水晶の夢路
舞夢宜人
第1話 水晶の予感:図書室の出会いと、てのひらの柔らかさ
葉山悠斗にとって、高校三年生の九月は、季節の変わり目以上に、人生の大きな節目だった。夏が終わりを告げ、少しずつ涼しい風が吹き始める頃、彼の高校生活から、最も熱中したものが忽然と姿を消した。サッカー部を引退したのだ。強豪校のディフェンダーとして、三年間を泥と汗にまみれて過ごした。朝練、放課後練、休日練。すべてがサッカーのためにあった。チームのために体を張り、グラウンドを駆け抜ける日々は、確かな充実感と、仲間との揺るぎない絆をもたらしてくれた。だが、最後の予選で敗退し、すべては終わった。
引退は、想像以上に彼の日常を変えた。それまで部活中心だった友人たちの多くは、まだ練習に励む者、受験モードに完全に切り替えた者と、それぞれの道を歩み始めていた。放課後、当たり前のように集まっていたグラウンドにはもう自分の居場所はなく、教室に残る友人たちとの話題も、どこか噛み合わない。「なあ、今日どこ寄ってく?」そんな誘いも、いつしか途絶えた。急に減ってしまった友達との交流に、悠斗は拭い切れない寂しさを感じた。しかし、これも受験生としての宿命だと、心の中で言い聞かせた。これから本格化する受験勉強に集中するためには、仕方のないことだ。自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥には鉛のような虚しさが沈んでいた。
孤独と向き合う受験勉強の日々。放課後の時間は、ぽっかりと穴が開いたように長かった。部活で汗を流していた頃のように、すぐに家に帰る気にはなれなかった。そんな悠斗が足を向け始めたのが、学校の図書室だった。冷房が効いた室内は静かで、集中するにはうってつけの場所だ。
図書室は、悠斗にとって新しい日常の舞台となった。ほぼ毎日通ううち、彼は自然と自分の「指定席」を見つけた。それは、窓際の少し奥まった場所にある、二つ並んだ机の一方だ。そして、その隣、つまり彼の席の真正面に、いつも座っている女子生徒がいた。佐倉葵。同じクラスの、たしか陸上部の短距離選手だったはずだ。サッカー部の練習の合間に、彼女がトラックで真摯に、そしてしなやかに走る姿を何度も目にしていた。小柄ながらも、鍛え上げられた体つきは、彼女のひたむきな努力を物語っていた。
葵は、いつも黙々と参考書に向かっていた。時折、細い指で眼鏡の位置を直し、難しい顔でノートにペンを走らせる。その真剣な横顔を、悠斗は気やすめに眺めるのが常だった。彼女は授業でも彼の前の席に座っており、その背中は見慣れたものだ。しかし、これまではただの「同級生」という以上の関係ではなかった。ましてや、陸上部の佐倉と、サッカー部の葉山では、接点もほとんどない。それでも、同じ空間で、同じように黙々と受験と向き合う彼女の姿は、悠斗にとって、孤独な戦いの中で静かな安らぎを与えていた。彼女が志望校として国立大学の工学部の情報工学科を挙げていると知った時は、胸の奥で小さな驚きと、同時に得体の知れない期待が膨らんだ。自分と同じだ。だが、こんな時期に交際を申し込んでも、迷惑がられるだけだろう。きっとあっさり振られる。そう思い込み、悠斗は現実の行動に移すことはなかった。
ある日の下校時間、悠斗はいつものように勉強を終え、図書室を出ようと立ち上がった。彼の使っていた机の前の床、本棚と本棚の間に、何かが落ちているのが目に入った。小さな輝きが、彼の視線を引きつける。
しゃがみ込んで拾い上げたのは、手のひらにすっぽりと収まるサイズの、透明な水晶のお守りだった。表面は滑らかで、光を吸い込んで、まるで星屑を閉じ込めたかのようにキラキラと輝いている。誰かの忘れ物だろうか。ふと、彼は葵の顔を思い出した。彼女はいつも、小さなアクセサリーを身につけていた。もしかしたら、これがあの子のものかもしれない。
悠斗は、手の中のお守りを握りしめたまま、図書室の入口付近にいる葵に声をかけようと足を踏み出した。
「佐倉…」
彼の唇から、彼女の名前が漏れかけた、その瞬間だった。
悠斗の手の中の水晶のお守りが、彼の心臓の鼓動と共鳴するかのように、
パッと明るく、眩しい光を放った 。その光は、彼の指の間から溢れ出し、図書室の薄暗い空間を一瞬だけ照らした。
同時に、彼の目の前で、葵の体がぐらりと揺れた。
「佐倉!」
悠斗の呼びかけも虚しく、彼女は音もなく、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと、しかし確実に彼の目の前へ倒れ込んできた。
悠斗は考える間もなく、反射的に両腕を伸ばした。葵の体は、彼の
がっしりとした腕の中に、ふわりと、しかし確かな重みをもって収まった 。
「大丈夫か、佐倉!」
悠斗の腕の中に抱えられた葵の体は、思ったより
ずっと軽く、柔らかな体だった。陸上部で鍛えられているとはいえ、彼女の体つきはしなやかで、彼のがっしりとした腕の中では、まるで小さな小鳥のようだった。薄手のブラウス越しに感じる彼女の肌の温かさと、華奢な体つきに似合わぬ確かな女性らしい曲線 が、悠斗の腕の中にじんわりと伝わってくる。彼女の肩にかかる黒髪が、彼の頬をかすめた。
悠斗は、倒れた葵を横抱きに抱えたまま、一目散に保健室へと向かった。廊下を走る間も、彼女の柔らかな体が腕の中で揺れ、その度に、悠斗の心臓は激しく脈打った。心配と同時に、こんな状況で不謹慎だとは思うものの、**「役得」**という本能的な意識が、彼の胸に微かに湧き上がるのを感じた。
保健室のドアを勢いよく開け、「先生、佐倉が倒れました!」と叫んだ。養護教諭が慌てて駆け寄ってきて、悠斗の腕の中から葵を受け取った。悠斗は、保健室の隅で息を整えながら、倒れた葵の様子を案じた。養護教諭がテキパキと処置を施し、やがて葵は落ち着いた寝息を立て始めた。
結局、あの水晶のお守りは、返せないまま悠斗の制服のポケットの中にしまわれていた。声をかける間もなく倒れてしまったからだ。まあ、保健室まで運んだ「運賃」として、しばらく預かっておこう。悠斗は、そう自分に言い聞かせた。
その日の夜、悠斗はいつものノルマである受験勉強を終えると、机の上に置かれた水晶のお守りをぼんやりと眺めた。昼間、自分の腕の中にあった佐倉葵の体の柔らかさ、そしてその軽さが、いまだ手のひらに残っているような気がした。彼女は大丈夫だろうか。貧血だったのか、それとも別の何かだったのか。柄にもなく、悠斗は普段の真面目な自分からは想像もつかない心配を抱えながら、その日の疲れを引きずって寝床についた。
意識が、抗いがたい力に誘われるように、ゆっくりと夢の世界へと滑り落ちていく。
柔らかな光に包まれた空間で、葵が目の前に立っていた。陸上部の練習着ではなく、水色の薄手のニットと、それに合わせたシンプルなデニムスカート姿だ。薄手のニット越しにも、その胸元の慎ましやかさがうかがえた。主張しすぎない曲線は、彼女の繊細な佇まいに寄り添っていた。
「葉山くん、今日は本当にありがとう。運んでくれて、助かりました」
葵が透き通るような声で、はにかむように言った。その頬はほんのりと赤く染まっている。悠斗は、夢だと分かっていながらも、胸の奥がきゅん、と締め付けられるのを感じた。
「いや、友達じゃないか。困っている人を放っておけないだろ」
悠斗は柄にもなく、少し気取った言葉を返した。本当は、友達以上の関係になりたいと心の中で強く願っているのに。
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