第1章 第4話「結界の外」
春の光が、結界の向こうから風に乗って届いていた。
森の奥深くにある巫女の館。そのさらに奥、リセリアとカシアン、そしてイリスが暮らす小さな家の庭には、白い花が一面に咲いていた。
「今日はいい天気だね」
カシアンが薪を割る手を止め、額の汗をぬぐう。
イリスは、花の間をとことこと歩きながら、何かに耳を澄ましていた。
小鳥のさえずりでもない。風の音でもない。
「……なんの、声……?」
彼女はひとりごとのようにそう言って、首をかしげた。
リセリアは家の中で煮込み薬草の準備をしていた。
その日は、親友ネリアが珍しく訪ねてきてくれていた。
かつてともに巫女の学びを受けた仲。今は限られた者しか立ち入れない聖域の外縁で、そっと支えるように生きている。
「久しぶりね、イリス」
ネリアが微笑みながら近づくと、イリスはぱっと顔を上げた。
「ねえ、ネリアおばさま。……あのね、あっちから声が聞こえるの」
ネリアは少し眉をひそめた。
「どこから?」
イリスは森の奥、結界のぎりぎりに咲く白い野花を指差した。
「光の向こう。だれかが呼んでる気がするの」
子ども特有の想像だと、ネリアは思った。けれど、どこか言い知れぬ違和感が胸をかすめた。
「お庭の中で遊んでいなさいね。森には入らないように」
「うん」と返事をしたイリスだったが、その瞳は花の向こうの何かを捉えていた。
リセリアとネリアは家の中で薬湯の仕上げをしていた。
「……イリス、最近どう?」
ネリアが静かに尋ねた。
「夢を見るみたい。言葉にできないけれど、夜中に泣いたり、笑ったり……それに、手が勝手に動くこともあるの。光に引かれるように」
「目覚めが近いのね」
「そう。だから、怖くて……でも、選ばせてあげたい。私とは違う生き方を」
ふと、風が強く吹いた。
小さな家の戸口が、ぎい、と鳴ってわずかに開いた。
リセリアは胸騒ぎを覚え、庭に目を向けた。
——イリスの姿が、なかった。
「イリス……!?」
リセリアとネリアは、ほとんど同時に外へ飛び出した。
野花の向こう、風にそよぐ木々の間——結界の境界に、かすかに揺れる気配が残っていた。
*
イリスは、音のない光の中を歩いていた。
足元には、白い花びらが流れるように落ちている。
どこまでも静かで、どこまでも透明な空気だった。
「こっち、こっちだよ」
声が聞こえた。
振り向くと、金色の羽をした何かが宙を舞っていた。
人のようで、人ではない。けれど恐くなかった。
「あなた、だれ?」
「わたしは風のはしっこ。ひかりのひとしずく」
「ふしぎ……」
「あなたのなかに、すごいものがある。おおきな、おおきな祈り」
「わたしのなかに……?」
妖精のような存在は、笑った。
「もうすぐ出てくる。でもね、今はまだ、そのままでいいの。忘れていいの」
イリスは目を細めて、手を伸ばした。
その瞬間。
——どろり。
空気が変わった。
「……なに?」
川の音が聞こえる。
けれど、それは清らかなせせらぎではなかった。
重く、濁り、底から何かが這い出すような音。
ふと足元を見ると、地面が水に変わっていた。
黒い影が、足元から伸びて、イリスの足を掴んだ。
「……いたいっ」
影はひやりとして、骨のような感触を持っていた。
妖精は声を上げた。
「にげて! そこにはいっちゃだめ!」
けれど遅かった。
イリスの身体は、ずぶりと水の中に引き込まれた。
川の中。
視界が回る。冷たい。苦しい。息ができない。
耳元で、何かが囁いていた。
低く、濁った声。
「——おまえは、鍵」
「——おまえは、扉を開ける者」
イリスは叫ぼうとした。けれど声にならない。
その時。
まばゆい光が、視界の端から差し込んできた。
祈りの光だった。
結界の力。母の祈りが届いたのだ。
イリスの身体が、水面からふわりと浮かび上がる。
影は焼けるように消え、霧のように溶けた。
母の腕に抱きかかえられた瞬間、イリスはようやく息を吐いた。
「ママ……こわかった……こえが、いっぱい……」
リセリアは言葉を失い、ただ娘を抱きしめた。
「もう、大丈夫。もう……離さないから」
ネリアが祈祷の札を結界に埋め、川の周囲に二重の封印を施した。
水はすでに静かだったが、残留した“気”はまだ漂っていた。
「これは……ただの川じゃない」
「ええ。土地の傷が、染み出してる」
「イリスの力が呼び水になったのかも」
「……いずれ、この子は、すべてを思い出す」
「その時、自分で選べるようにしてあげたい」
その夜。
イリスは高い熱を出した。
苦しそうに何度も寝返りを打ち、夢の中で泣いていた。
そして、深夜。
彼女はふと静かになり、まぶたの裏に、あの金の羽の存在を見た。
「またね。あなたが、選べるようになったら——わたし、ちゃんと戻ってくるから」
その言葉が風に消えたとき、イリスの心の奥に何かが静かに沈んだ。
翌朝。
イリスは目を覚まし、弱々しく微笑んだ。
「……おそと、もういかない。こわいの、いた」
リセリアは微笑みながら、額に手を当てる。
「しばらくは、ここで静かに過ごしましょう」
その数日後。
森に異変が起きる。風の音が変わり、動物たちが騒ぎ出した。
そして、あの“声”が再びイリスの夢に届く。
——おまえは、鍵。
——眠りを破る者。
静かだった村に、不穏な気配が忍び寄っていた。
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