【第6話】氷の王に捧げる香り
「ありがとう、ルシエル」
彼が、初めて私を「先生」ではなく、名前で呼んだ。
その響きに、私の頬が熱くなるのを感じた。リアンは、私が差し出した安眠の香りの匂い袋を、まるで宝物のように、そっと胸元にしまった。彼の金色の瞳が、ほんの少しだけ和らいで見えるのは、気のせいではないだろう。
「……やはり、あなたは唯一無二の存在だ」
リアンは、恍惚とした表情で、しかしどこか切実な声で呟いた。
「この香り……。他のどの調香師にも、作り出せない。あなたの指だけが、魂だけが生み出せる調和だ。十年間、私が探し求めていたものは、これなのだ」
「リアン……。これは、ただの安眠香よ。特別なものでは……」
「特別でないものなど、あなたが作るものには何一つない」
彼は、私の言葉を強い力で遮った。その瞳には、再びあの熱が宿り始めている。
「だからこそ、私は信じている。あなたなら、必ず《星紡ぎの香》を、もう一度……」
彼の言葉は、懇願だった。王の命令ではなく、一人の男の、渇望に満ちた願い。その純粋さが、私を追い詰める。できない、と言えない。言えば、この束の間の穏やかな時間が、ガラスのように砕け散ってしまうのが分かっていたから。
私は曖昧に微笑んで、視線を逸らすことしかできなかった。
リアンは、そんな私の逡巡を見透かしたように、しかしそれ以上は何も言わなかった。
「……疲れただろう。今日はもうお下がリなさい。明日、あなたの望むものは、全てこの部屋に届けさせよう。必要なものがあれば、何でもエルアに」
「ええ……ありがとう」
彼は私の返事を聞くと、名残惜しそうに一度私を見つめ、そして静かに部屋を退出していった。
一人残された私は、その場に崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪えた。
彼の期待が、重い。
だが、それと同時に、先ほど彼が見せた、ほんの僅かな安らぎの表情が、私の心に小さな棘のように刺さっていた。
自室に戻り、エルアが用意してくれた夕食に手をつけても、味はよく分からなかった。
リアンの期待に応えられない苦しさと、彼を欺いているような罪悪感。そして、香薬師としての矜持。様々な感情が渦巻いて、心が休まらない。
(《星紡ぎの香》は、作れない……。あれは、奇跡だったのだから)
その事実は、どうしようもない。だが、このまま「できない」とただ時を過ごすだけでは、私は本当にただの籠の中の鳥になってしまう。彼に庇護され、愛玩されるだけの存在に。
それは、嫌だ。
私は、私の意志で、何かを為さなければならない。
(……そうだ)
ふと、一つの考えが浮かんだ。
《星紡ぎの香》が、過去の奇跡であるならば。
今の私が作るべきは、過去の再現ではない。
今のリアンのための、新しい香りを、作ってみるのはどうだろうか。
〝氷の王〟。
民のために国を立て直し、邪魔者は身内であろうと容赦なく切り捨てる、冷徹な君主。リラが語っていた、彼の姿。
だが、私の前で見せる彼は、十年の歳月を一人で耐え抜き、私の目覚めだけを願い続けた、純粋で、不器用で、そしてひどく寂しそうな青年だ。
どちらが、本当の彼なのだろう。
おそらく、どちらもが、本当の彼なのだろう。
ならば、私が作るべき香りは、その二面性を表現し、そして、彼の心を少しでも癒すことができるようなものでなければならない。
それは、途方もなく難しい挑戦だ。人の内面を香りで表現するなど、一流の香薬師でも滅多にできることではない。
けれど、今の私には、それしかできることがなかった。
それは、リアンの期待に応えるためのものではない。私自身が、香薬師ルシエルとしての自分を取り戻すための、戦いだ。
決意を固めると、心が少しだけ軽くなった。
翌日、私はエルアに頼み、再びあの「店」へと向かった。
「ルシエル様、本当に大丈夫ですか? `お顔の色が……」
「ええ。ここに来ると、落ち着くの。ありがとう」
エルアを下がらせ、私は一人、膨大な材料が並ぶ部屋の中央に立った。
《星紡ぎの香》を再現するための、狂気的なまでのコレクション。だが、今の私には、これが宝の山に見えた。
「〝氷の王〟の香り……」
私は、目を閉じて彼の姿を思い浮かべる。
まず必要なのは、彼の冷徹さと、近寄りがたいほどの威厳を表す香りだ。
棚に並んだ香料の中から、私はいくつかの候補を手に取った。
雪深い森を思わせる、**サイプレス(糸杉)**の針葉樹の香り。それは、彼の持つ厳格さと、孤高の気配を感じさせる。
あるいは、ペパーミントの突き抜けるような冷涼感。彼の判断の鋭さ、思考の明晰さを表現できるかもしれない。
そして、王としての揺ぎない威厳。それには、**シダーウッド(杉)**の、どっしりとした木の香りがふさわしいだろう。
次に、その氷のような仮面の下に隠された、彼の内面。十年間の苦悩と、ルシエルへの執着。
それには、複雑で、甘く、そして少し切ない香りが必要だ。
私は、東方の国から運ばれたという樹脂の塊を手に取った。ベンゾイン(安息香)。バニラに似た、甘く、温かみのある香りだが、どこか宗教的な神聖さも感じさせる。彼の私への想いは、信仰に近い。ならば、この香りは彼の心を表現するのに役立つはずだ。
そして、もう一つ。彼の執着の深さ、その闇の部分。それには、パチュリの、土と墨のような、重く、官能的な香りがいいかもしれない。使い方を間違えれば、全てを台無しにする危険な香りだ。だが、彼の心を表現するには、このくらいの危うさが必要な気がした。
私は、選んだ香料をガラスのビーカーの前に並べる。
これから始まるのは、答えのない問いに、香りで挑むという、無謀な試みだ。
だが、私の心は不思議と、高揚していた。
香薬師としての血が、再び滾り始めるのを感じていた。
私はまず、彼の外面である「氷の王」の側面から香りを構築し始めた。
乳鉢にサイプレスの葉を入れ、ゆっくりとすり潰していく。爽やかで、しかし凛とした、背筋が伸びるような香りが立ち上った。そこに、ほんの少しだけペパーミントの精油を垂らす。やりすぎると、香りが軽薄になってしまう。あくまで、思考の鋭さを表現するための、一滴。
シダーウッドの香油を数滴加え、全体の香りを落ち着かせ、王としての風格を与える。
(うん、悪くない……)
冷たく、厳かで、近寄りがたい。けれど、不思議な清々しさがある。〝氷の王〟と呼ばれながらも、民からは支持されているという、彼の姿が少しだけ見えた気がした。
次に、この「氷の香り」に、彼の内面を加えていく。ここからが、本当の挑戦だ。
ベンゾインの樹脂をアルコールに溶かし、その甘く神聖な香りを抽出する。パチュリの精油は、ガラス棒の先にほんの僅かだけ付け、慎重に混ぜ合わせた。
瞬間、二つの香りが激しく反発し合う。サイプレスの清廉さが、パチュリの土臭さに濁らされそうになる。ベンゾインの甘さは、ペパーミントの冷たさに打ち消されそうだ。
(……駄目ね。これじゃあ、ただの不協和音だわ)
私は、一度全ての材料を脇に置いた。
単純に混ぜ合わせるだけでは、彼の複雑な内面は表現できない。何か、これらの香りをつなぎ合わせる「架け橋」となる香りが必要だ。
それは、何だろう。彼の冷徹さと優しさ、強さと脆さ、その両方を繋ぐことができる香り……。
私が腕を組んで深く思考に沈んでいた、その時だった。
背後の扉が、ノックもなしに、静かに開かれた。
「エルア……? `何か……」
侍女が来たのだと思い、振り返った私は、そこに立つ人物を見て、息を呑んだ。
そこにいたのは、エルアではなかった。
リアンよりも少し年上に見える、がっしりとした体格の、壮麗な軍服に身を包んだ男性。夜色の髪を持つリアンとは対照的に、燃えるような赤毛が印象的だった。そして何より、その顔立ちは、リアンとどこか似通っている。
(まさか……)
彼の胸に輝く徽章は、王族、それもかなり高位の人物であることを示していた。
男性は、部屋の中を興味深そうに見回すと、私の姿を捉え、その唇に皮肉な笑みを浮かべた。
「……これは、驚いた。父王の亡霊でも見たかと思ったぞ」
彼の低い声が、部屋に響く。
「まさか、こんな場所に、十年前に死んだはずの〝聖女様〟が匿われていたとはな」
聖女様。その呼び方に、私の記憶にはない、けれど肌が粟立つような嫌な感覚が蘇る。
そして、私は悟った。
この男は、リアンの兄。
王位継承の争いで、リアンと最後まで敵対していたという、第二王子だ。
なぜ、彼がここに? `リアン以外、誰も知らないはずの、この場所に。
「弟が、骨の髄までお前に夢中なのは知っていたが……。死人まで蘇らせるとは、大した執念だ」
第二王子は、面白くてたまらない、というように目を細める。
「さて、ここで会ったが百年目。お前には、少し聞きたいことがあるんだ。あの焼き討ちの夜のこと、そして、我が弟……いや、我らが〝陛下〟が、一体何を企んでいるのかをな」
彼は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、私との距離を詰めてきた。
逃げ場のない、再現された過去の中で、私は、リアンとは違う、別の種類の王族の闇に、対峙していた。
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