【第40話】夜会のドレスと、背中の口づけ
竜翼侯爵家で開かれる夜会は、三日後に迫っていた。
その三日間、私とリアンは、それぞれの戦いに備えていた。
リアンは、王として、竜翼侯爵家の周辺と、第二王子派閥の動向を探らせ、万全の警備体制を整えている。
そして、私は、香薬師として、来るべき夜会で使う、二つの特別な香りの調合に、没頭していた。
一つは、〝セレスティア〟として、私が纏うための香り。
以前作った〝不動の心〟の香りを、さらに洗練させたものだ。サンダルウッドとローズマリーを基調としながら、新たに、人の嘘や悪意を見抜くと言われるアンジェリカの根の香りを加えた。そして、どんな状況でも、王のパートナーとしての気品と威厳を失わないように、〝香りの王〟と呼ばれるジャスミンを、ほんの一滴だけ。それは、私の精神を守る、見えない「盾」となる香り。
そして、もう一つ。
それは、リアンが、夜会で纏うための香り。
先日、彼のために作った「威圧の香り」とは、また違う。あの香りは、敵と対峙するための「剣」だった。だが、今回の夜会は、敵の懐に、深く潜り込むための、騙し合いの舞台だ。
必要なのは、剣ではなく、毒を塗った、甘い罠。
私は、基調として、人の心を惹きつけ、魅了する効果のある、イランイランとチュベローズという、二つの、濃厚で、官能的な花の香りを選んだ。
だが、それだけでは、ただ甘いだけの、軽薄な香りになってしまう。
そこに、私は、あえて、タバコの葉から抽出した、僅かにスモーキーで、苦みのある香りと、**レザー(革)**の、野性的で、支配的な香りを加えた。
甘く、誘惑的でありながら、その奥に、絶対的な王の威厳と、危険な色香を隠し持っている。
この香りを纏ったリアンに、逆らえる者など、誰もいないだろう。そして、彼に魅了された者は、無意識のうちに、その心の奥底にある、秘密を、漏らしてしまうかもしれない。
これは、彼が、竜翼侯爵の化けの皮を剥がすための、見えない「毒」となる香りだ。
そして、運命の夜がやってきた。
工房の奥にある、私の私室には、リアンが用意させた、夜会にふさわしい、豪奢なドレスが、何着も運び込まれていた。
その中から、私が選んだのは、夜の闇に溶け込むような、深い、深い、瑠璃色のドレスだった。
肩と背中が、大きく開いた、大胆なデザイン。だが、その布地は、星屑を散りばめたかのように、光の加減で、繊細にきらめいている。
〝セレスティア〟の、冷たい仮面に、ふさわしい一着だ。
エルアに手伝ってもらい、私は、髪を結い上げ、そして、時間をかけて、〝セレスティア〟の化粧を施していく。
鏡の中の私が、少しずつ、別人へと変わっていく。
感情のない、陶器のような肌。理知的で、人を寄せ付けない、切れ長の瞳。
最後に、うなじに、〝不動の心〟の香りを、一滴だけ。
これで、準備は、整った。
だが、一つだけ、問題があった。
ドレスの、背中。そこには、真珠でできた、小さなボタンが、うなじから腰にかけて、ずらりと、並んでいる。これは、私一人では、到底、留めることができない。
「……エルア。ごめんなさい、背中を、お願いできるかしら」
私がそう言うと、エルアは、なぜか、顔を赤らめて、首を横に振った。
「い、いえ、ルシエル様……。その、お役目は……陛下が、ご自身で、と……」
「え……?」
その時だった。
部屋の扉が、静かに開かれ、リアンが、入ってきた。
彼は、私がこの夜会のために作り上げた、〝毒の香り〟を纏い、王としての、完璧な夜会用の礼服に、身を包んでいた。その姿は、あまりにも美しく、そして、危険なほどに、色香に満ちていて、私は、思わず、息を呑んだ。
「……ルシエル」
彼は、私の、〝セレスティア〟の姿を、その金色の瞳に、まっすぐに映していた。
その瞳には、もう、以前のような動揺はなかった。あるのはただ、深く、そして、燃えるような、愛情の色だけ。
「……背中、手伝わせてくれるか」
彼の、掠れた声に、私は、何も言えずに、ただ、こくりと頷いた。
私は、鏡に向かって、背中を、彼に向ける。
鏡越しに、彼が、私のすぐ後ろに立つのが、見えた。
部屋の空気が、途端に、濃密なものになる。私の、サンダルウッドとジャスミンの香り。彼の、イランイランとレザーの香り。二つの、全く違う香りが、絡み合い、溶け合って、一つの、官能的な調べを、奏で始める。
彼の、指が。
私の、背中に、そっと、触れた。
ひやりとした、指先の感触。それなのに、触れられた場所から、炎が燃え上がるように、熱が、広がっていく。
私の肩が、びくり、と、小さく震えた。
「……すまない」
彼の、吐息混じりの声が、すぐ耳元で聞こえる。
「少し、冷たかったか」
「……ううん。大丈夫」
そう答えるのが、精一杯だった。
彼は、一つ目の、うなじのすぐ下にある、小さな真珠のボタンに、指をかける。
だが、その指は、不器用で、なかなか、ボタンを、留めることができない。
彼の、焦れたような、熱い吐息が、私の、うなじにかかる。
その、あまりにも、近い距離に、私の全身が、粟立っていく。
鏡の中で、彼と、目が合った。
その金色の瞳は、もう、欲望を、隠そうともしていなかった。
彼は、私を、食べたいのだ。今、すぐにでも、この場で、全てを、奪い尽くしてしまいたいのだと。その、剥き出しの感情が、痛いほどに、伝わってくる。
だが、彼は、必死で、その衝動を、抑えつけていた。
私の、覚悟を、尊重するために。私たちの、約束を、守るために。
その、彼の葛藤が、私には、何よりも、愛おしかった。
ようやく、最後の一つまで、ボタンを留め終えた、その時。
リアンは、私の、無防備な、背中に。
ドレスの、布地越しに、そっと、唇を、寄せた。
それは、キス、というよりも、所有の証を刻みつけるような、熱い、熱い、烙印。
「っ……!」
私は、声を上げそうになるのを、必死で、堪えた。
「……行こうか」
彼の声は、もう、いつもの、〝氷の王〟の、冷静な響きを取り戻していた。
だが、私の背中に残る、彼の唇の熱だけが、この夜会が、ただの戦いではないことを、私に、告げていた。
これは、私たちの、恋の、始まりでもあるのだ、と。
私は、彼の手を取り、頷いた。
これから向かうのは、敵の、本拠地。
だが、もう、何も、怖くはない。
だって、私の隣には、世界で、誰よりも、強く、そして、優しい、私の王が、いるのだから。
私たちは、二人で、戦場へと、向かう。
香りを、武器に。そして、愛を、盾にして。
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