第30話 関係

鳥の声が枝から枝へと飛び移り、風鈴の音がかすかに響いた。神社の社務所の奥では、誰かが箒で砂利を掃く音がしていた。日曜の昼下がり、時間はゆっくりと進んでいく。


ようやく、太一くんが口を開いた。


「れんさん……このあいだ、家で、母のこと見たよね」


わたしは息を飲んだ。あの夜のこと。クローゼットの中に隠され、ただ物音と声だけで“関係”を感じとるしかなかった、太一くんとその母親とのあの重苦しい時間。


「……うん」


「……本当はああいうの、見せるつもりじゃなかった。……ていうか、もう二度と、誰にも見せたくない」


太一くんの声は低くて、擦れ気味だった。けれど、その声のなかに、覚悟のようなものも感じた。


わたしは言葉を挟まず、そっと聞き続けた。太一くんの手が無意識に膝の上で握られていた。拳の骨が、少し白く浮かんで見える。


「最初は、甘えなんだと思ってた。寂しいんだろうな、って。……でも、それだけじゃなかった」


「……太一くん」


わたしの声に、太一くんの肩がわずかに動いた。


「もう、母さんとは――ちゃんと、母と息子に戻りたいんだ」


静かな決意だった。けれど、それはわたしの胸を打った。太一くんがこれまで、どんな風に自分の存在を母の“代わり”として引き受けてきたのか。その重みを想像すると、胸が痛くなる。


「……うん」


わたしはうなずいた。


「うん、戻ろう。ちゃんと」


「……でも、どうやって。母さんは俺を、あの頃の父さんとして見てる。あの人の時間だけ、ずっと止まってるみたいなんだ」


「太一くんが、それでも戻したいって思ってるのは……きっと、わたしにとっても、すごく大事なことだと思う」


わたしは、ゆっくりと太一くんの手に自分の手を重ねた。


「わたしにできることがあるなら、協力したい。……太一くんがちゃんと、自分の人生を生きられるように。母親の誰かじゃなくて、“太一くん”として」


太一くんの指がわずかに震えた。わたしのその言葉は、たぶん、ずっと彼が欲しかった言葉だったのだろう。


「ありがとう……」


「うん」


「……でも、やっぱり少し、怖いんだ。母さんとちゃんと向き合うのが。言ったら、拒絶されるんじゃないかとか……」


「それでも、言わなきゃダメだよ」


わたしの声は静かだったが、芯が通っていた。


「太一くんは、もう自分のことを“代わり”として扱ってほしくないって思ってる。それなら、ちゃんと伝えなきゃ。伝えないままじゃ、何も変わらない」


太一くんは黙ってうなずいた。


そのとき、木々の合間から風が吹いて、ふたりの髪を揺らした。ふと見上げると、木漏れ日のなかに一匹の小さな鳥が舞っていた。枝にとまり、さえずり、そしてまた飛び立つ。


わたしはその姿に、少しだけ自分たちを重ねた。


「少しずつでいい。急がなくてもいい。でも、進もう。ね?」


太一はわたしの言葉に、目を細めて笑った。


「……うん、少しずつで」


そしてふたりは並んでベンチから立ち上がる。


境内の空気がやわらかく包み込むように流れ、蝉の鳴き声が夏の気配をそっと添えた。


境内の坂道をゆっくり歩きながら、太一くんがぽつりとつぶやいた。


「れんさんがいてくれて、よかった」


「わたしも、太一くんがいてくれてよかったよ」


ふたりの影が並んで伸びていた。やがて、それは夕暮れのなかへと溶けていった。

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