【第3話】金色の鳥籠と、死んだ私
あれから、三日が過ぎた。
リアン――陛下が毎日運ばせる薬湯のおかげか、私の体は少しずつだが動くようになってきている。まだ自力で立ち上がるのは難しいけれど、寝台の上で体を起こし、侍女のエルアに手伝ってもらいながら、匙を使って食事をとれるくらいには回復した。
エルアは私とそう年の変わらない、栗色の髪をした快活な娘だった。王宮の侍女らしく、その所作は洗練されているが、時折見せる気さくな笑顔に、私は少しずつ心を許し始めていた。
「ルシエル様、本日のお召し物はこちらでいかがでしょう」
エルアが持ってきてくれたのは、空色の柔らかな生地でできた室内着だった。私が今まで着たどんな服よりも上質で、繊細な刺繍が施されている。この部屋にあるものすべてが、そうだ。何もかもが、現実離れしている。私が眠るベッドも、カーテンも、小さなテーブルさえも、私が今まで暮らしてきた世界とは別次元の、贅を凝らした一級品ばかりだった。
「ありがとう、エルア」
着替えを手伝ってもらいながら、私は窓の外に目を向けた。手入れの行き届いた広大な庭園が見える。色とりどりの花々が咲き乱れ、小さな噴水がきらきらと陽光を反射している。美しい。あまりにも美しいが、それはまるで、鳥籠の中から眺める景色のようだった。外に出たい、と願っても、この体では庭を半歩も歩けないだろう。
ここは、私の居場所ではない。
そう思うのに、体の自由が利かない以上、リアンの庇護下から逃れる術はない。
彼が時折見せる、あの焼け付くような眼差しを思い出すと、背筋が冷たくなる。あれは、かつての教え子のものではなかった。私という存在を、彼の所有物として確認するような、絶対的な支配者の瞳だ。
その日の午後、侍女に支えられながら、隣の居間まで歩く練習をしていた時のことだ。
ふわりと、鼻腔をくすぐる懐かしい香りがあった。
(……この匂い)
それは、私が調合でよく使っていたカモミールと、ラベンダーの香り。それだけではない。私が営んでいた小さな店の、古い木の柱や、床に染み付いていたインクや、様々な香油が混じり合った、あの独特の空気。忘れるはずもない、私の世界の香りだった。
「エルア、この香り……どこから?」
思わず尋ねると、エルアは少しだけ困ったように微笑んだ。
「陛下が、ルシエル様のためにご用意されたものです」
「陛下が……?」
「ええ。あなたが一日も早く心安らげるように、と」
その香りは、扉の向こうから漂ってきているようだった。居間の隅に、もう一つ、今まで気づかなかった扉がある。重厚な木製の扉だ。
吸い寄せられるように、私はそちらへ向かおうとする。
「ルシエル様、本日はもうお休みください。陛下からの言いつけで……」
エルアが慌てて私を止めようとするが、私の心はもう、あの香りの源を確かめることでいっぱいだった。
なぜ、リアンがこの香りを知っている?
まさか。そんなはずはない。
彼は、家庭教師としての私――『セレスティア』しか知らなかったはずだ。裏通りで小さな香の店を営む、素顔の『ルシエル』の存在など、知るはずがないのだ。
扉に手をかけた瞬間、背後で息を呑む気配がした。
振り返ると、いつの間に現れたのか、リアンが静かにそこに立っていた。
彼の金色の瞳が、扉に触れた私の手をじっと見つめていた。
「……その扉を、開けたいですか」
リアンの声は、感情の読めないほどに平坦だった。
私はこくりと頷く。彼の視線が痛いほどに突き刺さるが、ここで引き下がることはできなかった。この香りの正体を確かめなければ、前に進めない気がした。
リアンはしばらく私を見つめた後、ふっと息を吐くと、こともなげに言った。
「いいでしょう。ですが、驚かないでくださいね」
彼はそう言うと、自ら扉に手をかけ、ゆっくりとそれを開いた。
光と共に、さらに濃密な追憶の香りが私を包み込む。
そして、目の前に広がった光景に、私は息を呑んだ。
「あ……」
そこにあったのは、私の店だった。
裏通りの日当たりの悪い場所に建っていた、あの小さな『香の小店』が、寸分違わずそこにあったのだ。
使い古して傷のついた木のカウンター。壁一面に並んだ薬草や香油の瓶。私がいつも座っていた背もたれの高い椅子。窓から差し込む光の角度まで、まるで記憶の中の景色をそのまま切り取ってきたかのようだった。
「どうして……これを……」
声が震える。
「あなたのすべてを、知りたかったから」
リアンが静かに答える。
「あなたが家庭教師の『セレスティア』であると同時に、この店の主『ルシエル』であることを、私は知っていました。あなたが眠っている間に、調べ上げたのです」
彼の言葉に、頭を殴られたような衝撃が走る。
二重生活は完璧なはずだった。素顔の私と、仮面をつけた私。誰も、気づくはずがなかったのに。
「あなたが愛したこの場所を、そのままここに持ってきました。ここでなら、少しは心が休まるかと思いまして」
休まるはずがない。
これは、彼の執着が生み出した、あまりにも美しく、そして恐ろしい再現模型だ。
私が呆然と立ち尽くしていると、リアンが「紹介したい人がいます」と言った。
彼が扉の外に合図をすると、一人の女性が恐る恐る入ってくる。
その顔を見た瞬間、私の目から涙が溢れ出た。
「……リラ……?」
「ルシエルッ!」
リラだった。かつて王都の学舎で共に学び、時々店を手伝ってくれていた、私の唯一の友人。
彼女は私より十歳も年を重ね、すっかり大人の女性になっていた。けれど、その優しい笑顔は昔のままだった。
「よかった……! `本当に、生きてたのね……!」
泣きじゃくりながら抱きついてくるリラを、私はただ呆然と抱きしめ返す。
十年という歳月が、友の姿を借りて、私の目の前に突きつけられていた。
リラはひとしきり泣いた後、リアンに深く頭を下げた。
「陛下、お計らいいただき、心より感謝申し上げます」
その様子を見て、私は改めて理解する。リラをここに呼んだのも、すべてはリアンの手の内なのだと。
彼は、私の過去も、友も、思い出の場所さえも、すべてその手に収めている。
金色の鳥籠の中で、私は少しずつ、十年分の真綿で首を絞められるように、彼の庇護と執着に絡め取られていく。その事実から、もう逃れることはできないのかもしれない。
リアンは、私たちが落ち着くのを待って、静かに部屋を退出していった。積もる話があるだろう、という配慮らしかった。
二人きりになった店の中で、リラは改めて私の手を取って、涙ぐんだ。
「本当に、夢みたい……。もう会えないと思ってた」
「リラこそ、どうしてここに……。陛下が?」
「ええ……。あなたが眠ってから三年ほど経った頃かしら。突然、使者の方が私の元にやってきて……。『ルシエル様は、我が主君が必ず目覚めさせる。その時まで、不自由のないよう支援する』と……。それからずっと、陛下からの援助で……」
信じられない話だった。リアンは、そんなにも昔から、私のために布石を打っていたというのか。
「でも、どうして……。じゃあ、私がここにいることは……」
「私と、陛下、それからごく一部の側近しか知らないわ」
リラはそこで一度言葉を切ると、意を決したように私の目を見つめた。
「聞いて、ルシエル。驚かないでね。……世間では、あなたは十年前に死んだことになっているのよ」
「――え……?」
「あの焼き討ち事件の犠牲者として、公式に死亡が発表されているの。だから、あなたが今ここに生きていることを、誰も知らない」
頭が、真っ白になった。
私は、死んでいる? `この世にいない人間として、ここに存在している?
だから、リアンは私を王宮の奥深くに隠しているのか。
「そんな……」
「陛下は、きっとあなたを守っているのよ。あなたの存在が知られれば、また命を狙われるかもしれないから……」
リラは必死に私を慰めようとしてくれる。だが、私の心は別の恐怖に支配されていた。
守られている。それは、見方を変えれば、完全に逃げ道を絶たれているということではないか。
「ねえ、リラ。陛下は……リアンは、どんな人なの? `王様として」
私は、私が眠っていた十年の間に彼がどう変わったのか、知らなければならなかった。
リラの表情が、わずかに曇る。
「……素晴らしい王様よ。先王が亡くなった後の腐敗した国を、たった数年で立て直したわ。貴族を粛清し、民のための政策を次々と打ち出して……。その手腕は、誰もが認めるところよ」
「でも……」
「でも、血も涙もない、とも言われているわ」
リラは声を潜めた。
「邪魔者は、たとえ身内であろうと容赦なく切り捨てる。その冷徹さから、陰では〝氷の王〟なんて呼ばれてもいるくらい……」
氷の王。
あの、私にだけは蕩けるように甘い表情を見せる青年が?
そのあまりの乖離に、私は言葉を失った。
私の知らない十年という歳月。
それは、一人の無垢な少年を、国を背負う冷徹な王へと変えてしまった。
そして、その王様が今、この私にだけ、異常なまでの執着を向けている。
私は、友との再会を喜びながらも、自分が足を踏み入れた場所の恐ろしさに、静かに身を震わせるしかなかった。
【作者からのお知らせ】
ここまで読んでくださりありがとうございます!
この物語は、年下教え子×大人ヒロインの溺愛・執着・ざまぁ要素をたっぷり詰め込んでいます✨
もし楽しんでいただけたら、☆や感想をいただけると、とても励みになります🌷
今後の更新もどうぞよろしくお願いします!
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