第9話『敗北の味──失うものと得るもの』
泥と血の匂いが、風に溶けていた。
青空が広がる中で、鳥の声だけがのどかに響いている。
でもその下で、オレたちは血の上を走っていた。
◆
「押せェェェ!! 押し切れェェェ!!」
オレの声が森に響く。
昨日、オレたちは山賊を押し返し、“勝った”。
長槍の先に血が滲み、盾に矢が弾かれ、オレたちはそれを「勝利」と思った。
だから今日も、オレたちは走った。
勝てると思った。
「族だろおめぇら!! 走れっぺよ!!」
「イッポォォ!!」
「イッポォォ!!」
泥の上を、盾が進む。
槍が揃って突き出される。
山賊たちが悲鳴をあげて散る。
その時、オレの心は高鳴っていた。
「これでいい」
「これが、オレたちの“走り”だ」
◆
「おい! 敵が逃げてるぞ!」
虎之介が叫んだ。
「追うぞ!!」
興奮で顔が赤くなっていた。
「待て!」
政秀の声が飛ぶ。
「追撃は危険です!」
でも、オレもその時、血が騒いでいた。
「行くぞ!!」
調子に乗っていた。
◆
山道に踏み込む。
森の中、影が揺れる。
地面は湿っており、木の根が張り巡らされている。
盾を構えながら、進む足音が重く響く。
「イッポォォ!!」
「イッポォォ!!」
声だけは、まだ揃っていた。
でも心が、バラけていた。
◆
「吉法師様!」
お葉の声が背後で響く。
「危ない、戻りましょう!!」
お菊が震える声で叫ぶ。
「こんな森の中で、陣形は……!」
その時だった。
「今だァァァ!!」
森の奥から飛び出す影。
山賊たちが、周囲の木々から一斉に飛び出してきた。
「伏せろォォ!!」
オレが叫ぶ。
次の瞬間、弓矢の音が耳を裂いた。
「ぎゃっ!」
横にいた若者が矢を受けて倒れる。
「くそっ!! 盾を上げろ!!」
オレが叫んでも、列はすでに崩れかけていた。
◆
「押せ!! 押し返せ!!」
山賊たちの棍棒と短槍が雨のように振り下ろされる。
盾が割れる音。
槍が折れる音。
「ぎゃあああ!!」
虎之介が前で押し返そうとする。
「くそっ!! 押せ!! 押せ!!」
でも、地面は泥で滑る。
槍が思うように動かない。
「うわああああ!!」
別の若者が背中を斬られ、泥に倒れ込む。
血が泥に溶けて広がる。
「くそっ……」
オレは槍を構え直した。
「でれすけ共!! 列を戻せ!! 盾を揃えろ!!」
でも、恐怖で目を見開いた若者たちが後ずさる。
「無理だ! 無理だ!!」
その目を見た瞬間、オレは悟った。
「……負けた」
◆
「撤退だァァ!!」
オレは叫んだ。
「下がれ!! 森を抜けろ!!」
山賊の刃が迫る。
オレは槍を構え、突き出す。
「うおおおお!!」
刃がぶつかり合う。
鉄の音が響く。
相手の目が恐怖に揺れた。
オレの槍がその胸を貫く。
血が飛び散る。
顔にかかる。
「下がれ!! 下がれェェ!!」
振り返ると、小太郎がお鈴の手を引いて泥の中を走っている。
お葉がお菊を庇いながら盾を構える。
政秀が血の付いた刀を握り締め、後退を指揮している。
「走れ!! おめぇら!!」
「走って、生きろ!!」
オレは再び槍を突き出す。
血を吸った槍の重みが、腕に伝わる。
「うおおおお!!」
オレは吠えた。
そして、一歩ずつ後退した。
◆
森を抜けると、空が広がっていた。
土の匂い。
血の匂い。
汗の匂い。
オレは肩で息をしながら、仲間を見渡した。
泣きながら小太郎がお鈴を抱えている。
お葉がお菊の背中を撫でている。
虎之介が泥まみれで座り込み、息を切らしていた。
政秀が刀を下ろし、オレを見つめる。
オレは笑った。
「負けだっぺな」
政秀が目を閉じ、息を吐く。
「……ええ、完敗です」
◆
死んだ仲間もいた。
血の匂いがまだ残っていた。
盾が割れ、槍が折れ、泥に突き刺さっていた。
「勝てると思ってた」
オレは呟いた。
「族で走れば、勝てると思ってた」
でも、それは甘かった。
◆
「でもよ」
オレは立ち上がり、空を見上げた。
「オレたちは、生きてる」
「まだ、走れる」
風が吹いた。
泥と血の匂いを洗う風だった。
「走るっぺよ」
「もう一度、盾を揃えて、槍を揃えて」
「オレたちは……走るっぺよ」
皆がオレを見た。
お葉が頷き、涙を拭った。
お菊が歯を食いしばりながら立ち上がる。
小太郎が泥を払いながらお鈴の肩を支える。
虎之介が声をあげた。
「……走るっぺ!!」
オレは笑った。
「これが……敗北の味だ」
「でも、この味は忘れねぇっぺよ」
「これが、オレたちの戦だっぺよ!!」
【第二章 第9話 了】
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