【第46話】月光の雫と、王の焦燥

 南の渓谷から、月光花の露が溶け込んでいるかもしれない、という渓流の水が、私の工房に届けられたのは、それから、わずか五日後のことだった。

 リアンが、国の最速の伝令部隊を、総動員した結果だった。

 銀色の、特殊な水筒に、厳重に封をされた、その水。

 私は、その水筒を、まるで、聖遺物でも受け取るかのように、慎重に、受け取った。


「……どうだ、ルシエル。……分かるか?」

 私の隣で、リアンが、固唾を飲んで、見守っている。

 彼の焦燥は、無理もない。竜翼侯爵は、未だ、王都でのうのうと暮らし、リアンと私の動向を、探り続けている。一刻も早く、私の記憶を完全なものとし、奴を断罪しなければならない。

 私は、頷くと、水筒の栓を、ゆっくりと、開けた。


 ふわり、と。

 今まで、嗅いだことのない、清らかで、そして、どこか、夜の静けさを思わせるような、幻想的な香りが、立ち上った。

 それは、ジャスミンのようであり、月の光そのものを、香りにしたかのような、甘く、冷たい香り。

「……間違いないわ」

 私は、確信を持って、呟いた。

「この水には、確かに、?月光花?の成分が、含まれている。……ごく、微量だけれど」

「本当か!」

 リアンの顔が、ぱっと、輝く。

「ああ。……だが、このままでは、使えないわ。この、膨大な水の中から、有効成分だけを、抽出し、凝縮させる必要がある。……途方もなく、時間と、集中力を要する、繊細な作業よ」

「……どれくらい、かかる」

「……三日。三日三晩、不眠不休で、作業に没頭できれば、あるいは」

 私の言葉に、リアンは、顔を曇らせた。

「……駄目だ。君の体が、持たない。ただでさえ、君は、まだ、本調子ではないというのに」

「でも、やるしかないわ。私たちの、未来のために」

 私の、揺るぎない決意を込めた瞳に、リアンは、ぐっと、言葉を詰まらせた。

 彼は、しばらく、葛藤するように、部屋の中を、歩き回っていたが、やがて、意を決したように、私の前に、立ち止まった。


「……分かった。君の、その覚悟、信じよう」

 彼は、そう言うと、私の、両肩に、その大きな手を、置いた。

「だが、条件がある」

「条件?」

「ああ。……その三日間、私も、この工房に、泊まり込む」

「え……!?」

 彼の、その、あまりにも、突拍子もない提案に、私は、絶句した。

「な、何を言っているの、リアン! あなたは、王なのよ! 政務はどうするの!?」

「宰相に、全て、任せる。幸い、北の瘴気の問題も、君のおかげで、解決の目処が立った。今、私が、三日ほど、王宮を留守にしたところで、この国は、びくともしない」

「でも……!」

「これは、決定だ」

 彼の声は、有無を言わせぬ、王の響きを持っていた。

「君が、一人で、命を削るというのなら、私も、すぐ側で、君を、見守る。……いや、支える。それが、君の、恋人であり、共犯者である、私の、務めだ」

 その、あまりにも、真摯で、そして、頑固な瞳に。

 私は、もう、何も、言うことができなかった。

 ただ、頬を、熱くしながら、こくりと、頷くことしか。


 その日から、私たちの、奇妙な、共同生活が始まった。

 私は、工房の奥にある、蒸留室に、籠りきりになった。

 巨大なガラス製の蒸留器に、渓流の水を満たし、ごく、ごく、弱い火で、ゆっくりと、温めていく。

 温度を、一度でも、上げすぎれば、月光花の、繊細な有効成分は、全て、壊れてしまう。

 私は、片時も、その場を、離れることができなかった。

 一方、リアンは、工房の長椅子を、臨時の執務机とし、宰相が運んでくる、膨大な量の、決裁書類に、目を通し始めた。

 時折、私が、疲れた顔を見せれば、彼は、どこからか、栄養価の高い、温かいスープを、持ってきてくれる。

「……飲め。君が、倒れたら、元も子もない」

 そして、私が、仮眠を取る、ほんの僅かな時間。

 彼は、私の代わりに、蒸留器の火の番を、完璧に、こなしてくれた。

 私たちは、ほとんど、言葉を、交わさない。

 だが、この、静かな工房の中で、同じ目的のために、ただ、ひたすらに、時を、共有していた。

 その、濃密な時間が、私の心を、不思議なほどの、幸福感で、満たしていく。

 彼が、いる。

 ただ、それだけの事実が、私の、限界を超えた集中力を、支えてくれていた。


 そして、運命の、三日目の夜。

 空が、白み始める、まさに、その瞬間。

 蒸留器の、先に繋がれた、小さな、ガラスの受け皿に。

 ぽたり、と。

 一滴の、まるで、月の光そのものを、凝縮したかのような、白銀色に輝く、液体が、落ちた。

 そして、また、一滴。また、一滴と。

 数時間かけて、受け皿に溜まったのは、ほんの、数ミリリットル。

 だが、それは、紛れもなく、伝説の、?月光花の雫?だった。


「……できた……」

 私は、その場に、へなへなと、座り込んだ。

 三日間の、極度の緊張と、疲労が、一気に、全身を、襲う。

「ルシエル!」

 リアンが、駆け寄り、私の体を、力強く、支える。

「……よく、やったな。……本当に、よく、頑張った」

 彼の、労いの言葉が、私の、疲弊しきった心に、温かく、染み渡る。

 私は、彼の胸に、顔をうずめながら、安堵の、息を、吐いた。

 だが、その時だった。

 工房の扉が、何の、前触れもなく、勢いよく、開かれた。

 そこに、血相を変えて、立っていたのは、侍女のエルアだった。

「へ、陛下! ルシエル様! た、大変です! 南の、調査隊から、緊急の、知らせが……!」

「何事だ。騒がしい」

「そ、それが……! 月光花の、探索の件が、隣国に、知られてしまい……! 隣国の、王子が、自ら、軍を率いて、あの渓谷を、占拠した、と……! 『月光花は、我が国の物である』と、我々の、調査隊の、引き渡しを、要求して……!」

 その、あまりにも、予期せぬ、報告に。

 リアンの、優しい恋人の顔が、一瞬にして、消え失せた。

 その瞳に、絶対零度の、?氷の王?の光が、宿る。


「……愚かな。……私のものに、手を出すとは」

 彼の、低い声が、工房の空気を、凍てつかせた。

「……どうやら、この世には、まだ、死に急ぐ者が、多いらしいな」

 私たちの、次なる戦いの火蓋は、思いもよらない場所で、切って、落とされたのだ。

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