天乃川高校声劇同好会(おむにばす)
伏見翔流
第1話・雨降る鈍空にミモザは咲く
部活終わりの帰り道、目を見張るほどの大雨に立ち止まっていた俺は、自分が傘を持ってこなかった事、折りたたみ傘を携帯していなかったことに猛烈に後悔していた。降水確率は40%と聴いていたから、走れば家まで着けるだろうとばかり思っていた。それが甘かった。
「あちゃあ…」
右手を伸ばしている。冷え切った雨粒のひとつひとつが、右手の平に重力を持って着地する。ツンとした冷たさを感じる。
「迎えに来てもらおっかな…」
俺はスマホを取り出し、姉の
「そうだった…。今日は夜までバイトだった…」
夜までバイトと言った日は、早くても七時はすぎてしまう。そんな長く待ってられるわけがない。こうなると、もう俺に手段はない。
「詰んだなこりゃ…」
こうしている間にも、雨は音を荒げながら、雫を地面に叩きつけ、白く踊らせる。電線やソテツはゆらゆらと、手招きのように揺れている。
「しゃぁねぇな。しばらく待つか…」
これ以上なす術がないと思った俺は、下駄箱に戻ることにした。
下駄箱には誰もいなかったが、外が使えないことで室内での運動をするサッカー部やチアリーディング部がいた。
俺はその人たちを横目に、下駄箱の近くに座り込むと、鞄から本を取り出した。読むのは、最近気になっている『西の魔女が死んだ』。図書室で見つけ、表紙に目を奪われて衝動借りしたものだった。
雨音と人の声が混じる空間、俺はページをめくった。これから俺は、この物語に巻き込まれる観光客となる。そう思うといつも、活字を追うたびに胸が躍った。これだから、読書っていうのはやめられない。
するすると文字を追いながら、俺は物語の世界に飲み込まれていった。
「あれ?
何ページか進めていた時、この声で俺は現実に一度戻された。顔を上げると、そこには靴を持った同じ学年の
声劇部・
「あ、舞衣子」
「なにしてるの?誰か待ってるの?」
「いや、雨がひどくて帰れなくてね…」
「傘はどうしたの?」
「持ち忘れた。全く、俺ってやつはなぁ」
俺のセリフに、舞衣子はふぅんと返した。
舞衣子は左手に傘を持っていた。黄色の傘で、柄のところは黒い。まだ使って時間が経っていないからか、それとも大切に使ってきたからか、結構綺麗だった。
「この大雨、あとどのくらいで止むかなぁ…?」
「どうだろうね。今のところ止む気配はなさそうだよね…」
俺と舞衣子は外を眺めていた。雨は相変わらず勢いをつけたままだった。
「…私のでよければ、入る?」
ふと舞衣子が、俺にさらっと言った。
「…え?」
「このまま待つのも気が遠いし、私でよければ、入れてあげるよ」
そう言って、俺にあの傘を差し出していた。
「えっ、いいの?その…、人の目が…」
「えぇ?私は大丈夫だよ」
舞衣子は何も気にしないよと、その目をぱっちり開けて言った。ころんとした瞳が、なんとも可愛らしい。
「じゃあ…、お邪魔するよ」
俺はページに栞を挟み、本を鞄にしまうと舞衣子に並んで立ち上がった。
「じゃあ、失礼するね。狭くなってごめん」
「いいよ。いらっしゃ〜い」
俺は出来るだけ狭くならないように、大きく広がった舞衣子の傘に入った。黄色い傘は広がると、鮮やかに咲き広がるミモザがデザインされていた。
傘の上を雨が跳ねる。パツパツパツという音が、周りの音をかき消していく。
「ひどい雨だね」
「そうだね。玲司くんってどっち行くっけ?」
「このまま真っ直ぐ。三個目の信号すぎるまでは舞衣子と一緒なはず」
「分かった。じゃあそこまで行こっか」
「ごめんね。歩きにくくなるけど…」
「いいのいいの。じゃ、出発〜」
そして俺たちは、土砂降りの中を相合傘で進み出した。
一つの傘に、二人が並んでいる。俺は敢えて車道側に立った。傘に入れてもらっている身なんだ。それならば、せめて俺は車が跳ねさせる飛沫から舞衣子を守る壁にでもならなきゃ。なんて思った。
「大丈夫?狭くない?」
「俺は平気。てか、それ俺のセリフだなぁ」
「私は大丈夫だって。ね?」
大丈夫、大丈夫。さっきからそればっかりだ。まだ俺は、これが我慢のセリフなのか本気で思っているのかは分からない。でも、舞衣子の顔は、いつもと同じだ。
街はびしゃびしゃと大雨に濡れ、コンクリの道も水溜り同士が連結して大きな水溜りとなる。水路は濁流となってゴミや木の葉などをずるずると飲み込んでいく。
俺は歩きながら舞衣子を見ていた。雨の空気で悴む手に吐息を当てている。
「傘、代わりに持とうか?」
何を思ったか、こんなセリフを口にしていた。
「え?大丈夫だよ?」
「いや、いいよ。重いだろ?」
「いいの?じゃあ、はい」
舞衣子から傘を受け取ると、俺は両手で傘の柄を握り、舞衣子の方に傾けた。傘に当たらなくなった俺の肩に水滴が乗る。
「声劇部、楽しんでくれてる?」
しばらく続いた沈黙を塗り替えるように、舞衣子が俺に訊ねてきた。
「うん。いつも賑やかでいいと思うな」
「よかった!御多花ちゃんとか梨音くんとは会話することあるけど、玲司くんとはあんまりなかったから、どう思ってるのか気になっててね」
「そうなんだ。ありがとう。楽しめてるよ」
照れ臭さとか、単純なボキャブラリーの少なさもあって、こんなありきたりな言葉しか出てこなかったが、舞衣子はニコニコでよかった。
「私ね、思ってることがあるんだ」
「何?」
「玲司くんが来てから、明らかにこの未完声は賑やかになったなって。もちろん、それ以前もよかったんだけど、やっぱり玲司くんが来てから、はっきりと変わったんだ」
舞衣子は優しく笑いながら、俺にそう言った。
そんな風に思ってくれていたなんて知らなかった俺は、反応に困った。こういう時は素直に喜んだほうがいいのか、どうすればいいのか。まだ分からない俺は、頷くことしかできなかった。
「俺は、未完声に入るまでは帰宅部だったんだ」
「あぁ、そういえば梨音くん言ってたなぁ」
「そうそう。それで、特別変わり映えのしない日常を生きてたけど、この部活に入ってからそれが変わった。少なくとも、退屈しなくなったかな」
「そっか…。それなら、私は嬉しいな」
そう言った舞衣子は、赤ん坊みたいに、頬を赤らめているように見えた。でもそれはもしかしたら、俺も同じなのかもしれない。言い終えてから気がついたことだが、このセリフは全て、俺の腹の底から湧いた言葉だったから。
「…なんか、恥ずいな。こんなはっきり言うの…」
「ね。でも言えちゃったね。何でだろうね」
子供みたいに言う舞衣子。こうやって他愛のないやり取りをしても、雨は変わらず降り続く。
しばらくこの雨を歩き続け、一つ目の信号に辿り着いた。ほんの数メートルしか歩いていないはずなのに、長く感じたのはなぜだろう。
信号は、ちょうど青だった。
「重くない?代ろっか?」
「大丈夫。そのまま行こう」
肩に雨は積もる。スカートの端にも雨粒はしがみついている。ひとつ息を、いつまで降るんだろうなという気持ちと共に鈍色の空に放った。
二つ目の信号にやって来た。信号は赤色で、車が行き交い飛沫が跳ねていた。
「待ってる間に聞くけど、次の台本、何がいいかな?」
信号を見ていた時、舞衣子がそう言った。
「台本?そうだなぁ…。この前は異世界ものやったし…」
「久しぶりに御多花ちゃんが書いたって聞いた時はびっくりしたな〜!しかも汐恩ちゃんも一緒だったなんてね!」
「うん。まさか汐恩も書けるなんてね」
「汐恩ちゃんはよく書くんだよ」
「舞衣子は書かないの?」
「わ、私は…、書くとデータが消えるから…」
「あっ、そうなんすか…」
「だって機械に弱いんだもん!許してよ〜!」
舞衣子が子供みたいな言い訳をする。部長という肩書きとは思えないこの特徴、可愛らしい。
「そういうことがあって、台本は御多花ちゃんが書いたり、フリーのを使ったりしてたんだ」
「なるほどね」
「でも、玲司くんも書けそうじゃない?玲司くん本読んでるから、語彙力高そう!」
「うーん…。どうなんだろうなぁ…。語彙力があったとしてもユーモアはないからなぁ…」
「普段は誰を読んでるの?」
「誰、ってわけもないけど。一番よく読むのは映画ノベライズの『ミステリと言う勿れ』かな」
「え!?『ミステリと言う勿れ』知ってるの!?」
「うん!ドラマが面白くてね」
「私も菅田将暉さんが好きで観てたの!」
まさかの共通点に、俺たちのテンションは降り注ぐ雨よりも勢いを増した。話が進むうちに、関係ない方向にも枝が伸び、雨の寒さも傘の重さも、すっかり麻痺していた。そしてこれまで以上に、会話が鮮度を持って弾んでいた。
先ほどまでの道のりが嘘だったように、三つ目の最後の信号についてしまった。信号は最初と一緒で、青になっていた。
俺はこのまま渡り切るつもりだった。そのつもりで足を進めようとした。
しかし、舞衣子はその足をピタリと止めた。
「あれ?舞衣子?どうしたの?」
俺が舞衣子の方を見ると、舞衣子は笑みを浮かべながらも、少し切なそうな顔をしていた。まるで何かを、惜しんでいるような顔。
「提案なんだけどさ」
そういうと舞衣子は傘の柄を掴み、俺を引き留めた。
その瞬間、信号はパチパチと瞬きし始め、やがて赤色に変わった。
「もう少しだけ、話そ?」
「え?何で」
「いや。何と言うか、せっかく盛り上がってきたところだし。もったいないなって」
舞衣子はそう言うと、俺の顔を見た。その表情を見た俺は、自分の鼓動が音を立てる瞬間を初めてこの身体で確認した。
「うん。わかった」
俺がそう言うと、舞衣子は照れながらも、嬉しそうに笑っていた。
それから俺たちは、信号が青になるまで会話を温め、盛り上がった。
信号が青になっても、俺たちは会話を続けた。そして無意識に、歩幅を小さくしていた。
部活終わりの帰り道、目を見張るほどの大雨に立ち止まっていた俺は、自分が傘を持ってこなかった事、折りたたみ傘を携帯していなかったことを猛烈に後悔していた。
けれど、もうその後悔は雨に流れた。
ミモザが咲いた傘の下で、新しい出会いを果たせたから。またひとつ、仲を深められたから。
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