風雲急を告げる-2

 ここでほんの少しだけ時を巻き戻して、再び美桜に目を向けてみよう。


 美桜は女学校が終わると同時に昇降口に走り、靴を履き替えて傘を差し、本降りの雨の中をカフェに向かう。


 カフェの前には馬車が1台停まっていた。そして2階に上がる階段のところに男が1人立っていた。見覚えがある人で、警視庁からたまに派遣されていた人だと思い出す。役目は貴族院議員である父の護衛任務だ。不審な情報を警察が掴んだとき、護衛が派遣されるのだ。ということは父がここに来ている可能性が高い。今回も何も起きないといいのだけどと考えながら階段を上りきり、カフェの扉を開く。そしてドアのベルの音が鳴る中、父、北条子爵の衝撃的な発言が聞こえ、美桜は唖然とした。


「美桜に見合いの話が来ていると言ったら、どう思う?」


 声の方に目を向けると、蘭はいつも座っている席で困り果ててしどろもどろになっていた。そして彼の正面に座っているのはやはり父だった。


「お父様! なんてことを聞くんですの?!」


「うわ。ちょっと遅かった。たとえばだってば」


 北条子爵はバツが悪そうな顔をした。美桜は2人が座っているテーブルに行き、蘭の隣に座る。


「本当に見合い話はないということでよろしいでしょうか」


 美桜の詰問に北条子爵は何度も頷いた。


「蘭くんがどのくらい美桜を好きなのか確認したかっただけさ」


 そう聞かれ、美桜も蘭も真っ赤になった。北条子爵はそれだけでもう分かったと言わんばかりのあきれ顔をし、一拍おいてコーヒーを飲み干し、言った。


「今はシベリアへの出兵で大変なことになりそうだしね」


「そういえばカフェの前に護衛の方がいらっしゃいましたね」


 美桜の言葉に北条子爵は頷いた。


「ウラジオストクに海軍の陸戦隊が駐留していることは知っているだろう?」


 美桜は頷くが蘭はきょとんとしている。


 昨年のロシアの共産革命の後、極東も大きく揺れ続けている。2ヵ月前の1918年4月、ロシアのウラジオストクにおいて、何者かによって日本人が殺害されたことを理由に、日本は海軍の陸戦隊を派遣し、彼の地を抵抗なく占領した。この出来事は新聞でも連日大きく取り上げられたので美桜の記憶にも新しい。ロシアは共産革命で極東が手薄になっている。日本は共産主義の赤軍に反抗する旧勢力・白軍を支援し、共産主義のソ連ではない国、つまり緩衝国家を作り、国体の護持を図りたい。更にあわよくばその緩衝国家における利権を独占したいのである。しかしその流れは海軍と深いつながりを持っている北条商会にはあまり嬉しくない。


「本格的に出兵となると陸軍と交代することになる。陸軍は満州利権に凝り固まっているから理由を作って派遣軍を増やし、シベリア奥地まで突き進むに違いない。それは避けたい。だからアメリカとの共同出兵で派遣軍の数も制限して、ほとほどに済ませたいのさ」


 海軍は陸軍の独走をおもしろく思っていないし、目は南洋に向いている。同じ日本の軍組織でありながら相容れないのである。日本にシベリア利権の独占を許したくないアメリカは日本にシベリアへの共同出兵を申し入れているところだ。


「それでお父様は連日の会合なのですね?」


 美桜がそういうと北条子爵は頷いた。


「シベリア出兵慎重派の議員をまとめるのが私の仕事というわけだ」


 もちろん陸軍としてはその勢いを止めたい。だからいろいろな手段を講じて邪魔をしてくることが予想され、慎重派のキーパーソンである北条貴族院議員に護衛がついたということらしい。


「美桜様、あとでどういうことか解説してくださいね」


 蘭の台詞に彼に目を向けると、彼は情けない顔をして美桜の顔を見ていた。仕方がない。まだ10歳なのだから、基礎知識がないし、また、これだけの会話で国際・国内情勢が分かるはずがない。


「もちろんよ」


 ただ美桜も、詳しくはわからないから調べてから教えなければ、と少し不安に思いながら答えた。


「警察が不穏な動きを掴んだら、美桜や蘭くんにも護衛がつくことになると思う。本当に何があるかわからないからね」


 議員が暴漢に襲われたり、脅迫されたりというのは珍しくないと聞いていたが、いざ自分が護衛対象になると思うと思うところはある。


「大丈夫。蘭はわたしが守るから」


「それは僕の台詞です! 美桜様はなんとしてでも僕が守り抜きます!」


 蘭は両拳を固く握って決意を示す。


「あはは。頼もしいな。でも2人とも子どもなんだから無理しないように」


 美桜の父は2人を見て誇らしげに笑った。


 窓の外を見るとやや降りが弱くなっていた。


「そうだ。今度の日曜日に古河男爵に呼ばれているんだ。駒込に完成した洋館のお披露目会だそうだ。家族を連れてきてと言われているから、もし興味があったら美桜と蘭くんも連れて行ってあげるよ」


 北条子爵はどうかな、と首を傾げた。


「洋館だなんて素敵です。是非一緒に連れて行ってくださいな」


 蘭は頷いて応えた。


 雨が小降りになったところで3人はカフェを後にし、北条子爵は馬車で次の会合に向かい、美桜と蘭は路面電車で帰路についたのだった。




 その週は幸い何事も起きず、土曜日がやってきた。土曜日は半ドンで、午後はお休み。蘭と美桜は昼食を取らずに早々に帰宅した。北条邸の中には小さいながらも道場があり、蘭は美桜と一緒に大奥様に稽古をつけて貰うことになっていた。


 美桜は道着を着ても堂に入っていたが、蘭は真新しい道着に袖を通し、緊張気味だった。大奥様はいつも使用人と一緒に食事を作ったり洗濯したりしていて、華族らしくないのだが、それもそのはず。蘭の祖父と同じ下級武士の出身なのだと聞いていた。いつもニコニコして優しく食事を提供してくれる大奥様は、蘭にはいなかった祖母像そのものだ。しかし道場に立つ胴着姿の大奥様は別人のように見えた。一言で言えば武人の顔をしていた。


「蘭ちゃんは刀吉さんに仕込まれているのよね?」


 改めて確認されると自信がないが、蘭は頷いた。


「じゃあ、手加減しないから。美桜は自分の身を守れるくらいにはなるのですよ?」


 美桜は憂鬱そうな顔をして、はい、お祖母様、とだけ答えた。


 2人合わせて1時間ほども投げられ続け、蘭が上手くなったのは受け身だけだった。畳ではなく、板張りだったのでとても痛い思いをした。


「まあまあね。蘭ちゃんはもっと力の流れを読めるようにならないと怪我するわよ。美桜は……そうねえ。接近戦の方が実際は大多数なんだから、もっと稽古した方がいいかも」


 滅相もない、と言いたげな顔をして美桜は小さく首を振り、蘭は情けなくて俯いてしまった。2人は自分たちの部屋に戻り、部屋着に着替えている間、襖越しに会話をかわす。


「僕、もう少し自分はできると思っていました……自分にがっかりです」


「お祖母様はご一新の際、旧幕府軍の兵を文字通りちぎっては投げちぎっては投げていたそうだから……」


「ああ、できそう……」


 それほど大奥様の体術はすごかった。祖父から体術を教わっていた蘭だが、次元が違うと言わざるを得ないくらいレベルが違う。そもそも祖父はパワー型だったので、体術はそこそこで良かったのだろう、と思うことにする。


「お祖母様も異能持ちで、『周りの力の流れ』を感知することができるそうなの。矢印みたいに力の動きが見えるみたい」


「なるほど! 納得です!」


 こっちの力の流れが見えていれば、その力の流れに逆らわずに投げ飛ばすこともできるだろう。もともとの体術のレベルの高さに加えてその異能があれば、近接戦闘では途方もないアドバンテージになるに違いない。


「一応、わたしにもその異能はあるんだけど、とても範囲が狭いのよね……」


「そうなんですか。でも使いどころですよ、たぶん」


 詳しく聞いていないから分からないが、蘭はそう思う。異能も使いどころを見つければ時にはまるものだ。


「そうね。今のところ、エアライフルの内部の動きが分かるとかそんな感じなんだけど……」


「すごいじゃないですか。不調とか違和感がすぐに分かるってことだ」


「そうね。そういうことなのよね」


 美桜ははにかんだ。美桜は自分の異能にあまり自信を持っていない様子だった。それはとても残念なことだと蘭は思う。


 着替え終え、蘭は襖を開けてもいいか聞き、いいわよ、と答えが返ってきた。しかし蘭が襖を開けるとまだ美桜は帯を締めている最中だった。


「できればー 本当に着替え終わってからー いいと言ってくださいー」


 蘭は機械的な発音で言葉にして、感情を外に出さないよう努める。


「別に蘭になら着替えを見られても……」


「また僕を子どもだと思って……」


「そういう意味じゃないのに」


 美桜はくすりと笑う。キツネ目できついと見られてばかりだと自分では言っている美桜だが、微笑むと本当に愛らしい。また一糸まとわぬ美桜の肢体を思い出してしまい、股間が大きくなるのが分かった。


「あら、どうかした?」


「な、なんでもありません」


 蘭は自分の部屋に逃げ込んだ。


 その後、美桜は蘭を呼び、髪を切ってくれた。蘭は風呂敷を首の周りに巻き、縁側に置いた椅子に座らされた。美桜に軽く先端を揃えて貰っただけでも見た目の印象は変わり、清潔さが増す。しかし何より蘭が嬉しかったのは髪を切っている間中、美桜との距離が体温を感じるほどに近く、また、髪をその細い指で触って貰えたことだ。


 早く髪が伸びて、また美桜様が髪を切ってくれないかな、と蘭は思ってしまったほど、幸せだった。

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