まだ見えるうちに

奈良まさや

第1話

タイトル:「まだ見えるうちに」


「おじゃましまーす……って、いいのかな、ほんとに」


靴を脱ぎながら、明は何度も振り返る。部屋の主――紗季は、いつものように笑った。


「ダメだったら、エレベーターで止めてるって」


東京での大学同期飲み会のあと、タクシーで一緒に降りたワンメーター先のこの部屋。あのときの酔いが、現実味を失わせる。


紗季は部屋に入ると、左手――義手で上着を脱いだ。


「うわ……ほんとに、来ちゃったな」


「やだな、そういう言い方」


彼女は笑ったが、その微笑みに、どこか揺れがあった。



明の視線が、テーブルの上に置かれたマグカップを追う。だが、細かな文字が読めない。


「それ、見えてる?」


紗季が唐突に聞いた。明は一瞬、はっとする。


「え? 何が?」


「マグ。大学の部活の記念品。文字、つぶれてるでしょ?」

「記念だから見えるうちにみといてね」


明は、ごまかすように目を細めた。


「……最近、ちょっと見づらくなってきたんだよね。まあ、疲れ目っていうか」


紗季は黙った。明の視線は、彼女の右足――義足であることがわかるようなシルエットに、一瞬止まり、すぐ逸らした。



《脳内会議スタート》


👩‍🦱《おばちゃん》「言っちゃいな。網膜剥離。いつか失明するかもなんて、隠してもバレるよ」


👦《高校生の明》「いや、怖いんだよ……言ったら、紗季が引くだろ。彼女だって、事故で……あんな思いして……」


👩‍🦱「だからこそよ。似たような傷を持つ者同士って、深く結びつけるの」


👦「それって、同情でつながるってこと? 俺はそういうの、望んでない」


👩‍🦱「あんた、ほんとに高校生? 夢ばっか見てんじゃないよ。現実見な」


👦「じゃあ聞くけどさ、おばちゃん。もし紗季が、俺の目が悪くなるからって“断ってきた”ら、俺はそれでも納得しなきゃダメ?」


👩‍🦱「あんたが本気なら、そこで終わりじゃない。そこで、始まるのよ」


明の脳内会議は、天使と悪魔ではなく、おばちゃんとヤンキー高校生だ。 

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