第3話 寄り道
放課後、最後のチャイムが鳴ると同時に、私は一番に教室を出た。そうするのが習慣になっていた。
誰かに声をかけられたくないし、後ろから笑われるのも嫌だった。空っぽの廊下に靴音が響く。誰かに追いかけられるような気がして、私は下を向いたまま早足で階段を下りた。
下駄箱の前には、まだ誰もいない。そう思った瞬間、ひとつだけ人影が見えた。薄暗い光の中で、ピンくんが立っていた。
その姿に、一瞬、足が止まった。けれど、彼は私に気づいた様子もなく、黙って自分の靴を出していた。上履きの踵はすり減っていて、紐の端が少しほどけていた。
私はゆっくり歩いて、彼と少し距離を空けて隣のロッカーを開ける。音を立てないように、静かに扉を開いて、中を覗いた。
今日は、なにも入れられていなかった。ぬるりとした安心が喉をなでた。でも、それが逆に不気味でもあった。嵐の前の静けさみたいで。
ピンくんが、ふいにこちらを見た。
「……今日、靴、無事だった?」
思いがけない声に、私は振り返ることができなかった。ただ、小さくうなずいた。
「うん……そっちは?」
「俺も……今日は、なんもなかった」
ふたりの間に、沈黙が落ちる。けれど、どこか息苦しくはなかった。不思議と、会話を続けたくなる空気があった。
「……このあと、すぐ帰るの?」
たずねてから、しまったと思った。そんなこと、聞く必要ないのに。でも、たーくんは少しだけ間を置いて答えた。
「……ちょっとだけ、遠回りして帰るつもり」
私は、ロッカーの中に手を入れながら、静かに言った。
「……じゃあ、わたしも。遠回り、する」
それだけで、ふたりは自然と並んで歩き始めた。誰にも見られないように、下を向いたまま、言葉も交わさず。
校門を出てすぐ、いつもの道とは反対の方向へ曲がる。そちら側は草木が多く、細い路地を抜けるような帰り道だった。誰も通らないわけじゃないけど、ここを選ぶ生徒はほとんどいない。
夕方の空気は少しだけ湿っていて、地面に落ちた葉が靴の裏でかすかな音を立てた。並んで歩くには道幅が狭く、私たちは自然と、肩がふれないぎりぎりの距離で進んだ。
言葉はなかったけれど、静かな時間が続いた。不思議と、沈黙が怖くなかった。気まずさではなく、許された沈黙だった。私はときどき、彼の横顔をちらりと盗み見て、そのたびに視線を逸らした。
ピンくんは何も気にしていないように見えたけれど、ほんとうのところはわからない。
やがて、細道の先に古い鳥居が見えてきた。神社というより、小さな祠のような場所。境内の中はひっそりとしていて、鳥の声すら届かない。掃き掃除もされていないらしく、枯葉が積もり、地面には小さな苔が生えていた。
境内の隅には、木のベンチがひとつだけ置かれていた。風にさらされて色が抜け、ところどころ腐食していたけれど、座ることはできそうだった。
私は先にベンチに近づき、そっと腰を下ろした。
ピンくんは少しの間、そこに立ち尽くしていた。でも、やがてゆっくりと歩いてきて、私の隣に腰を下ろした。制服の袖口を指先で触れていると、彼の視線がほんの一瞬だけそこに落ちた気がして、私は肩をすくめた。距離は微妙に空いている。大人と子ども、その中間のような空白。
ベンチの木がきしんだ。ふたりして、息をのむように黙った。
「……この神社、来たことある?」
私がぽつりと聞くと、たーくんは首をふった。
「ない。……でも、静かでいいね」
それだけの会話。でも、それが妙にあたたかかった。
「誰も来ないよ、ここ。……前に、一人で泣いたときも、誰にも見つからなかった」
そう言ったあと、自分の言葉に少し戸惑った。泣いた話なんて、なぜ口にしてしまったんだろう。でもピンくんは、何も聞き返さなかった。ただ、「そっか」とだけ言った。
それだけで、私は少しだけ救われた気がした。
どこにも行き場のなかった気持ちが、少しだけ溶けていく。ピンくんの言葉は、正しくないかもしれないけれど、まちがってもいなかった。正解なんてなくても、私にはそれでよかった。
「……なんで、今日、隣に座ったの?」
小さな声で聞いてみた。ずっと気になっていた。でもピンくんは、少し困ったように笑って、
「……たまたま。ほんとに、そこしか空いてなかったから」
そう答えた。私は、うん、とだけ言って、もうそれ以上は聞かなかった。
たまたまでも、偶然でも、今こうしてここにいることは、まぎれもない事実だった。誰かの意志で繋がったものじゃないからこそ、どこか痛みのない時間だった。
ほんの数センチの距離。心の中では、もっと遠い。でも、その遠さが、なんだか心地よかった。
ふたりで座った古いベンチの端に、蝉の抜け殻がひとつ、宝石みたいに転がっていた。
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