暁に祈る花(あかつきにいのるはな)

@shibakei

第1章 第1話「神託の子」

——世界を救うと語られた者は多い。

——だが、世界を“選び直した”者の記録は、ひとつしかない。



リュミエル大陸——八つの王国と、数え切れぬ祈りの地が広がるこの世界には、ひとつの古い神話がある。


「神の涙が地に落ち、八つの王が目覚めし時、

 その中心に、名もなき祈りが生まれる。

 それは神の子ではなく、人の選択によって生まれる命——」


それは、誰にも信じられていない古い神託だった。

だが、それがひとつの命として芽吹いた瞬間が、確かにあった。


その子が生まれたのは、セルティア聖域国。

鎖国された、祈りと封印の国。

巫女たちが代々力を継ぎ、神託を受け、世界の均衡を見守ると言われる小国。


その中でも、夜明けの風が冷たく吹いた日、ひとりの巫女が、命を産んだ。

彼女の名は、リセリア。巫女の中でも特異な力を持ち、若くして「三指の巫女」と呼ばれた存在だった。


本来、巫女は子を持たぬ定め。

力は血とともに流れ、子を産めば自身の力が削がれていく。

それでも、彼女は選んだ。外の男と結ばれ、命を宿した。

愛と引き換えに、国の庇護と役目を手放す覚悟を。


その男の名は、カシアン。

ヴァルシア王国の王の婚外子として生まれたが、王宮では冷遇され、早くから医師を志して国を出た。

学びの地・アルメオで出会ったリセリアと、短い旅の中で互いを見つけ、交わし、約束した。

「あなたが迎えに来るなら、私はすべてを手放す」——リセリアは笑って言った。


生まれた子は、イリスと名づけられた。


イリスが育ったのは、結界の中。

聖域の巫女の子として、村の奥深くに静かに暮らしていた。

目に見えぬ霧が、彼女を守っていた。


「毎朝、祈りと封印を解く風を受けなければ、この地には闇が忍び込む」

リセリアの声が、祈祷とともに彼女を包んでいた。


村では妖精がささやき、川辺には花が舞った。

だが、イリスの瞳の奥には、時折、誰も知らぬ光が灯った。

未来をかすかに映す、断片のような視線。


三歳の春。

それは、ほんの一瞬のすれ違いだった。

イリスはふらりと、封印の結界を越えた。

手を引いたのは、小さな光の妖精だったかもしれない。


——その先に待っていたのは、川だった。


「ここ、知ってる……」


そう呟いたイリスの足が滑り、濡れた苔にとられ、川へと引きずられる。

水中には、見たことのない“黒”が揺れていた。

何かが、彼女の中に手を伸ばしてきた。

魂ごと引きずり込もうとする、見えざる手。


「——イリス!」


母の声。

母の祈り。

その声が、彼女を引き戻した。


その夜、リセリアはイリスを抱きしめて泣いた。

そして決意した。

この子は、ここでは生きていけない。

力を持ちすぎた——自分に似すぎた娘。

このままでは、あの国の鳥かごに閉じ込められる。


「封じましょう」

そう言ったのは、

かつての親友ネリアだった。

巫女の中で唯一、リセリアの秘密を知り、密かに手を貸すことを選んだ者。


封印の儀は、静かに行われた。

祈りとともに、光がイリスの額を包み、力は彼女の奥深くへと沈んでいった。


「この力は、いずれ目覚める。でも……その時まで、あの子には、自由でいてほしい」


それがリセリアの、祈りだった。


こうして、イリスは力を忘れた。

悪夢を、ぼんやりとした夢として押しやり、幼い日々を再び過ごすことになる。


その直後、リセリアとカシアンは、イリスを連れてセルティアを出た。

巫女国家を脱し、カシアンが過ごした第二の故郷、アルメオ自治領の山村へ。


それは、平和のはじまりであり——

同時に、もう戻れない日々への別れでもあった。


村に着いたその日、イリスはふと、母の腕の中で首をかしげた。

目を細めるように空を見つめ、ぽつりとつぶやく。


「ママ、このかぜ……しってる、きがする」


リセリアは驚いたように娘の顔を見て、そっと頬をなでた。

そして、柔らかく微笑む。


「そうね。きっと、イリスの“たいせつ”が、この風にのってるのかもね」


イリスはそのまま、母の胸に顔をうずめて、眠りについた。


——そしてその夜。

イリスは、母が昔よく歌っていた子守唄を、なぜか夢の中で聞いた。

それは、まだ知らぬ「過去」へと続く扉。

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