【第11話】氷解の調べ

「……この香りは、何だ?」

 リアンの金色の瞳が、驚きに見開かれ、まっすぐに私を見つめていた。議場での戦いの緊張を纏ったままの彼が、部屋に満ちる新しい香りに、完全に意識を奪われているのが分かった。

 その問いに、私は、少しだけ誇らしい気持ちで、けれど心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、微笑み返した。

「あなたのための、香りよ」

 私がそう言うと、リアンの瞳が、さらに大きく見開かれる。

「私の……?」

「ええ。あなたが〝氷の王〟として戦う時のための、お守りのようなものになれば、と思って」

 私は、先ほど香りを染み込ませた試香紙を、彼にそっと差し出した。リアンは、まるで聖遺物にでも触れるかのように、慎重な手つきでそれを受け取る。


 彼は、ゆっくりと試香紙を鼻に近づけ、目を閉じた。彼の長い睫毛が、白い頬に影を落とす。その姿は、まるで敬虔な祈りを捧げているかのようだった。

 私は、固唾を飲んで彼の反応を見守った。

 最初に、サイプレスとジンジャーの、凛とした冷たい香りが彼の感覚を支配するだろう。〝氷の王〟と呼ばれる、彼の外面。誰も寄せ付けない、孤高の威厳。

 だが、その奥から、ベンゾインの甘く温かい香りが、そしてオリスだけが持つ、パウダリーで優しい香りが、ゆっくりと立ち上ってくるはずだ。それは、彼の仮面の下に隠された、十年間の苦悩と、私への一途な想い。

 そして最後に、それら全てを繋ぐ架け橋として加えた、ベルガモットの僅かな苦味と優雅な香りが、彼の複雑な人格に、一つの気高い調和を与える。


 やがて、リアンはゆっくりと目を開いた。

 その金色の瞳は、驚きと、深い感動と、そして今まで私が見たことのない種類の、穏やかな光に満ちて、揺らめいていた。


「……これは……」

 彼は、言葉を失ったように、ただ試香紙と私の顔を交互に見つめている。

「どうかしら。あなたのことを考えて、調合してみたのだけれど……。まだ、試作品だけれど」

「どう、とは……。ルシエル、君は……」

 リアンは、初めて心の底からの動揺を見せた。

「君は、分かっているのか。自分が何を作ったのかを」

「え?」

「これは、まさしく〝私〟だ。私が十年かけて築き上げた、氷の鎧。そして、その鎧の下に、私自身さえも忘れかけていた、かつての……」

 彼は、そこで言葉を切った。その表情は、ひどく苦しそうで、そして同時に、救われたような、安堵の色を浮かべていた。

 私が作った香りは、彼の心の最も深い場所に、確かに届いたのだ。

 《星紡ぎの香》のような奇跡ではない。けれど、これは、私が彼を理解しようと手を伸ばし、初めて掴んだ、確かな繋がりだった。


「……ありがとう」

 彼は、もう一度、今度は心の底から絞り出すように、そう言った。

「これほどの贈り物を、私は生まれてから一度も受け取ったことがない」

 リアンは、その試香紙を、まるで聖遺遺物のように、両手でそっと握りしめた。

 その姿を見て、私の胸に温かいものが込み上げてくる。

(よかった……)

 香薬師として、これほど嬉しいことはない。そして、囚われの身である私が、この冷徹な王に対して、初めて何かを「与える」ことができた。その事実が、私に小さな自信を与えてくれた。


 彼が、ふらり、とよろめいたのは、その時だった。

「リアン!?」

 私は咄嗟に彼の腕を支える。触れた体は、鋼のように鍛え上げられているはずなのに、今はひどく消耗しているのが分かった。

「……すまない。少し、疲れただけだ」

 彼はそう言って私を安心させようとするが、その顔色は明らかに悪い。議場での戦いは、彼の精神をそれほどまでに削っていたのだ。

「座って。お茶を淹れるわ。体を温める、カモミールとリンデンの……」

「いや、いい。それよりも……」

 リアンは、私の制止を振り切り、部屋の隅にあった椅子に深く腰掛けた。そして、私を見上げると、弱々しく、しかし確かに微笑んだ。

「……その香りを、もう少し、側に置いてくれないか」

 私は頷くと、作りたての香油を、近くにあったアロマポットに数滴垂らした。蝋燭の小さな炎で温められた香油は、すぐに気化し、部屋全体を先ほどの気高い香りで満たしていく。

 リアンは、深く、深く、その香りを吸い込んだ。そして、張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくのが分かった。〝氷の王〟の仮面が完全に剥がれ落ち、そこにはただ、疲れ切った一人の青年の姿があった。


「……兄上は、昔からそうだ」

 不意に、彼がぽつり、と呟いた。

「力こそが全てだと信じている。だが、本当の力とは、武力や権力のことではない。……本当に守りたいものを、守り抜く意志のことだ。あの方には、それがない」

 それは、彼の本心からの言葉なのだろう。

「私は、あなたさえいれば、何もいらない。この国も、玉座も、本当はどうでもいい。ただ、あなたを守るために、それらが必要だった。それだけなのだ」

 初めて聞く、彼の弱音だった。王としてではなく、一人の男としての、彼の魂の叫び。

 私は、何も言えずに、ただ彼の隣に佇んでいた。

 どんな慰めの言葉も、この香りの前では無力だと分かっていたから。

 しばらくの沈黙の後、リアンは立ち上がった。その顔には、もう疲労の色はなかった。香りが、彼の心を癒し、新たな力を与えたようだった。


「ルシエル」

 彼は、まっすぐに私を見つめて言った。

「私は、間違っていた。君に、過去の再現ばかりを求めていた」

「リアン……」

「君が今、作り出したこの香りは、《星紡ぎの香》とは違う。だが、今の私にとっては、これこそが奇跡だ。……君は、私の心に触れることができる、唯一の人間だ」

 彼は、私の手を取った。

「だから、改めて、君に頼みたい。私の、力になってほしい。香薬師として、私の隣で、私を支えてはくれないか」

 それは、鳥籠の主が、鳥に与える命令ではなかった。

 一人の王が、信頼するただ一人の臣下に、その未来を託す、真摯な願いだった。

「私が〝氷の王〟として、冷徹な仮面を被って戦うなら、君には、その仮面の下の心を、その香りで守ってほしい。君は、私の唯一の聖域だ」


 その言葉に、私は、迷いなく頷いた。

「……ええ。喜んで」

 私がずっと求めていた、答え。私がこの場所で、為すべきこと。

 囚われの姫ではない。愛玩されるだけの鳥でもない。

 私は、彼の隣で戦う、ただ一人の香薬師。


 リアンは、私の返事を聞くと、満足そうに微笑んだ。そして、私の手を、そっと自分の胸元へと導く。

 そこには、先日私が渡した、安眠の香りの匂い袋が、大切にしまわれていた。

「これも、あなたのための香りよ」

 私は、今しがた完成したばかりの、〝氷の王〟のための香油が入った小さな小瓶を、彼の手のひらに乗せた。

 彼はそれを、しっかりと握りしめる。

「……ありがとう。これ以上の守り刀はない」

 彼はそう言うと、最後に私の瞳をじっと見つめ、そして静かに部屋を去っていった。

 一人残された部屋で、私は、自分の胸が高鳴っているのを感じていた。

 恐怖ではない。喜びでもない。

 それは、〝戦士〟としての、武者震いに似ていた。

 この金色の鳥籠は、今日から、私の「工房」であり、「戦場」になるのだ。

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