ピンくん、それはちゃんと恋だった

鳩村舞

第1話 出会い

学年集会の時間になって、教室がざわつきはじめた。けれど私は、誰よりも早く席を立った。


肩にかかる髪が少しずれて、私はそれを気にするふりで視線をそらした。誰よりも、あの空間から逃げ出したかった。


教室にいたくなかった。ただそれだけ。


ロッカーの前をすり抜けるとき、男子のひとりが私の背中を指さして笑ったのが見えた。何か言っていたけれど、もう聞かないことにした。今日は、靴が濡らされていなかった。それだけで少し安心した自分に腹が立った。


体育館の入り口は薄暗くて、冷たい空気が漂っていた。夏の終わりなのに、土の匂いと汗のにおいが混じっていて、どこか息がしづらい。


誰もまだ来ていなかった。私は端の方、壁ぎわに近い列の、端っこのところに体育座りをした。


スカートのしわが太ももの上で折り重なって、手持ちぶさたに指先でなぞった。床の固さが尾てい骨に響いて、それがむしろ落ち着いた。


誰かの隣に座りたくない。誰にも、隣に座ってほしくない。


ずっとそう思って生きてきたのに――なのに、この日だけは、どこか、違っていた。


周囲がざわざわと騒がしくなり、順に座っていくクラスメイトの波の中で、私の左右はずっと空席だった。予定通り。きっと誰も近寄らない。私の周囲は、見えない柵で囲まれている。


そう思っていたのに。


最後の一人が入ってきた。下を向いたまま、ゆっくり歩いてくる男の子。あだ名はピンくん、だったとおもう。


同じ学年、違うクラス。喋ったことはなかったけど、噂は聞いていた。


「靴、片方ないときあったらしいよ」

「親、離婚してんだって」


誰が言ったのか、どこから広まったのかは、わからない。でも、私は聞いていたし、私も同じだった。下駄箱に行くのが怖い朝。履き潰した上履きしかない足元。誰も隣に座らない席。


彼は辺りを見渡した。あきらかに、座る場所がない。彼のためのスペースなんて、誰も空けていなかったのだ。


そして、彼の目が、私を見た。私は動けなかった。息もできなかった。


彼は、静かに、私の隣に腰を下ろした。膝を抱えるようにして体育座りをして、何も言わずにうつむいた。


顔が少しだけ見えた。左の頬に赤黒く腫れたようなあと、目尻には薄く紫の打撲痕。あごの下、にきびが潰れたような小さな赤い痕がいくつもあった。


瞬間的に、私の胸が苦しくなった。


あ、同じだ――と思った。


誰にも見られたくなくて、でも見てほしくて。何かを訴えたいのに、声にする術を持たない。私と同じ匂いがした。違う痛みを抱えていても、同じ種類の傷だと思えた。


「……ここしか、空いてなかったんだ」


小さな声だった。私に言ったのか、それとも独り言だったのか。でも、私はそれに答えた。


「うん。……うれしい」


我ながら、変なことを言ったと思った。でも、本当に、うれしかったのだ。


彼は少しだけこっちを見た。でもすぐに、視線を落とした。


その視線が、何かに怯えていた。怒られるんじゃないか、拒絶されるんじゃないか、傷つけられるんじゃないか。まるでそう思ってるみたいに、彼の目はどこにも焦点を合わせていなかった。


「……ピンくん、って呼ばれてるよね?」


「……うん」


それだけで、また沈黙が落ちた。


でも、それが悪いものには感じなかった。心臓の音が少しずつ落ち着いていくのを感じた。私の隣に、人がいる。嫌じゃない人がいる。それだけで、世界の重さが少し変わった気がした。


「わたし、れんっていうの」


「……知ってる」


彼の声はかすれていた。でも、その言葉だけで、何かが確かに伝わった。


わたしを、知ってくれている人がいた。


「……下駄箱、怖いよね」


言った瞬間、ピンくんの指先がピクリと動いた。


「この前……靴、片方なかった。……三回目」


彼の言葉に、私は小さくうなずいた。


「……わたしは、水。中に、入ってた」


また沈黙。でも、そこにはもう孤独はなかった。


ふたりで体育館の床に座っているだけで、何かがはじまっていた。わたしたちは、きっともう、ひとりじゃなかった。


世界のはじっこで、誰にも見つけてもらえなかった二人が、たまたま、隣に座った。ただそれだけのことが、こんなにも胸を熱くするなんて。


「……また、隣に座っていい?」


私が聞くと、ピンくんは一瞬だけ黙って、でもほんの少し、うなずいた。


たったそれだけの返事で、私は泣きそうになった。

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