳴り響く電子音、誰かの緊迫した声、自分の名前を呼ぶ声、そして視界を激しく明滅する、手術室の無影灯とおぼしき強烈な光。
朦朧とした意識の中で、彼は自分が巨大な機械の部品にでもなったかのような感覚に襲われていた。
身体は自分の意志とは無関係に動かされ、管が喉や腕に差し込まれる感触だけが生々しい。
抵抗しようにも、身体の左半分がまるで存在しないかのように、何の反応も示さなかった。
(何が……起きているんだ……?)
思考は霧の中を彷徨い、言葉にならない疑問だけが頭の中をぐるぐると回る。
会議室の光景が、まるで遠い昔の映画のワンシーンのように断片的に蘇っては消えた。
床に落ちたペンの乾いた音、若手社員の驚愕の顔、そして、自分の身体から何かが決定的に失われていく、あの空恐ろしい感覚。
懸命の治療と手術が行われている間、彼は生と死の狭間を漂い続けた。
時折、暗闇の向こうから、離婚した妻や、疎遠になった息子・一雄の顔が幻のように浮かび、彼に何かを問いかけているようだったが、その声は健一の耳には届かなかった。
数日後、彼が再びはっきりと意識を取り戻した場所は、急性期病棟の個室だった。
最初に目に飛び込んできたのは、無数の管に繋がれた自分の腕と、点滴スタンド、そして心電図モニターの規則正しい電子音。
身体を起こそうとしたが、見えない力でベッドに縫い付けられているかのように動けない。
特に、左半身は依然として感覚がなく、まるで他人の肉塊が自分の身体にくっついているような、薄気味悪い違和感だけがあった。
「佐藤さん、分かりますか? 私の声が聞こえますか?」
医師の問いかけに、健一は頷くことしかできなかった。
脳卒中、という診断。そして、左半身に残った重度の麻痺。
その事実が、冷たく、事務的な言葉で宣告された時、健一はそれを現実として受け止めることができなかった。
まるで他人事のように、ぼんやりと医師の説明を聞いていた。
まだ、彼のプライドは、この絶望的な現実を認識することを拒絶していたのだ。
急性期病棟での日々は、ただ時間が過ぎるのを待つだけの、生ける屍のような時間だった。
治療は終わった。命は取り留めた。しかし、そこから先には何もなかった。
そして、容態が安定すると、彼はほとんど荷物のように、回復期リハビリテーション病棟へと移送された。
その時になって初めて、健一は自分が「終わりの始まり」に立たされているのだということを、漠然と理解し始めた。
そして、回復期リハビリテーション病棟の個室で、彼の世界はついに、あの灰色の天井だけに集約された。
染みひとつない、無機質で、感情というものをすべて吸い尽くしてしまったかのような、のっぺりとした灰色。
それは単なる天井ではなかった。
彼自身の心の風景であり、光を失った未来の墓標であり、彼がこれから永遠に眺め続けることになるであろう、虚無そのものだった。
かつて、彼の世界は無限に広がっていた。
日本でも有数の大商社で、彼は「伝説の交渉人」と呼ばれていた。
誰もが匙を投げた中東の王族との資源開発契約。
相手は、日本の商社マンなど歯牙にもかけない頑固な長老だった。
健一は何日も粘り、相手の趣味である鷹狩りにまで同行し、砂漠の灼熱の中で相手の国の歴史と文化を語り、最後には「利益の話をしに来たのではない。あなたの国の未来を、共に作りたいのだ」という一言で、相手の心を動かした。
その契約が、会社のその後の十年を支えた。
彼は、世界を相手に戦う戦士だった。
家庭を顧みる暇などなかったが、その代わり、一人息子の一雄には最高の教育環境を与え、何不自由ない暮らしをさせてきたという自負があった。
それが、父親としての自分の唯一の、そして最大の責任の果たし方だと信じていた。
その城が、脳の血管が一本詰まっただけで、音もなく崩れ去った。
継続雇用制度という名の、屈辱的な余生。
かつての部下たちに「相談役」という名の丁重な厄介者扱いをされ、会議室の隅で若手の稚拙なプレゼンを聞かされる日々。
その屈辱が、彼のプライドを日々蝕んでいた。
そして、倒れた。
回復期病棟での生活は、彼のプライドを根底から破壊する作業だった。
食事の時間が、何よりの苦痛だった。
動く右手でスプーンを握るが、麻痺した左手が食器を支えられないため、トレーの上の小鉢は不安定に揺れる。
ようやく掬った粥は、口に運ぶまでに半分ほどがこぼれ落ち、看護師がかけてくれたエプロンを汚した。
かつてニューヨークの最高級ステーキハウスで、分厚いポーターハウスを切り分け、ボルドーの古酒を嗜んでいた男が、今はよだれかけをされ、口元を拭かれている。
排泄は管に繋がれ、その交換の際には、若い女性看護師にまで下半身を晒さなければならない。
すべてを自分でコントロールしてきた人生が、今は何一つ自分の思い通りにならない。
その屈辱に、彼は食事のたびに奥歯を噛みしめ、味など分かりはしなかった。
「もう、おしまいだ」
その言葉は、もはや単なる口癖ではなかった。
彼が、かつての佐藤健一という人間に下した、正式な死亡宣告だった。
朝、看護師に身体を拭かれながら。昼、味気ない病院食を前にして。夜、眠れぬまま天井の虚無を見つめて。
言葉は呪いのように健一自身を縛りつけ、灰色の世界を、より一層色のない、絶望的なモノクロームへと変えていった。
「佐藤さん、諦めたらそこで終わりですよ」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる二十代そこそこの若い看護師は、何度もそう励ましの言葉をかけた。
その度に健一は心の中で毒づいた。
(諦める?何をだ。もう終わっているんだ。お前のような、健康な身体で毎日家に帰り、恋人と笑い合い、温かい夕食を囲むような人間に、俺の『終わり』の何がわかるというのだ。同情は、強者が弱者に向ける、最も残酷な侮辱だぞ)
彼は、その侮辱から自分を守るために、心を固く閉ざした。
談話室からは、いつも他の患者たちの、健一には耳障りでしかない声が聞こえてくる。
同じように脳卒中で倒れたという老人が、片麻痺の身体で将棋を指し、大声で笑っている。
家族との面会を終えた女性が、孫からもらったという拙い絵を、他の患者に嬉しそうに見せびらかしている。
健一は、彼らの姿を病室のドアの隙間から冷ややかに眺め、軽蔑した。
(惨めさを忘れるための、安っぽい麻薬に酔いしれているだけだ。現実から目を背け、傷を舐め合っているに過ぎん)
彼らとの交流は、自分の敗北を認めることのように思えた。
だから、健一は病室のカーテンを固く閉ざし、自ら選んだ孤独という名の最後の砦に、頑なに立てこもり続けた。
その日も、健一は昼食後の気だるい時間を、ベッドの上で死んだように過ごしていた。
その時、控えめだが、有無を言わさぬ響きを持ったノックの音がした。
返事をする前に、無遠慮にドアが開けられる。
「佐藤さん、リハビリの時間です。理学療法士の田中と申します」
そこに立っていたのは、清潔な白いポロシャツに身を包んだ、三十代半ばほどの男だった。
労災認定を受けた健一のために、わざわざ派遣されてきた脳卒中専門の一流理学療法士だという触れ込みだった。
しかし、その目に宿る光は、同情や共感といった生温かいものではなかった。
それは、まるで精巧な機械の内部を透かし見るような、冷静で、分析的で、人間的な感情を一切排した職人の目だった。
その視線に、健一は自分の内面の弱さまでも見透かされているような居心地の悪さを感じた。
「……やらん」
健一は、壁に向かって寝返りを打ちながら、吐き捨てるように言った。
この男の前で、これ以上自分の惨めさを晒したくなかった。
「やっても、無駄だ。時間の無駄だ」
「無駄かどうかは、やってみなければ分かりません」
田中の声は、コンピューターが合成したかのように、抑揚がなく、平坦だった。
「分かっているさ。俺の身体だ。この左半身は、もうただの肉の塊だ。動かん。このまま静かに朽ち果てるのを待つだけだ」
「そうですか」
田中は、それ以上何も言わなかった。
食い下がることも、説得することもなく、ただ静かに一礼すると、音もなく病室を出て行った。
健一は、あっさりと引き下がったことに拍子抜けしながらも、追い払ってやった、と心の中で小さく、空虚な勝利を宣言した。
だが、その勝利の後に残ったのは、耳が痛くなるほどの深い静寂と、より一層濃くなった虚無感だけだった。
田中が残していった不在感が、かえって彼の存在を病室に色濃く刻みつけているようだった。
灰色の天井が、じっと健一を見下ろしている。
まるで、お前はもうそこから一歩も動けないのだと、最終宣告を下すように。
健一は、重い瞼をゆっくりと閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、中東の王族を唸らせた交渉の記憶。部下たちからの羨望の眼差し。
そして、背を向けて家を出て行った妻の、冷たく、諦めに満ちた横顔だった。
ああ、やはり、もうおしまいなのだ。
すべては、終わってしまったのだ。
健一は、その冷たくて心地よい絶望に、ゆっくりと、ゆっくりと身を沈めていった。
第二章:見えない孫
健一が自ら築いた孤独という名の分厚い壁の中で、時間だけが意味もなく過ぎていく。
朝、昼、夜。
その区別さえも、配膳される味気ない食事と、看護師の足音によって、かろうじて認識できるに過ぎなかった。
彼の内なる時計は、会議室で倒れたあの日、あの瞬間から、ぴたりと針を止めてしまっていた。
その静寂を破るように、ベッドサイドに置かれた電話が、けたたましく鳴り響いたのは、田中が訪れた数日後の、気だるい午後のことだった。
その無遠慮な音は、健一が立てこもる砦の壁を、外側から乱暴に叩くようだった。
彼はしばらく無視を決め込んだ。誰からの電話であろうと、今の自分には関係のないことだ。
しかし、呼び出し音は執拗に鳴り続ける。まるで、健一が受話器を取るまで、絶対に鳴り止まないという強い意志を持っているかのようだった。
舌打ちを一つすると、彼は億劫そうに、しかしどこか追い詰められたように、動く右手を受話器へと伸ばした。
鉛のように重い腕を持ち上げ、冷たいプラスチックの感触を掌に感じる。
「……もしもし」
絞り出した声は、長く使っていなかったせいか、自分のものではないように掠れていた。
『……親父か? 俺だ、一雄だ』
その声を聞いた瞬間、健一の心臓が、錆びついた巨大な歯車のように、ぎしりと音を立てて軋んだ。
一雄。息子の声だ。
記憶の中にある、反抗期の少年時代の甲高い声でもなければ、成人した頃のぶっきらぼうな声でもない。
それは、知らない男の、落ち着いた、そしてどこか疲労を滲ませた低い声になっていた。
その声の響きに含まれる、二人の間に横たわる途方もない時間の溝が、健一の胸を冷たく締め付けた。
(今更、何の用だ……)
健一は、喉まで出かかったその言葉を、ぐっと飲み込んだ。
金の無心か。それとも、施設に入れるための事務的な相談か。あるいは、いよいよ縁を切るという最後通告か。
考えられる可能性は、どれもこれも、今の健一の心をさらに抉るものばかりだった。
彼は、来るべき痛みに備えるように、無意識に身体をこわばらせた。
「……何の用だ」
精一杯の虚勢を張って、ぶっきらぼうに答えるのが、彼に残された唯一の鎧だった。
弱みを見せたくない、同情されたくない。その一心だった。
『いや、その……』
電話の向こうで、一雄はひどく言い淀んでいるようだった。
言葉を探している沈黙の合間に、微かに子供の甲高い声と、何かおもちゃが床に落ちるような小さな物音が聞こえた。
生活の音だ。健一がとうの昔に捨て去った、家族の温かい日常の音。
その音が、彼の孤独をさらに際立たせた。
『大したことじゃないんだが……身体のほうは、どうなんだ』
「見ての通りだ」
健一は、吐き捨てるように言った。
「もう、おしまいだよ。お前も、分かっているだろう」
『……そうか』
一雄の声は、沈んだ。
その声色に含まれる、憐れみのような響きに、健一は耐えられなかった。
早く電話を切りたい。この不快な会話を終わらせたい。
そう思った矢先、一雄が意を決したように、本題を切り出した。
『親父。拓也が……』
一雄は一度、深く息を吸った。その息遣いに、彼の緊張が伝わってくる。
『じいちゃんに、会いたいって言ってるんだ』
拓也。その名前に、健一の思考は一瞬、完全に停止した。
拓也。一雄の息子。自分の、孫。
会ったことはおろか、写真で顔を見たことすらなかった。
存在は知っていた。息子夫婦から送られてきた出産報告の葉書を、一瞥してデスクの引き出しの奥にしまい込んだ、遠い記憶。
それは、自分とは何の交点も持たない、遠い世界の出来事のはずだった。
その存在が、今、自分に「会いたい」と?
「……なぜだ」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく震えていた。
「俺に会う理由など、ないだろう。会ったこともないのに」
『古いアルバムを、あいつが見つけてさ。押入れの奥にしまってたやつ』
一雄の声が、少しだけ和らいだ。
『親父が、まだ元気だった頃のやつ。海外出張先で撮った写真とか見て、「じいちゃん、かっこいいね!」って。サファリでジープに乗ってる写真とか、エジプトのピラミッドの前の写真とか。それから、じいちゃんの絵ばっかり描いてるんだよ。だから、一度……会わせてやりたいと思って』
アルバム。健一の脳裏に、忘れかけていた光景が鮮やかに蘇った。
世界中を飛び回っていた頃の、自信に満ち溢れた、日焼けした自分の顔。部下たちに囲まれ、中心で笑っている自分。
若く、美しい妻と、まだ腕の中に抱けるほど小さかった一雄が、はにかみながら隣に写っている写真もあったはずだ。
孫は、その、虚像を見て、会いたいと言っているのだ。
過去の栄光という名の、メッキで塗り固められた「偽りの姿」に。
今の、このベッドの上で朽ち果てていく、醜態を晒している自分ではなく。
(ふざけるな……)
健一の心の中に、マグマのような激しい感情が沸き上がった。
それは、怒りであり、羞恥であり、そして何よりも、深い悲しみだった。
「ふざけるな!」
健一は、自分でも驚くほど大きな声で怒鳴っていた。
受話器を握る手に、ありったけの力がこもる。
「そんなものを見せるな! あんなものは、もう俺じゃない! こんな姿で、会えるわけがないだろう! 子供の夢を壊すだけだ! もう俺に構うな! 頼むから、放っておいてくれ!」
一方的に電話を叩き切る。
ガチャン、という乱暴な音だけが、静まり返った病室に空しく響き渡った。
健一は、ぜえぜえと肩で息をしていた。
ざまあみろ、と心の中で呟く。これで、もう二度と連絡はしてこないだろう。
これでいい。これが、正しい選択なのだ。
電話の向こうで、一雄はしばらくの間、ツーツーという無機質な音を耳にあてたまま動けなかった。
父の声に残っていた、子供のような拒絶と、その奥に隠された、かすかな怯え。
昔はただ反発しか感じなかったその声に、今は違う感情が湧き上がってくるのを、一雄は戸惑いながら感じていた。
「親父…」
呟いた言葉は、誰にも届かずにリビングの空気に溶ける。
傍らでは、息子の拓也が「じいちゃん、電話おわった?」と無邪気に尋ねてきた。
この純粋な期待に応えられない父と、その父を突き放すことのできない自分。
一雄は、二つの世代の間に挟まれ、答えのない問いに深く溜息をつくしかなかった。
健一の病室では、彼の身体と心が、正直に悲鳴を上げていた。
心臓が、先ほどとは比べ物にならないほど激しく鼓動し、耳の奥でガンガンと鳴り響いている。
額には脂汗が滲み、呼吸が浅くなる。
「会いたい」
その言葉が、心の奥底の、固く閉ざしていた分厚い扉を、内側から激しく、何度も何度も叩いていた。
会いたい。孫に。自分の血を分けた、新しい命に。この手で、抱きしめてみたい。
しかし、同時に、プライドという名の、もう一人の自分が、冷酷な声で叫び返す。
「会う資格など、お前にはない」
こんな惨めな姿で、あの栄光に満ちた写真の男の幻想を、無残に打ち砕くことなどできない。
がっかりされるのが怖い。軽蔑されるのが怖い。そして何よりも、憐れみの目で見られることが、耐えられない。
健一は、麻痺した左手を、動く右手で掴んだ。
まるで自分の身体ではないかのような、冷たくて重い肉の塊。
これを、孫の前に晒すというのか。
杖がなければ一歩も歩けず、誰かの助けがなければ食事もままならないこの身体を。
あのアルバムの中の、自信に満ちた男とは似ても似つかぬ、この老いさらばえた抜け殻を。
無理だ。絶対に、無理だ。
彼は布団を頭まで深くかぶり、外界からの光を完全に遮断した。
暗闇の中で、見えない孫の顔を必死に想像しようとした。
どんな顔をしているのだろう。一雄に似ているのか、それとも、その妻に似ているのか。
どんな声で笑うのだろう。「じいちゃん」と、どんな響きで自分を呼ぶのだろうか。
想像すればするほど、「会いたい」という、抗いがたい渇望と、「会えるはずがない」という、絶対的な絶望が、彼の心の中で激しく衝突し、彼の魂を二つに引き裂こうとするかのようだった。
その夜、健一は一睡もできなかった。
灰色の天井は、いつしか深い闇に変わっていたが、彼の心の中の嵐は、一向に収まる気配を見せなかった。
彼は、生まれて初めて、どうすることもできない葛藤の荒波の中で、ただひたすらにもがき続けていた。
第三章:再生の契約
嵐のような一夜が明けた。
眠れぬまま朝を迎えた健一の目は、血管が浮き出て赤く充血し、ずきずきと脈打つように痛んだ。
しかし、その肉体的な痛みとは裏腹に、彼の頭の中は、まるで台風一過の空のように、奇妙なほど静かで、冴えわたっていた。
一晩中、彼の心の中で荒れ狂っていた「会いたい」という渇望と、「会う資格がない」という絶望の激しいせめぎ合いは、夜明けと共に、ひとつの決意へと収斂されていた。
それは、諦念でも、開き直りでもなかった。
もっと深く、根源的な場所から湧き上がってくる、静かな覚悟だった。
息子との電話、そして見えない孫の存在が、彼の凍てついた心の湖に投じられた一つの石となり、その波紋は、彼自身が気づかぬうちに、心の岸辺にまで達していたのだ。
もう、このままベッドの上で朽ち果てていくことだけは、耐えられない。
たとえ無様でも、みっともなくても、何かに抗い、もがくことなしに「おしまい」を受け入れることは、できない。
その決意が固まった時、タイミングを見計らったかのように、病室のドアが控えめにノックされた。
「佐藤さん、失礼します」
入ってきたのは、理学療法士の田中だった。
いつものように、感情の読めない無機質な表情で、日課の挨拶をしようとする。
以前の健一なら、この男の顔を見るのも嫌で、すぐに背を向けていただろう。
しかし、今は違った。
この男こそが、今の自分にとって唯一の、そして最後の希望の糸かもしれない、と直感的に感じていた。
健一は、腹に力を込め、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、ベッドの上で身体を起こした。
シーツに皺が寄り、ギシリ、とベッドが軋む。
その一つ一つの音と感覚が、これからの戦いの始まりを告げるゴングのように聞こえた。
彼は、何日かぶりに、まともに田中の顔を正面から見据えた。
「……田中さん」
健一の声は、自分でも驚くほどか細く、ひどく掠れていた。
しかし、その声には、紛れもない芯が通っていた。
「はい。何でしょう」
田中は、健一の変化に気づいたのか、わずかに眉を動かしたが、声のトーンは変わらなかった。
「……頼む」
健一は、シーツを固く、爪が食い込むほどに握りしめた。
これから口にする言葉は、これまでの自分のプライドをすべて捨て去ることを意味する。
それは、敗北宣言であると同時に、新たな戦いの宣誓でもあった。
「俺を……歩けるように、してくれ」
その言葉は、健一が自分の意思で、未来に向かって発した最初の、そして最も重い一言だった。
それは、暗く深い絶望の淵から、震える手で差し伸べた、一本の蜘蛛の糸だった。
田中は、一瞬、その整った顔に驚きの色を浮かべたように見えた。
しかし、それはすぐにいつものプロフェッショナルな無表情に覆い隠された。
彼は、感情を挟むことなく、ただ事実を確認するように、静かに問い返した。
「目的は?」
その短い質問は、健一の覚悟の純度を試しているようだった。
健一の脳裏に、真っ先に浮かんだのは、会ったことのない孫の顔だった。
「孫に会うためだ」と、素直に口にすれば、どれだけ楽だろう。
しかし、それをこの男に告げるのは、まだ彼の高すぎるプライドが邪魔をした。
自分の最も柔らかな部分を、この感情のない男に晒すことへの抵抗感があった。
だが、ここで嘘をついたり、誤魔化したりしてはいけない、という強い衝動もあった。
彼は、自分自身に、そして目の前の、これから自分の運命を預けることになるかもしれない男に、誠実でなければならないと思った。
「……人間として、もう一度、自分の足で立ちたい」
健一は、絞り出すように言った。
その言葉は、彼の本心を隠すための、最後の見栄だったのかもしれない。
「失ったものを、取り戻したいんだ。尊厳を。このままでは、犬死にも同然だ」
それは、半分本当で、半分は虚勢だった。
だが、田中は、その言葉の裏にある、もっと切実で、個人的な動機を見透かしているようだった。
彼は小さく、しかしはっきりと頷くと、きっぱりと言った。
「結構です。目的が何であれ、ご自身の強い意志があるなら、それでいい。ただし」
田中は一歩、ベッドに近づいた。
その目に、初めて氷のように冷たく、鋭い光が宿った。
それは、手術前の執刀医がメスを握る時のような、一切の妥協を許さない光だった。
「私のリハビリは、生易しいものではありません。泣き言も、言い訳も、過去の栄光も、一切通用しない。医学的根拠に基づいた、最も効率的で、最も過酷なプログラムです。途中で投げ出すくらいなら、今すぐやめた方が、お互いのためだ。どうしますか?」
それは、契約の最終確認だった。
甘えは許さない。逃げ道はない。それでもやるのか、と。
健一は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
そして、田中の目をまっすぐに見つめ返した。
その目の奥に、自分と同じ、あるいはそれ以上の厳しさで仕事という戦場に向き合う男の、孤高の魂を見た気がした。
この男なら、あるいは本当に…。
「……やる」
健一は、心を決めた。
「どんなことでも、やってやる。あんたの言う通りにする」
「分かりました。契約成立です」
その日を境に、健一の地獄、そして再生への道が始まった。
それは、比喩ではない、文字通りの地獄だった。
最初の訓練は、ベッドから起き上がって端に座る、という単純な動作だった。
しかし、健一の左半身は、彼の脳からの指令を完全に無視し、ただの重い肉塊としてぶら下がっているだけだった。
身体を起こそうとすると、左側にぐらりと大きく傾き、そのたびにベッドに逆戻りした。
汗が滝のように流れ、シャツが肌に張り付く。
呼吸はすぐに荒くなり、心臓が破れんばかりに鼓動した。
たったそれだけの動作に、一時間以上もかかった。
ようやく端座位を保てた時には、全身の筋肉が痙攣し、目の前が真っ白になった。
次は、平行棒を使った起立訓練。
田中は、健一の身体を物理的に支えながらも、精神的には一切の甘やかしを許さず、容赦のない指示を飛ばす。
「右足に体重を乗せて。そうです。もっと腰を前に。左肩が落ちています。意識して水平に保ってください」
健一は、震える右足に全体重をかけた。
ふくらはぎの筋肉が、ちぎれんばかりに悲鳴を上げる。
膝が意思とは無関係に笑い、ガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだった。
「だめだ……もう、立てん……一ミリも上がらん……」
「立てます」
田中の声は、氷のように冷たかった。
「あんたの筋肉は、まだ死んでいない。ただ、脳からの指令の出し方と、筋肉の受け取り方を忘れているだけだ。その回路を、もう一度繋ぎ直すんです。思い出させてやればいい」
健一は歯を食いしばった。
脳裏に、会ったことのない孫の顔がちらつく。
「じいちゃん」。その声が、幻聴のように聞こえる。
その声に突き動かされるように、彼は「うおおおっ」と獣のような雄叫びを上げ、渾身の力で立ち上がろうとした。
しかし、その瞬間、限界を超えた右膝から力が抜け、身体が前のめりに崩れ落ちる。
田中が瞬時に、しかし機械的な正確さで支えなければ、顔から床に叩きつけられていただろう。
「……もう、おしまいだ」
弱音が、こらえきれずに口からこぼれた。
「まだ始まってもいませんよ」
田中は、健一を元の車椅子に座らせながら、淡々と、事実だけを告げた。
「今日はここまでです。明日も、同じ時間に、ここから始めます」
毎日が、その繰り返しだった。
激しい痛みと、どうしようもない無力感、そしてそれを上回る屈辱。
そして、ほんのわずかな進歩。
しかし、その小さな進歩は、翌日にはまた振り出しに戻っているかのような、圧倒的な挫折感によって、いとも簡単に打ち砕かれた。
麻痺した左腕を動かす訓練では、まるで錆びついた関節を無理やりこじ開けられるような激痛が走り、健一は何度も声を上げ、生理的な涙を流した。
しかし、田中は決して手を緩めなかった。
「痛いのは、神経が繋がろうとしている証拠です。良い兆候ですよ」
「あんたは鬼か!悪魔か!」
「プロです」
健一は、この無感動で、ロボットのような男を、心の底から憎んだ。
しかし同時に、彼にすがるしかなかった。
田中だけが、自分を「かわいそうな病人」としてではなく、「機能回復という目標に向かう一人のクライアント」として、対等に扱ってくれる唯一の存在だったからだ。
リハビリ室からの帰り道、車椅子を押す田中の広い背中に、健一は疲れ果てた声で問いかけた。
「なぜ……なぜ、あんたはそんなに厳しいんだ。少しぐらい、優しくしたってバチは当たらんだろう」
田中は、足を止め、振り返らずに答えた。
その声は、相変わらず平坦だった。
「感傷は、機能回復の邪魔になるだけですから。私が提供できるのは、医学的根拠に基づいた、最も効率的な回復プログラムだけです。あなたの過去の栄光にも、今の感情にも興味はない。興味があるのは、あなたの今の身体がどういう状態で、これからどうなりたいか。その一点だけです」
その言葉は、氷のように冷たい刃だった。
しかし、その刃は、健一の心にまとわりついていた甘えや言い訳、過去への執着といった余分な贅肉を、容赦なく、しかし的確に切り裂いていく。
もう、後戻りはできない。
健一は、自分の足で立つために、人間としての尊厳を取り戻すために、そして何よりも、まだ見ぬ孫に会うという、誰にも明かしていない心の奥の目標のために、この地獄を耐え抜くしかないのだと、改めて心に誓った。
それは、彼が人生で結んだ、最も過酷で、最も価値のある契約だった。
第四章:偽りの勝利
季節は、梅雨の湿気を帯びた初夏から、アスファルトを揺らすほどの陽光が照りつける盛夏へと移り変わっていた。
病院の中庭からは、まるで命を燃やし尽くすかのように、蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、病室の窓ガラスを微かに震わせた。
健一にとってのリハビリという名の地獄は、相変わらずの日課として続いていたが、その灼熱の地獄にも、いつしか微かな、しかし確かな光が差し込むようになっていた。
それは、ほんの些細な変化の積み重ねだった。
最初は、平行棒に全体重を預けなければ、立つことさえままならなかった身体。
それが、理学療法士の田中の、機械のように正確で、一切の妥協を許さない指導のもと、少しずつ、しかし確実に変わっていった。
左足に、ごく僅かだが体重を乗せることができるようになった日。
麻痺していた左手の指先が、ぴくりと自分の意志で動いた日。
その一つ一つが、健一にとっては、かつて数億ドルの契約をまとめた時以上の、歓喜と達成感をもたらした。
そして、ある日の午後。
健一は、四点杖を右手に握りしめ、リハビリ室の床に立っていた。
「佐藤さん、準備はいいですか」
田中の声が、静かな室内に響く。
健一は、深呼吸を一つして、こくりと頷いた。
彼の視線は、十数メートル先にある、リハビリ室の反対側の壁に、まっすぐに注がれている。
最初の一歩を踏み出した時、健一は、自分が地球に生まれて初めて二本の足で立った、原始の赤ん坊になったような、不思議な感動に包まれた。
床を踏みしめる右足の裏に伝わる、リノリウムの硬い感触。
四つの点で床を捉える杖を通して、じかに伝わってくる振動。
そのすべてが、新鮮で、奇跡のように感じられた。
左足は、まだ彼の意志に完全には従わず、まるで重い鎖を引きずるように、半ば無抵抗についてくるだけだ。
しかし、それは紛れもなく、彼自身の意志による、彼自身の力による「歩行」だった。
一歩、また一歩。
その歩みは、ひどくぎこちなく、不安定だった。
背中にはすぐに汗がびっしょりと滲み、肩で激しく息をする。
身体は常に麻痺している左側へと傾こうとし、そのたびに、彼は全身の筋肉を総動員してバランスを取り戻さなければならなかった。
まるで、嵐の海を航行する小舟の船長のように。
何度もよろめき、そのたびに、影のように寄り添う田中が、倒れる寸前で彼の腕をすっと支えた。
「慌てずに。一歩ずつ、確実に」
田中の声は、相変わらず冷静だったが、その声が、健一にとっては荒海の中の灯台の光のように、頼もしく感じられた。
十数メートルの距離が、果てしなく遠く感じられた。
永遠にたどり着けないのではないか、という絶望が何度も頭をよぎる。
しかし、そのたびに健一は、歯を食いしばり、脳裏にまだ見ぬ孫の顔を思い浮かべた。
(もう少しだ。もう少しで、俺は立てる。歩けるんだ)
その一心だった。
そして、ついに。
彼の右手が、目標としていた反対側の壁に触れた時、健一の膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
「……はぁ……はぁ……やった……ぞ」
彼は、壁に額を押し付け、喘ぎながら言った。
周りを見ると、彼の挑戦を固唾をのんで見守っていた他の患者や、セラピストたちが、一斉に、温かい拍手を送ってくれていた。
その音は、健一の疲労困憊した身体に、じんわりと染み渡った。
彼は、何年かぶりに、人前で、子供のように照れくさそうに、そして誇らしげに笑った。
それは、小さな、しかし彼にとっては途方もなく大きな成功体験だった。
健一の中に、長い間彼を縛りつけてきた、脆くて攻撃的なプライドとは質の違う、「自信」という名の、温かくしなやかな感情が、確かに芽生え始めていた。
その日を境に、健一の灰色の世界は、少しずつ、しかし確実に色を取り戻していった。
あれほど嫌悪し、近づくことさえ拒んでいた談話室にも、自分から杖をついて足を運ぶようになった。
最初は遠巻きに見ていた他の患者たちも、彼の変化に気づき、自然と輪の中に受け入れた。
「佐藤さん、すごいじゃないか。俺なんか、まだ立てるようになるまで半年かかったぜ」
同じように脳卒中で倒れたという初老の男性が、親しげに声をかけてくる。
「いや……まだまだ、赤ん坊のハイハイみたいなもんだ」
健一は、そう言って笑った。
かつての彼なら、他人と自分を比較されること自体を侮辱と感じただろう。
しかし今は、その言葉を素直に受け入れることができた。
彼らもまた、自分と同じように、あるいはそれ以上に過酷な現実と闘いながら、それでもささやかな喜びを見つけ、笑おうとしているのだと、健一は初めて心から理解した。
閉ざされていた病室のカーテンは、もう開け放たれたままになっていた。
窓から差し込む陽光が、部屋の隅々までを明るく照らす。
もう、灰色の天井を見つめて「おしまいだ」と呪いの言葉を呟くことはなかった。
自信をつけた健一は、ある日、息子の一雄に、震える指で電話をかけた。
自分の声に、自分でも分かるほどの張りと力があるのを感じた。
「俺だ。……歩けるようになったぞ。杖はいるがな」
電話の向こうで、一雄が息を呑むのが分かった。
その沈黙に、彼の驚きと戸惑いが滲んでいる。
『……本当か、親父。本当に、歩けるようになったのか』
「ああ。だから、今度の週末にでも、拓也を連れてこい。約束だからな」
健一の心は、高揚していた。
孫に、この復活した自分の姿を見せてやりたい。
颯爽と歩く姿を見せて、驚かせてやりたい。
「じいちゃん、すごい!かっこいい!」と言わせてやりたい。
彼の目標は、いつしか「ただ会う」ことから、「立派な祖父として、完璧な姿で会う」ことへと、彼のプライドによって歪められていた。
それは、あまりにも脆く、危険な「偽りの勝利」の上に築かれた目標設定だった。
面会の日まで、あと三日。健一は、いてもたってもいられなかった。
田中からは「オーバーワークは禁物です。筋肉の回復にも時間が必要ですから」と、きつく止められていたにもかかわらず、彼は夜中、他の患者たちが寝静まった頃を見計らって、こっそりと病室を抜け出した。
そして、月の光だけが差し込む薄暗い廊下で、一人、歩行訓練を繰り返した。
もっとスムーズに、もっと格好良く、杖に頼っているように見えない自然な歩き方をしたい。
その一心だった。
そして、面会前日の夜。
健一は、いつものように廊下で練習をしていた。
焦りと、高揚感が、彼の冷静な判断力を鈍らせていた。
いつもより少しだけ、歩くペースを上げてみよう。
孫の前で、これくらいのスピードで歩けたら、きっと驚くに違いない。
そう思った、その時だった。
まだ完全には言うことを聞かない左足のつま先が、床のわずかな継ぎ目に、ほんの少しだけ引っかかった。
「あっ」
身体が、大きく前のめりに傾く。
咄嗟に杖を突こうとしたが、焦りでタイミングがずれた。
スローモーションのように、冷たくて硬いリノリウムの床が、目の前に迫ってくる。
健一は、なすすべもなく、全身を強かに床に叩きつけられた。
ドン、という鈍い、肉が潰れるような音が廊下に響く。
一瞬、息が止まり、全身を、まるで骨が砕けたかのような強烈な衝撃と痛みが襲った。
「……う……ぁ……」
声にならない呻きが漏れる。
遠くで、物音に気づいた夜勤の看護師の、悲鳴のような声が聞こえた。
意識が、急速に薄れていく。
健一の脳裏に浮かんだのは、会えるはずだった孫の笑顔ではなく、ただ、絶望的な、そしてどこか予期していたかのような、冷たい一言だけだった。
「ほら見ろ。やっぱり、俺は……おしまいなんだ」
ようやく手にしたはずの、脆く輝いていた希望の光が、ガラス細工のように、音を立てて粉々に砕け散った。
彼の世界は、再び、以前よりももっと深く、救いのない完全な闇に閉ざされた。
第五章:少年の絵
健一は、再びベッドの上にいた。
あの忌まわしい、灰色の天井が、またしても彼の世界のすべてになった。
幸い、転倒による骨折はなかった。
それは、不幸中の幸いと呼ぶには、あまりにも皮肉な結果だった。
骨は無事でも、彼の心は、希望という名の背骨を完全に折られてしまっていたからだ。
全身を強打したことによる打撲の痛みは、鈍く、身体の芯にまで響いた。
だが、それ以上に彼を苛んだのは、精神的なショックからくる高熱だった。
身体の内側から燃え上がるような熱っぽさと、悪寒が交互に彼を襲い、意識は常に朦朧としていた。
医師からは「絶対安静」という、彼にとっては死刑宣告にも等しい言葉が言い渡された。
楽しみにしていた、心待ちにしていた孫との面会は、当然のように中止となった。
一雄からかかってきた電話にも、健一は出る気力すらなく、看護師に「体調が悪いから、と伝えてくれ」とだけ頼んだ。
(やはり、自分はダメなのだ)
その思いが、鉛のように重く、健一の心にのしかかる。
一度手にしたはずの希望が、もろくも砕け散った。
地獄のようなリハビリを乗り越え、ようやく掴んだはずの自信。
他の患者との交流の中で感じ始めた、ささやかな人の温かさ。
そのすべてが、一夜にして、まるで幻だったかのように消え去った。
自分は、結局のところ、このベッドの上から一歩も動けない、孤独で無力な老人なのだ。
神様は、そんな自分に、ほんの少しだけ夢を見させて、そして、最も高い場所から突き落としたのだ。
その残酷さに、彼はもはや怒りを感じることさえできなかった。
彼は、再び病室のカーテンを固く閉ざした。
外の世界の光も、音も、すべてが彼を嘲笑っているように感じられた。
誰とも顔を合わせたくなかった。
食事もほとんど喉を通らず、ただ機械的に水分を補給するだけの日々が続いた。
心配して訪ねてくる看護師にも、壁に向かって寝返りを打ったまま、一言も発しない。
リハビリの時間にやってきた田中にも、布団の中からくぐもった声で、「もう、やめた。二度と来るな」とだけ告げた。
田中は何も言わなかった。
ただ、ドアの前で数秒間立ち尽くしていた気配があったが、やがて静かに立ち去っていった。
その沈黙が、健一には「あんたは、やはりその程度の男だったな」という最終通告のように聞こえた。
健一の世界は、完全に振り出しに戻った。
いや、状況は前よりもっと悪くなっていた。
一度光を見てしまった後の闇は、以前の闇よりも、ずっと深く、冷たく、そして救いがなかった。
彼は、ただひたすらに、灰色の天井を睨みつけ、過ぎ去った栄光の日々と、現在の惨めな自分を、何度も何度も頭の中で比べては、自らを執拗に苛んでいた。
あの時、もっと慎重に行動していれば。あの時、田中の忠告を聞いていれば。
後悔という名の毒が、彼の思考を蝕んでいく。
数日が過ぎた、ある日の午後。
熱も少し下がり、意識がはっきりしてきた頃だった。
看護師が、そっとドアを開けた。
「佐藤さん、息子さんがお見えになりましたが……いかがなさいますか?」
その言葉に、健一の心は凍りついた。
一雄。合わせる顔など、ない。期待させて、裏切った。
父親としての威厳も、男としての矜持も、すべて失った。
「……会わん」
健一は、壁を向いたまま、吐き捨てるように言った。
「帰れと伝えろ。もう、来るなと」
「ですが、これをどうしても、と……」
看護師は、困惑したような声で言って、小さな白い封筒を、ベッドサイドのテーブルに、ことり、と音を立てて置いた。
そして、諦めたように静かに部屋を出て行った。
健一は、その封筒を一瞥だにしなかった。
(どうせ、見舞金か、あるいは、呆れ果てた末の、今後の身の振り方を促す手紙だろう)
どちらにせよ、今の健一の心を動かすものは、この世にはもう何も存在しないと思われた。
時間は、気怠く、そして残酷に流れていった。
夜になり、消灯時間を過ぎても、健一は眠れずにいた。
静寂が、彼の孤独を研ぎ澄まし、鋭い刃のように心を突き刺す。
ふと、テーブルの上の封筒が目に入った。
月の光が、カーテンの隙間から細く差し込み、白い封筒をぼんやりと、まるで墓標のように照らしている。
なぜだろう。
まるで、何かに引き寄せられるように、健一はゆっくりと、震える右手を伸ばした。
その行為に、自分でも驚いていた。あれほど拒絶していたはずなのに。
震える指で封筒をつまみ上げ、その軽さに少し戸惑いながら、封を切る。
中から出てきたのは、お金でも、手紙でもなかった。
一枚の、少し皺の寄った画用紙だった。
クレヨンで描かれた、拙い子供の絵。
その絵を見た瞬間、健一の時間が、止まった。
心臓が、鷲掴みにされたかのように、きゅっと縮こまった。
そこに描かれていたのは、一人の老人だった。
病院のベッドらしきものから、必死に身体を起こそうとしている。
しかし、その身体はぐらりと大きく傾き、今にも床に転がり落ちそうだ。
顔は、苦悶に歪んでいる。
それは、紛れもなく、リハビリに苦しむ自分自身の姿だった。
転倒した時の、あの無様で、情けない自分の姿そのものだった。
そして。
その必死な老人の手を、小さな、小さな男の子が、一生懸命に引っ張っている。
小さな身体で、か細い腕で、なんとか老人を助けようとしているのだ。
その男の子の顔は、困っているのではなく、心配しているのではなく、ただ、にっこりと、何の疑いもなく笑っていた。
絵の右上には、同じようににこにこと笑う、生命力に満ちたオレンジ色の太陽が描かれている。
健一は、その絵から目が離せなかった。
(これは……拓也が……)
息子から、面会が中止になったことを聞いたのだろう。
そして、転んだじいちゃんを、助けようとしてくれているのか。
健一は、完璧な祖父の姿を見せたかった。
杖で颯爽と歩き、「すごい」と尊敬される、あのアルバムの中の男の姿を。
しかし、孫が描き、見ていてくれたのは、そんな理想の虚像ではなかった。
転びそうになっている、無様で、情けない、ありのままの自分。
そして、そんな自分を、否定するでもなく、憐れむでもなく、ただ、助けようとしてくれる、小さな手。
(俺が求められていたのは、これだったのか……?)
完璧な姿ではない。かつての栄光でもない。
ただ、ここにいて、不自由な身体でも、もがき、苦しみ、それでも諦めずに生きようとしている、ありのままの自分。
それを、孫は、ただ、受け入れようとしてくれているのではないか。
いや、受け入れるどころか、そのか細い腕で、自分の手を引こうとまでしてくれている。
「あ……ぁ……う……」
健一の喉から、声にならない、獣の呻きのような声が漏れた。
次の瞬間、彼の乾ききっていたはずの目から、熱いものが、堰を切ったようにとめどなく溢れ出した。
それは、悔し涙でも、悲しみの涙でもなかった。
何十年もの間、プライドという名の分厚い氷で固められていた心の奥の、最も柔らかな部分が、一枚、また一枚と、ゆっくりと溶けていくような、温かくて、そして少しだけしょっぱい涙だった。
彼は悟った。
自分が本当に取り戻したかったのは、失われた過去の栄光や、他人に誇示するための見せかけのプライドではなかった。
誰かと、繋がりたかったのだ。
この孤独な世界で、もう一度、誰かのために生きたいと、心の奥底ではずっと、ずっと願っていたのだ。
自分のためではない。自分の尊厳のためでもない。
この絵を描いてくれた、まだ見ぬ孫のために。
この温かい笑顔に応えるために。
新しい関係を、ゼロから築くために。
もう一度、歩きたい。
健一は、画用紙を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと胸に抱きしめた。
クレヨンの、懐かしい匂いが、微かに鼻をつく。
彼は、声を殺して泣いた。
子供のようにしゃくりあげながら、その画用紙を濡らさないように、ただ胸に抱きしめ続けた。
長い夜が、その涙をすべて受け止めていた。
長い、長い夜が、ゆっくりと明けていく。
窓の隙間から差し込む光が、白み始めている。
健一は、涙でぐっしょりと濡れた顔のまま、ナースコールに手を伸ばした。
そして、震えながらも、しかし確かな意志を持って、その赤いボタンを押した。
「……看護師さん。……頼む。理学療法士の、田中さんを、呼んでくれ」
その声は、新しい朝の光と共に、静かな病室に響き渡った。
第六章:再生への一歩
理学療法士の田中が病室に入ってきた時、そこにいたのは、以前の健一とはまったく別の人間だった。
彼は、ベッドの上にきちんと背筋を伸ばして座っていた。
固く閉ざされていたカーテンは大きく開け放たれ、柔らかな朝の光が部屋の中に満ち、彼の横顔を穏やかに照らしている。
その顔には、もう以前のような絶望や、他人を拒絶する刺々しいプライドの影はなかった。
深い悲しみの淵を渡り終えた者だけが持つ、静かで、深く、そして揺るぎない意志の光が、その目に宿っていた。
ベッドサイドのテーブルには、あのクレヨンの絵が、大切そうに立てかけられていた。
田中は、一瞬、足を止めた。
彼の感情を滅多に表に出さない顔に、ごくわずかな驚きと、それ以上の何か――おそらくは安堵に近い感情――がよぎったのを、健一は見逃さなかった。
「田中さん」
健一は、まっすぐに田中を見つめて言った。
その声は、熱で掠れていたが、不思議なほど穏やかで、澄んでいた。
「もう一度、頼む」
田中は、何も言わずに健一の言葉の続きを待った。
その沈黙は、健一の覚悟を静かに受け止めるためのもののように感じられた。
「歩きたいんだ」
健一の声には、もう見栄や虚勢は一片もなかった。
「格好良く歩けなくてもいい。速く歩けなくてもいいんだ。たとえ、杖にしがみつくようなみっともない歩き方でも構わん。ただ、自分の足で立ちたい。そして、あの子の頭を……この手で、撫でてやりたいんだ。車椅子からじゃない。この俺の足で、ちゃんと立って」
その言葉は、健一の魂の奥底から絞り出された、偽りのない願いだった。
それは、失われたものを取り戻すための戦いではなく、これから生まれる新しい関係を築くための、祈りにも似た誓いだった。
田中は、健一をじっと見つめていた。
そして、その感情を滅多に表に出さない男の口の端が、ほんのわずかに、しかしはっきりと、緩んだように見えた。
それは、ほとんど笑みと呼んでもいいほどの、微かな変化だった。
「分かりました。やりましょう」
田中の声は、いつも通り淡々としていたが、その奥には、確かな共鳴のようなものが感じられた。
「今度こそ、焦らずに、一歩ずつ」
その日から、健一の本当の意味でのリハビリが、再び始まった。
しかし、それは以前の、プライドに突き動かされた訓練とは、まったく質が違っていた。
健一は、もう焦らなかった。
彼は、自分の身体と対話するように、ひとつひとつの動きを、丁寧に、慈しむように確かめながら行った。
痛みがあれば、それを受け入れた。
それは、罰ではなく、神経が再び繋がろうとしている、再生の証なのだと、彼は理解していたからだ。
立てなければ、なぜ立てないのかを、田中と共に考えた。
左足のどの筋肉がまだ眠っているのか、体幹のどの部分の意識が足りないのか。
彼は、自分の身体を、もはや呪うべき対象ではなく、共に戦うべきパートナーとして捉え始めていた。
いつものように麻痺した左足をマッサージしていると、指先に、ごく微かな、痺れるような感覚が走った。
電気のような、それでいて温かいような、不思議な感覚。
それは、長い間死んでいたはずの土地に、か細い水脈が再び流れ始めたかのような、奇跡的な感触だった。
健一は、その微かな感覚を確かめるように、何度も自分の手で足をさすり続けた。
田中は、そんな健一の変化を的確に見抜き、より専門的で、緻密なアドバイスで彼を導いた。
「佐藤さん、左の股関節にもっと意識を集中させて。そこが、身体全体の支点になります。今はまだ、右手と右足だけで立とうとしている」
「こうか?……ああ、なるほど。少し、感覚が違うな」
「そうです。その感覚を忘れないでください。脳が、新しい身体の使い方を学習しているんです」
彼の内面的な変化に気づいたのは、田中だけではなかった。
談話室で会う他の患者たちも、健一の纏う空気が、まるで別人のように柔らかく、穏やかになったことを感じ取っていた。
彼らは、もう健一を腫れ物に触るように遠巻きに見ることはなかった。
廊下ですれ違う時に、「佐藤さん、その調子だ」「頑張れよ」と、仲間として、戦友として、自然に声をかけるようになった。
健一は、その声に、気負いなく「ああ」「ありがとう」と、穏やかな笑みを浮かべて応えた。
彼は、もう一人ではなかった。
孤独という砦の中から、自らの意志で歩み出てきたのだ。
健一はふと思った。
この田中という男もまた、かつての自分と同じように、仕事という戦場で何かを失い、そして何かを見出した人間なのかもしれない、と。
だからこそ、感傷を排し、結果にのみこだわるのかもしれない。
その考えは、健一の心に、他者への想像力という、長い間忘れていた感情を呼び覚ました。
最終章:はじまりの物語
季節は巡り、あれほど命を燃やすかのように鳴り響いていた蝉の声は、いつしか秋の訪れを告げる、澄み渡るような涼やかな虫の音に変わっていた。
空気は乾き、空は高く澄み渡っている。
健一は、リハビリ室の窓から見える木々が、日々その色を変えていくのを、穏やかな心で眺めていた。
あの絶望の夏が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
彼の身体は、まだ完全な自由を取り戻したわけではない。
しかし、四点杖を確かなパートナーとして使えば、病院の廊下を、以前よりもずっと安定した、確かな足取りで歩けるようになっていた。
一歩一歩、床を踏みしめるたびに、彼は自分の足が大地と繋がっている感覚を、深く、そして感謝と共に味わっていた。
そして、再び、面会の日がやってきた。
場所は、病院の裏手にある、小さな庭だった。
色づき始めた桜や楓の葉が、柔らかな秋の午後の日差しを浴びて、赤や黄金色にきらきらと輝いている。
風が吹くたびに、カサカサと乾いた音を立てて落ち葉が舞い、地面に美しい絨毯を織りなしていた。
健一は、その庭のベンチの隣に、車椅子に座って、その時を待っていた。
しかし、その心は、以前とはまったく違っていた。
それは、敗者のための安息の場所ではなく、これから始まる戦いのための、スタートブロックだった。
ここから立ち上がる、その瞬間のために。
隣には、白いポロシャツ姿の田中が、まるで百戦錬磨のセコンドのように、何も言わずに静かに立っている。
彼の存在は、もはや健一にとって冷たい監視者ではなく、共に戦う信頼できる盟友だった。
やがて、遠くの小道の向こうに、二つの人影が現れた。
落ち葉を踏む、カサッ、カサッという微かな音を立てながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
息子の一雄と、その手を引かれた、小さな男の子。
健一の心臓が、とくん、と大きく、しかし穏やかに鳴った。
緊張ではない。期待と、そして少しの怖れ。
だがそれは、かつてのようなプライドを傷つけられる怖れではなかった。
この純粋な期待に、自分はちゃんと応えることができるだろうか、という、誠実な怖れだった。
男の子は、健一の姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
その瞳は、秋の空のように澄み切っている。
そして、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、一雄の手を振りほどくと、短い足を懸命に動かして、まっすぐにこちらへ駆け寄ってきた。
その無邪気な、ためらいのない姿に、健一の胸の奥深くが、じわりと温かいもので満たされていく。
「じいちゃん!」
鈴が鳴るような、澄んだ声。
健一が、あの暗闇の中で、何度も何度も夢に見た声。
あのクレヨンの絵を見ながら、自分の心を支え続けてくれた声。
その声が、今、現実のものとなって、彼の鼓膜を震わせた。
その声に応えるように、健一は、動いた。
彼は、まず右足でしっかりと地面を踏みしめた。
そして、車椅子のブレーキを、震える右手で、しかし確かな手応えを感じながらロックした。
両手でアームレストを掴み、全身の神経を、これから行う一つの動作に集中させた。
ゆっくりと、しかし確かな力で、腰を上げた。
ミシミシ、と身体中の、長い間忘れ去られていた関節が、悲鳴に近い歓声を上げるのが分かる。
額から、玉のような汗が噴き出し、緊張で引きつった頬を伝って、ぽたりと顎から落ちた。
震える両足が、自分の全体重を、この秋の大地の上に支えている。
その瞬間、彼は、自分がただ存在するだけでなく、確かに「生きている」のだと実感した。
「親父!」
一雄が、その危うげな姿に、思わず助けようと手を伸ばしかけた。
彼の顔には、純粋な心配と、そして目の前の光景に対する信じられないといった驚きが混じっていた。
しかし、その伸ばされた手は、横にいた田中によって、そっと、しかし力強く制された。
一雄が驚いて見ると、田中は静かに首を横に振った。
その目は、まるでこう語っているかのようだった。
「見届けてやってください。これは、あなたの父親が、自分自身のために、そしてあなたたちのために戦い取ろうとしている、尊厳そのものなのだから」
健一は、立った。
完全に、自分の足だけで。
右手に握られた四点杖に体重の一部を預けながらも、確かに、彼は大地の上に、自分の意志で立っていた。
目の前には、駆け寄ってきたまま、ぽかんと口を開けて自分を見上げる孫の、大きくて、どこまでも澄んだ黒い瞳があった。
その瞳には、驚きと、好奇心と、そして何のフィルターもない、ただ純粋な信頼の色が浮かんでいた。
健一は、ゆっくりと、まだ少し不自由な左手を、祈るように持ち上げた。
その手は、緊張と感動で小刻みに震えている。
彼は、その震える手で、そっと、孫の柔らかい髪に触れた。
想像していたよりもずっと細く、陽だまりのような温かさを持つ髪だった。
「よく……来たな、拓也」
声も、震えていた。
しかし、その声には、万感の思いが、長い孤独の夜を越えた感謝が、そして初めて口にする、不器用だが深い愛情が込められていた。
拓也は、くすぐったそうに、しかし、満面の笑みで健一を見上げた。
その笑顔は、健一の心を溶かした、あの絵の中のオレンジ色の太陽と、そっくりだった。
その瞬間、健一の心の中から、「もうおしまいだ」という、長く彼を縛りつけていた冷たい呪いの言葉は、秋の陽光の中に、跡形もなく消え去っていた。
彼の物語は、決して終わってなどいなかった。
むしろ、今、この瞬間から、新しく、そして本当の意味で始まろうとしているのだ。
健一は、拓也の小さな手を取った。
かつて、数十億ドルの契約書にサインをした万年筆よりも、ニューヨークで交わしたクライアントの固い握手よりも、この小さくて温かい手の方が、ずっと重く、そして尊いものに感じられた。
その小さな手から、脈打つ生命の力が、じかに、そして力強く伝わってくるようだった。
「少し、歩こうか」
健一は右手に杖を持ち、左手は、拓也が両手で、大切な宝物を握るようにしっかりと握りしめた。
祖父と孫は、ゆっくりと、一歩、また一歩と、光の降り注ぐ庭の小道を歩き始めた。
健一の不規則なリズムに、拓也が懸命に歩調を合わせる。
その歩みは、世界で最も不器用で、そして最も美しいダンスのように見えた。
その光景を、少し離れた場所から、一雄が黙って見つめていた。
彼の脳裏に、忘れかけていた記憶が蘇った。
子供の頃、運動会で転んだ自分に、父が駆け寄ってきたことが一度だけあった。
その時の、不器用で、どうしていいか分からないといった戸惑いの表情。
仕事ばかりで家にいなかった父を、ずっと心のどこかで恨んでいた。
だが、今、孫の手を引く父の背中は、あの日の戸惑いの表情とどこか重なって見えた。
不器用で、ただどう愛情を示していいか分からなかっただけなのかもしれない。
そう思うと、長年胸の奥に凍りついていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。
彼の目には、少しの照れくささと、安堵と、そして、父に対する静かな許しの涙が浮かんでいた。
もうおしまいの物語。
いや、これは、失われたものを取り戻す物語ですらない。
これは、今ここにあるものから、新しい絆を、新しい意味を、ゆっくりと、一歩ずつ紡いでいく、輝かしい「はじまり」の物語の、最初の、そして最も美しいページだった。
退院の日。
荷物をまとめ、最後にがらんとした病室を見渡した。
ふと見上げた灰色の天井。
かつては虚無そのものに見えたその無機質な平面が、今は自分が戦い抜いた日々のすべてを見守ってくれた、静かな証人のように思えた。
「世話になったな」
健一は誰に言うでもなく呟き、静かに部屋のドアを閉めた。
その先には、新しい物語が待っている。
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