【第30話】共犯者たちの、最初の作戦会議

 あの夜、リアンと「共犯者」としての誓いを交わしてから、私たちの間の空気は、明らかに変わった。

 彼が私に向ける眼差しには、以前のような、壊れ物を扱うかのような庇護の色だけでなく、対等なパートナーとしての、深い信頼の色が加わっていた。そして、私自身も、彼の前で、以前よりずっと、自然体でいられるようになっていた。

 恐怖や戸惑いが、完全に消えたわけではない。だが、それ以上に、彼と共に戦えるという、確かな高揚感が、私の心を支えてくれていた。


 翌日の午前、私は、リアンに呼ばれて、彼の執務室を訪れていた。

〝氷の王〟が、この国の全てを差配する場所。機能的で、整然とした、彼の精神そのものを表すかのような部屋だ。

 彼は、巨大な執務机の上に、一枚の大きな地図を広げていた。

「ルシエル。君の記憶の断片にあった、竜の紋章を持つ、竜翼侯爵家。そして、もう一つの候補である、獅子の紋章を持つ、獅子心公爵家。この十年間の、両家の金の流れと、当時の三男との関係性を、昨夜、私の配下に、徹底的に洗い直させた」

 彼の言葉に、私は息を呑んだ。私が眠っている間に、彼は、もう、次の手を打っていたのだ。

「……何か、分かったの?」

「ああ。極めて、興味深い事実がな」

 リアンは、地図の上に、いくつかの駒を置きながら、説明を始めた。その姿は、まるで、複雑な盤面を読み解く、チェスの名人のようだった。

「まず、獅子心公爵家。彼らは、焼き討ち事件の前後、特に不審な動きはない。三男との金の繋がりも、表向きの、ごく儀礼的なものだけだ。……おそらく、彼らは、〝白〟だろう」

「では……やはり、竜翼侯爵家が……」

「そうだ。問題は、こちらだ」

 リアンは、地図の、王都から少し離れた場所にある、広大な領地を指さした。竜翼侯爵家の領地だ。

「奴らは、焼き討ち事件の直前に、大規模な兵士の補充を行っている。公式の記録では、『近隣の蛮族からの防衛のため』とあるがな。そして、事件の直後には、出所不明の、莫大な金が、当主の懐に入っている」

「……!」

「十中八九、黒だ。三男の陰謀に加担し、実行部隊を差し向けたのは、竜翼侯爵、その男だろう。そして、これは、四男の婚約者の実家でもある。……全ての辻褄が合う」

 リアンの声は、氷のように、冷たかった。

「だが、証拠がない。十年という歳月は、金の流れを複雑にし、証人の口を永遠に閉ざさせるには、十分すぎる時間だ。奴らを断罪するには、決定的な、もう一手が必要になる」

 彼は、そう言うと、私を見つめた。

「……そして、その『一手』を、君が、持っているかもしれない」

「私が……?」

「ああ。君の、記憶だ。君があの夜、他に何かを見ていないか。聞いていないか。……君の記憶だけが、我々の、唯一の突破口になる」


 彼の言葉の重みが、私の肩にのしかかる。

 私は、ゴクリと、喉を鳴らした。

「……分かったわ。やってみる」

 私は、彼に、自分の計画を話した。

 記憶の扉を開けるための、新しい香りのこと。トラウマを刺激するのではなく、まず、穏やかで、幸福な記憶から、ゆっくりと、手繰り寄せていく、という方法を。

 私の話を聞き終えたリアンは、深く、頷いた。

「……君のやり方を、信じよう。必要なものは、何だ? `どんな材料でも、すぐに、用意させる」

「ううん、大丈夫。ここにあるもので、まずは、試してみるわ」

 私は、そう言うと、自分の工房へと、急いだ。

 私たちの、最初の「共同作戦」が、始まったのだ。


 店に戻った私は、まず、深呼吸をして、心を落ち着かせた。

(……幸福な、記憶)

 私の人生で、そう呼べる記憶は、多くはない。両親の顔も、覚えていない。学舎での生活も、決して、楽しいことばかりではなかった。

 だが、いくつか、ある。私の心を、陽だまりのように、温めてくれる、大切な思い出が。

 その一つが、学舎の図書館で、師である、初老の香薬師から、調合の基礎を学んでいた、あの時間だ。

 私は、その時の光景を、香りで、再現しようと試みた。


 まず、手に取ったのは、**〝古紙〟から抽出した、特殊な香油。文字通り、古い本の、乾いて、少しだけ甘い匂いがする。

 次に、〝革〟の香り。図書館の椅子の、使い古された革張りの感触を、思い出すために。

 そして、師匠がいつも飲んでいた、〝アールグレイ〟の紅茶の香り。ベルガモットの、爽やかで、気品のある香りだ。

 最後に、私が、いつもノートを取る時に使っていた、〝インク〟**の、僅かに金属的な匂い。


 これらの、本来なら、決して交わることのない香りを、私は、慎重に、調合していく。

 それは、風景を、香りで描く、という、極めて高度な技術だった。

 だが、今の私には、できる、という確信があった。

 リアンが、私を信じてくれている。ただそれだけの事実が、私の指先に、今まで以上の、繊細な感覚を与えてくれていた。


 数時間後。

 一滴の、琥珀色の香油が、完成した。

 私は、それを、ハンカチに染み込ませ、目を閉じて、深く、吸い込んだ。


 途端に、私の意識は、懐かしい、あの場所へと、飛んだ。

 高い天井まで続く、書架。差し込む西日によって、きらきらと光る、空気中の埃。そして、目の前で、穏やかに微笑む、師匠の、優しい笑顔。

『ルシエル。お前には、天与の才がある。……その才能を、いつか、誰かの幸福のために、使いなさい』

 温かい、記憶。涙が、頬を伝った。

 それは、トラウマを伴う、激しいフラッシュバックではない。心の傷を、優しく、癒してくれる、穏やかな、追体験だった。


「……どうだ」

 いつの間にか、リアンが、工房の入り口に立っていた。

 彼は、私が泣いているのを見て、心配そうに、眉をひそめている。

「大丈夫。……これは、悲しい涙ではないから」

 私は、微笑んで、彼に言った。

「……少しだけ、師匠に、会ってきたの」

 私の言葉の意味を、リアンは、すぐに理解したようだった。彼の顔に、安堵の色が浮かぶ。

「そうか」

 彼は、私の隣に座ると、私の涙の跡が残る、そのハンカチを、そっと手に取った。

「……懐かしい、香りがする」

「え?」

「君が、〝セレスティア〟だった頃。君の側からは、時々、これと、よく似た、インクと古い紙の匂いがした。……私の、一番、好きな香りだった」

 彼の、その言葉に。

 私は、はっとした。

 私が、無意識のうちに、再現した、幸福な記憶の香り。

 それは、彼にとってもまた、幸福な、記憶の香りだったのだ。

 私が、セレスティアとして、彼に与えていた、安らぎ。

 そして、今の私が、ルシエルとして、作り出した、安らぎ。

 二つの、バラバラだったはずの私の姿が、香りの中で、今、確かに、一つに、繋がった。


 私は、彼の顔を、見つめた。

 彼は、私のハンカチを、まるで、宝物のように、見つめている。

 その横顔が、あまりにも、愛おしくて。

 私は、気づけば、彼の頬に、そっと、手を伸ばしていた。

 そして、そのまま、吸い寄せられるように……。

 私の唇が、彼の唇に、そっと、触れた。

 それは、ほんの、一瞬の、出来事だった。

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