第5話

 その日の事はよく覚えてる。

 朝起きて、非常に調子がよく、少し雲はあるもののいい天気だった。

 11月も下旬という事もあり、少し肌寒くはあるが数日前の吐く息が白くなるほどの寒さはなく、少し暖かさの残る朝だった。

 早朝の凛とした空気が薄れ、1日の始まりを告げるような心地の良い風が吹く中ゆっくりと体をこし、紅茶を入れるために自室から1階へと向かう。

 寝ぼけつついつもの動作で茶葉を入れ、適度にポットに茶葉を入れ熱湯を注ぎこみ、マグカップを出し、ポットと空のカップを手に持ち自室へと戻る。

 自室に戻り、机の上にポットとカップを置くとすぐにデスクトップPCの主電源を入れ起動させる。

 紅茶を入れつつ、買っておいたスコーンを取り出して朝食をしながら頭を覚ましながら、作業を開始する。

 これが、坂下 栄治が20年近く続けてきた瞬間であり、自分に染み付いたいわばルーティーンである。

 そんないつもの毎日だと思っていたその日。

「そろそろ店開けますよ!」

「「は~い」」

 いつものように出勤し、1年前からお世話になっているオリーブの開店作業にをし、今まさに開けようとすると、名物夫婦の綺麗なハーモニーが耳に届く。

 いつも思う事だが、この夫婦は理想としえるぐらいお互いの呼吸があっており、一緒に働いていても気持ちが良い。

 そんな夫婦が慌てふためいていた1カ月前は驚いたが、その件も無事に解決したらしいとの事でほっと安心していた。

 カランカランと小気味の良い耳触りの良いベルの音を鳴らしながらドアを開けると、視界の目の前にピンク色の奇抜な髪をした、少し髪が長く方辺りまである、眼光が少鋭くもあるがでも柔らかな印象的な女性がそこに居た。

 1カ月前、いつも落ち着きのあるオリーブ夫婦が慌てふためきながら話をした事故をした女性だと一瞬で気が付いた。

 見た目の特徴に、桃色の髪の毛が印象的だと聞いていたためである。

「開店まちとは珍しい」

「へ?!」

 俺の第一声が良くなかったのか、それとも考え事でもしていたのだろうか、肩を強張らせ、びくっ、と効果音でもつきそうなぐらいびっくりしていた。

「どうぞ」

 一瞬動揺してしまったがいつもの動作で案内をする。

 するのだが、彼女を招き入れるときの動作や、彼女の少し驚いた声を聞いただけだというのに、なぜだが酷く懐かしいような、そんな感覚にとらわれる。

 女性が自分の脇を通り、入店したときだ。

 女性特有のものなのだろうか、ふわりと香る匂いがとても柔らかく独特で、それでいて包み込まれるような安心感が全身を駆け抜けた。

 自分でもびっくりしてしまい、思わず彼女を視線で追ってしまうと同時に(なんだこれ、え?! はぁ?)脳内が一瞬で混乱状態に陥った。

「どこかで会ってますか?」

 不意に彼女が振り返り、なぜかそのような事を聞いてきた。

「は???無いんじゃない、こんな可愛い人なら覚えてるだろうし」

 突然振り返りざまに問いかけられたのもあり、意識することなく口が勝手に動いて言葉を紡いでいた。

 やばい、やっちゃった。と思ったときには時すでに遅く、女性はみるみる首からほほにかけてほんのりと赤くなり、照れているのが見て取れるぐらいわかりやすい反応を見せた。

「へ?! か、かわ・・・」

 突然初対面の見ず知らずの男性からこのようなことを言われ、動揺しない人間などいないし、ましてや新手のナンパか何かと勘違いされかねない事をさらりと言ってしまったことに不安を感じる。

「あら、栞菜ちゃん、もう平気なの?!」

 お客さんの姿を確認するや否や、千鶴さんがそう話しかけてきたので、やはりこの女性が一カ月前に交通事故(居眠り運転らしい)で肋骨2本も骨折した女性らしいという事はわかった。

「あ、はい。その節はお世話になり・・・」

「まてまて、無理はするな」

 軽やかな動作でお辞儀をしようとする女性に、俺は思わず肝が冷え、慌てて制止した。

 完治しているのかもしれないが、それにしても大怪我であったことは間違いないのだから、少しは自分の体を労わってほしいものだ。

「え?!」

「まだ1カ月だろう、お辞儀したら負担にならないか? 体に」

 慌てて制止したのが良くなかったのか、怪訝そうな顔を向ける彼女だったが、こちらの意図をすぐに察してくれたらしく、カウンター席の椅子を引き、座るように促すとそこにすんなりと腰かけてくれた。

 自分でも過剰反応かな? とも思ったのがら、気を付けることに越したことないだろうと思った。

 その後、マスターである刀祢さんが彼女にちょっかいをかけようとしたのが、なぜだか妙に嫌だと感じ、仕事をするように促したりして戻ってくれば。

「いただいてます」

「頂いてます?」

 なぜか彼女が俺に向かってティーカップを掲げそう言葉を投げかけるので、何の話だ?と小首をかしげ千鶴さんのほうを見れば、慌てて目をそらされた。

「さぁ、仕事しましょ・・・・」

「ちょっと待てそこの人妻」

「いやぁん、刀祢さん助けてぇ」

「彼女が飲んでるのは何だ?」

 なんとなく漂ってくる香りで察しはついたが、あえて聞かなければと思い、逃げようとする千鶴さんの肩を掴んで問いただす。

「それはほらぁ、完治祝いみたいな?」

「はぁ・・・・もう良いです。仕事してください」

 呆れてものも言えないとはこの事だろう。

 逃げる様に厨房へと行く千鶴さんを放置し、彼女の前に立つ。

 カウンター席は、お客様と店員の距離が割と近いため、真正面に向き合うことはすぐにできた。

「あの、勝手に頂いてしま・・・なんですか?」

「少し待ってて」

 彼女の謝罪を遮り、待っているように促した。

 千鶴さんがいなくなったので、ポットを温め、ティーカップを熱湯につける、その間に茶葉を取り出し、ポットを熱湯から上げて布巾で水滴を拭いた後、茶葉を入れ、熱湯を入れて蒸らす。

「ごめんね、あの人適当だから」

「えっと・・・どういう事です?」

「あ、ごめんね、説明不足過ぎるね。今お茶ちゃんとしたの入れなおすから、ちょっと待ってね」

「そ、そんな良いですよぉ。これ十分美味しいですし」

 彼女の本心なのだろうが、どうしても俺のプライドがそれを許さず、彼女の言葉を無視して紅茶が蒸れたことを感覚で感じ取ると、彼女の前に空のティーカップを置き、そこにポットから琥珀色の液体を注ぐ。

 液体がティーカップの縁をなぞるようにクルリと回るようにしてカップを満たしていく、それと同時に茶葉の香りが鼻をくすぐるように広がる。

 まるで早送りで花がパーと咲き誇るかのように、香りが彼女と自分の周りを包み込む。

「わぁ、良い香り」

「どうぞ」

「・・・ありがとうございます」

 この時の彼女の笑顔は、初夏の青空と入道雲の白さの中に咲くひまわりの様にまぶしくて、心から喜んで笑顔になっているのだと分かるぐらいに、その笑顔に引き込まれ。

(綺麗だなぁ)

 と思ったと同時に脳裏に焼き付いて離れなかった。

「そうだ、失礼しました。俺は、坂下 栄治です」

「私、島谷 栞菜です。よろしくお願いしますね」

 この日を、俺は忘れることはないだろうと、なぜかこの日直感的にそう思った。

 そう思う事に違和感もなく、なぜかすんなりとそれが受け入れられたのは、もしかしたら彼女のこの花の咲くような笑顔を見たからなのかもしれない。

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