第六章 口実

口実1


 車輪が小石を踏み、馬車の内部がわずかに揺れた。窓から入り込む風が、セイリアの首筋を掠め、彼女はそっと本を閉じた。


 車輪が小石を踏み、馬車の内部がわずかに揺れた。窓から入り込む風が、セイリアの首筋を掠め、彼女はそっと本を閉じた。布装丁の表紙には金糸の文字で詩集のタイトルが綴られている。


 馬車は緩やかな坂道を登り、やがて灰色の石壁が見えてきた。グデナ砦。霧の帳に包まれながらも、その古びた姿は確かに周囲を睥睨していた。


 彼女が向かうのはこの先にあるデパール、そしてヴィグラン家のデパール領主夫人リーシアのもとだった。


 セイリアは使命感を持って今回の旅に出かけていた。剣を握ることに誇りを持ち、力を信じる者たち。ヴィグランも、ダースケンも。血と名誉、古い誓約と報復。その鎖の中でしか息ができない人々。彼女は、その鎖を断ち切るために動いたのだ。


 セイリアは本を横に置き、手紙を手に取った。それはヴィグラン家のリーシアからの手紙だった。 

  

 両家の間にあるわだかまりを嘆いた文面、その溝を埋めるために二人で協力しましょうという強い気持ち。


 会って交流すれば両家の溝は埋められるかもしれない。少なくとも架け橋にはなる。セイリアはリーシアとの交流を心待ちにしていた。



 馬車はグデナ砦の影を過ぎ、森の縁を進んでいく。霧の向こうに陽が差し始め、馬車の屋根に淡く光が落ちた。


 森を少し進んだところで馬車は突然、きしむような音とともに急停止した。前輪が何かに乗り上げたような衝撃があり、セイリアは体を小さく揺らす。御者の声も、護衛の声もなかった。ただ不気味な静寂が訪れ、森の木々がざわめくように葉を揺らした。


「……何かあったの?」


 セイリアは思わず窓を開けた。冷えた風が頬を撫で、鳥の鳴き声すら聞こえない森の奥が目に映る。警戒が喉元にまでこみあげるような沈黙。御者席をのぞいても、誰の姿もなかった。


 胸に走る不安を押し隠すようにして、彼女は慎重にドアを開けた。革靴のかかとが、しっとりと濡れた苔を踏む。


 森の中は薄暗く、まばらに差す陽光が、葉の隙間から地面を斑に照らしていた。馬車を囲むように何人かの護衛がいた――いた、はずだった。


 外は誰一人いなかった。馬車を引いていた御者すらも。


 代わりにあったのは死体だった。


 頬に土がつき、目を見開いたまま、仰向けに倒れている。


 彼女は息を飲んだ。反射的に後ずさりながら、あたりを見渡す。他の護衛たちも同じだった。ひとりは喉を裂かれ、ひとりは木にもたれかかるように崩れていた。


 音すらなかった。まるで芝居の第二幕が始まり、舞台が一新されたようだ。


「……一体……」


 風がぴたりと止まったように感じられた。全てが押し殺されたような沈黙の中。森の空気は重く、湿っていて肌にまとわりつくようだった。


 セイリアは一歩、二歩と慎重に馬車から離れる。視線は死体を越え、茂みの奥へと注がれている。全身が見えない毒気に包まれたように緊張していた。


「……誰か、いるの……?」


 返事はなかった。ただ、風に乗って微かに葉の擦れる音が聞こえた。その瞬間――。


 木陰から、黒い影が音もなく飛び出した。セイリアが気づいたときには、もう遅かった。


「――っ!」


 鈍い衝撃が腹部を貫いた。息を飲む間もなかった。冷たい鉄の感触が内臓をかき乱すように侵入し、次の瞬間には灼けるような痛みが全身を駆け抜ける。


 セイリアは、見開いた目で男を見つめた。顔の下半分を覆う黒布、無表情な目。見覚えが――ある。カルゼの側近のひとりだ。


「……あ、な……ぜ……?」


「しー、しー」


 口の前に指を翳す男。彼はセイリアの口を手で押さえると突き刺した剣をさらに深く――臓腑の奥底まで、容赦なく押し込んだ。


 男は一度も目をそらさなかった。迷いも、怒りも、憐れみもない。ただ任務を果たす者の無慈悲な静けさをその瞳にたたえていた。


 セイリアの体は力を失い、地面に崩れ落ちた。口元を押さえる手が離れ、呼吸が荒く漏れる。


 そういう事……。セイリアの目から涙がひとすじ、頬を伝った。痛みだけではなかった。裏切りの痛みだ。


(目を閉じてはだめ……私の死は……両家の溝を更に深めてしまう……あの人の思い通りに……)


 セイリアの瞳は、非情にもゆっくりと閉じていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る