【第8話】氷の王を識(し)るための香り
第二王子が去った後、リアンは私を強く抱きしめていた。彼の心臓が、早鐘のように鳴っているのが伝わってくる。その腕は力強いのに、どこか震えているようにも感じられた。先ほどの、全てを凍てつかせるような〝氷の王〟の姿はそこにはない。ただ、愛する者を傷つけられそうになったことに、狼狽し、激しい怒りを内面に滾らせる一人の男がいるだけだった。
「申し訳ない。私の警備が甘かったばかりに、あなたを危険な目に……」
「だ、大丈夫……。何も……」
「いいや、大丈夫ではない。兄がこの離宮の場所を突き止めていたとは……。私の落ち度だ。二度と、このようなことはさせない」
彼はそう言うと、ゆっくりと私から体を離し、私の顔を覗き込んだ。その金色の瞳には、私を案じる色と共に、自らへの不甲斐なさを責めるような、暗い光が宿っていた。
「今日はもう休みなさい。明日からは、この離宮の警備を三倍に増やす。そして、許可なくあなたに近づく者は、たとえ王族であろうと、私が許さない」
彼の言葉は、私を守るためのものだと分かっている。けれど、それは同時に、この金色の鳥籠の格子が、さらに太く、強固になることを意味していた。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。
第二王子の、あの皮肉な笑みと「駒」という言葉が、頭から離れない。
リアンが私を隠しているのは、ただ、私を独占したいからだけではない。私の存在そのものが、彼の政敵にとって、格好の「弱点」であり、「攻撃材料」なのだ。
私は、ただの籠の中の鳥ではなかった。
私は、この国の王の、唯一のアキレス腱。
そして、それは、私が望むと望まざるとに関わらず、この国の運命さえも左右しかねない、危険な駒であるということ。
(……強く、ならなければ)
リアンに守られているだけでは、駄目だ。
いつか、私の存在が、彼の足を引っ張ることになる。
この金色の鳥籠の中で、ただ愛されるだけの存在ではいけない。
私もまた、戦わなければならないのだ。私の知識と、私の香りで。
この冷徹で、不器用で、そして誰よりも私を愛してくれる王を、今度こそ私が守るために。
リアンの腕の中で芽生えたその決意は、一人になった寝台の上で、より一層、確かな形を取り始めていた。
翌朝、朝食を運んできたエルアに、私は初めて自分から願いを口にした。
「エルア、陛下にお願いしたいことがあるの」
「はい、ルシエル様。何なりとお申し付けください」
「王宮の書庫にある、ここ十年の国の記録……特に、陛下が即位されてからの、政策や法令に関する資料を、ここへ持ってきていただくことはできるかしら」
私の意外な申し出に、エルアは目を丸くした。
「国の、記録でございますか……?」
「ええ。それから、もし許されるなら、この大陸に生息する薬草や鉱物に関する、専門的な書物も。できるだけ多く」
「かしこまりました。すぐに陛下にお伝えいたします」
エルアは戸惑いながらも、すぐにその場を辞し、リアンに報告に向かってくれた。
一時間もしないうちに、私の部屋の扉がノックされた。入ってきたのはリアン本人だった。
「……国の記録が、読みたいと聞いた」
彼の声には、意外そうな響きがあった。
「ええ。……ただ、ぼんやりと過ごしているだけでは、心も体も鈍ってしまうから。私が眠っていた十年の間に、この国がどう変わったのか、知っておきたいの」
それは、半分は本当で、半分は嘘だった。私が知りたいのは、国の変遷ではない。国を変えた、〝氷の王〟リアン、その人のことを、私は知りたいのだ。
リアンは、私の目をじっと見つめていた。その瞳の奥で、彼が何を考えているのかは分からない。やがて、彼は小さく頷いた。
「……分かった。王宮書庫の全ての資料を、お前のために開放しよう。望むものがあれば、何でもここに運ばせる」
「ありがとう、リアン」
「だが、無理はするな。お前の体は、まだ本調子ではないのだから」
彼はそう言い残すと、私の頭に一度だけ、ほんの僅かに触れるか触れないかの距離で手をかざし、そして部屋を出て行った。
その日の午後には、私のために再現された「店」は、さながら王宮の分室図書館のようになっていた。侍従たちが何往復もして運び込んだ、分厚い革表紙の年代記や、法律に関する書物、そして大陸中の植物や鉱物に関する図鑑が、床から天井まで届きそうなほどに積み上げられている。
私はその中の一冊、リアンが即位した直後の法令集を手に取った。
そこに記されていたのは、貴族たちの特権を制限し、税制を改革し、民の生活を安定させるための、合理的で、しかし一切の情けを排した、あまりにも冷徹な法律の数々だった。
(これが、〝氷の王〟……)
リラが言っていた言葉が、頭に響く。
この法律を作る時、彼の心にどんな感情があったのだろう。私に見せるような、甘い感傷は、そこには一片たりとも存在しない。
私は、彼の外面を形作る香りの構成を、もう一度見直す必要があると感じた。サイプレスやペパーミントだけでは足りない。もっと、彼の持つ「刃」のような鋭利さを表現する香り……例えば、ジンジャーの根茎が持つ、スパイシーで突き刺すような刺激。あるいは、ガルバナムという樹脂が放つ、青々しくも金属的な、冷たい香り。
私は、彼の外面を表現する香りの調合を、一からやり直した。
サイプレスを基調とし、シダーウッドで王としての風格を加え、そこに、ほんの少しだけジンジャーとガルバナムを垂らす。
途端に、香りはその表情を変えた。ただ冷たいだけではない。触れれば斬られるような、鋭い緊張感をはらんだ、孤高の香り。
(……これだわ)
彼の公的な顔、〝氷の王〟としての姿が、より鮮明に香りの中に立ち上ってくる。
次に、この冷徹な仮面の下に隠された、彼の内面。
ベンゾインの甘さと、パチュリの土の匂い。これらを、どうすればこの「氷の香り」と調和させられるのか。
やはり、架け橋が必要だ。
私は、書物の中から、古代の香料に関する一冊を手に取った。そこには、忘れ去られた香料や、特殊な調合技術が記されている。ページをめくっていくと、一つの記述に目が留まった。
『オリスの根。それは、長い年月を土の中で過ごすことで、スミレの花に似た、パウダリーで、優しく、そしてどこか物悲しい香りを宿す。それは、異なる香りを繋ぎ、全体に深みと気品を与える、〝香りの女王〟である』
オリス。学舎で習った記憶がある。非常に高価で、その香りが安定するまでには、収穫してから何年もの熟成期間が必要な、幻の香料。
(これかもしれない……)
オリスの持つ、優しくパウダリーな香りは、ベンゾインの甘さと共鳴し、パチュリの土臭さを気品あるものへと昇華させてくれるかもしれない。そして、その「長い年月を土の中で過ごす」という性質が、まるで十年もの間、私を待ち続けたリアンの心を象徴しているかのようだった。
幸い、リアンが用意させた材料の中には、最高級とされるオリスの根も含まれていた。
私は、慎重にオリスを削り、その粉末を、ガラス棒の先にほんの少しだけ付けて、調合中の香りに加えた。
すると、魔法のような変化が起きた。
それまで反発し合っていた氷の香りと、内面の甘く重い香りが、オリスの柔らかな香りを介して、すっと溶け合い、一つの調和を生み出したのだ。
冷たく、厳かで、近寄りがたい。けれど、その奥には、神聖なまでの甘さと、切ないほどの温かさ、そして決して手放さないという、重い執着が隠されている。
〝氷の王〟リアン。
その人の香りが、今、私の手の中で、確かに生まれた。
まだ、完璧ではない。試作品に過ぎない。けれど、これは、私が初めて、彼を理解しようと手を伸ばし、掴んだ、確かな一歩だった。
私は、完成したばかりの香りを染み込ませた試香紙を手に、静かに目を閉じた。
この香りを、彼はどう思うだろうか。
私の作ったこの香りは、彼の心を、少しでも癒すことができるだろうか。
そんなことを考えていると、不意に、背後で扉の開く気配がした。
「……また、新しい香りを作っているのか」
声の主は、リアンだった。
私は、振り返って、彼に試香紙を差し出す。
「あなたのための、香りよ」
私の言葉に、リアンの金色の瞳が、驚いたように、わずかに見開かれた。
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