蘭と美桜の“らぶらぶ”な1日-2

 夕飯のお買い物にはちょっと早い時間帯だが、商店街にはいい匂いが漂っている。お魚屋さんの前ではブリの照り焼きの匂いがする。肉屋さんの前ではジャガイモと挽肉と脂の――要するにコロッケを揚げる匂いがする。洋食屋さんの前ではカレーの匂いがする。中華料理店の前では肉まんが蒸されている。


 それらの凶悪な匂いに負け、蘭のお腹がぐうと鳴ってしまう。あんなにいっぱい食べたのに……と蘭は恥ずかしくなる。


「あら、どこかでかわいい虫の声がしましたね」


 美桜が悪戯っぽく蘭を見下ろして、笑って言った。


「……ガマンします」


「買い食いしましょう。先生に見つかったら怒られてしまうけれど、ここまでは来ないでしょうから」


 美桜は仕方ないなあと言わんばかりの顔をしてお肉屋さんに向かう。上野の方にある女学校からここまでは結構距離が離れている。


 温度調整が肝である揚げ物を炭火で作るのは大変難しい。なのでコロッケなどの揚げ物を商品とするお肉屋さんはガス器具を導入しており、当時はとても珍しく、行列ができるほどの人気があった。


 美桜はお肉屋さんの前に行き、少し並んで揚げたてのコロッケを2つ買い、1つを蘭に渡す。とてもいい匂いだ。脂と挽肉とジャガイモとパン粉が揚がった香ばしい匂い。揚げたてのコロッケには魔力がある。


 蘭は手に持ったコロッケを数秒だけ口から遠ざけたが、やはりその魔力には敵わず、3分の1ほどを大胆にパクリと食べた。さくっとした衣の香ばしさと、肉の脂の香りとジャガイモのほどよい甘さが口の中に広がり、蘭はなんとも幸せな気分になる。


「コロッケって本当に美味しいわね~~」


 美桜は小さくコロッケを口にして目を細めて満面の笑みを浮かべる。


「揚げたてのコロッケはこの世のものとは思えない美味しさですね!」


 蘭は残りのコロッケを口にして、口福を感じる。


「蘭がこんなに喜んでくれるならもう何個でも買ってあげちゃう! 追加で何か食べる? メンチでもいいのよ、言って頂戴!」


 しかし蘭は食欲より理性を優先させる。


「……ダメですよ。大奥様が夕食を作ってくださっているんですから……」


「蘭ならそれくらい余裕で食べられるでしょ……お姉さんにごちそうさせて欲しいなー」


「それはそのうちに喜んで」


「ホント?」


「ええ。今後の楽しみにします」


 すると美桜はまた目を細め、口元を緩める。客観的には確かに美桜の目つきは鋭いと蘭は思う。しかしこうやって笑っていれば本当に本当の美少女だとも思う。


 美桜は鼻歌を歌いながら駅に向かって歩いて行く。どうやら美桜は蘭の歩調に合わせるのを忘れてしまったらしく、蘭は小走りで彼女についていく。しかし蘭には全く苦にならない。美桜お嬢様が上機嫌なのは大変よろしいことだ。


 私鉄の駅に到着し、下りの汽車に乗る。


 4時前だが、乗車率は高い。蘭は美桜を客車ドアの脇に立たせると、自分は彼女の前に立ってガードをする。従者としての蘭の仕事は、彼女の荷物持ちと汽車の中で美桜をチカンから守ることだといっても過言ではない。それ故、蘭は汽車に乗っている間中、美桜お嬢様を狙う輩がいないか徹底的に目を光らせ続けている。


 幸い、美桜狙いのチカンは今日も現れなかった。美桜のお供をするようになってこの3週間、自分がチカンに狙われたことはあっても、美桜にチカンを近づけさせたことはない。それが今の蘭の矜持である。


 汽車に30分ほど揺られ、2人は八幡駅で降り、大きく育った黒松が茂る通りを歩きながら、帰宅の途に就く。


 この駅の前には葛飾八幡宮があり、そのことから『八幡』と名付けられている。葛飾八幡宮は建立千年、武神である八幡神を祀り、平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康ら蒼々たる歴史上の人物から崇拝され、(物語の時間軸の)近年では幸田露伴や伊藤左千夫にも拝されていることで知られている。


 明治時代、鉄道の開通に伴って高級住宅街として開発され、大正の世に至っている。美桜と蘭の住まいである北条邸もその頃に建てられたものだ。敷地は広く、立派な門構えを持つ、使用人の部屋まで含めると十数部屋もある大きな日本家屋である。貧しい生まれの蘭からしてみると北条邸は本物のお館である。


 実際、この北条邸の主は譜代大名でありながら、幕末に維新側につき、その功績を認められて華族となった元大名、現ご隠居の北条恒義つねよし翁である。奥方のも健在で、ご長男で美桜の父、現在の北条家当主、北条兼定かねさだ子爵は貴族院議員、美桜の母の貴子たかこの4人でこの屋敷に住んでいた。蘭はそのお屋敷に転がり込んできた形だ。


 美桜は帰宅早々台所に赴き、使用人と一緒に夕食を作っている祖母に帰宅の報告をする。蘭はとお呼びしている。今日は鰯の干物がメインらしい。下魚である鰯であるが、大奥様が下級武士の家の出身なので、食卓によくあがる。蘭も鰯の干物は食べ慣れているし、大好物だ。蘭が喜んでいるのが丸わかりなのだろう。大奥様は蘭を見てくすりと笑った。


 次に美桜は祖父・恒義の部屋に赴く。蘭は殿とお呼びしている。蘭は美桜の荷物を持ちながら廊下を歩いてついていく。お殿様の部屋は本人がご隠居であることを望んでいるので離れにある。


 美桜が声を掛けたあとふすまを開けると、お殿様はいつものように、幕末に使ったというスペンサー銃の手入れをしていた。


 当時は銃や刀の取締りが今ほど厳しくなく、幕末からもまだ半世紀しか経っていないため、日本刀はもちろんのこと、幕末の銃火器すらもまだ隠し持っている人がいた。もっとも、お殿様の小銃は正規に保有を許可されている。


「帰ったか。今日の女学校はどうだった?」


 美桜は祖父の前に正座し、蘭はふすまを閉めた後、彼女の斜め後ろに正座する。


「いつも通りです」


「友人はできそうか?」


 美桜は祖父の問いかけに表情をこわばらせる。


「……そのうち必ず作ります」


「こまった子だのう……そう思わんか? 蘭よ」


 蘭は思わぬ流れ弾にあたってしまい、逡巡したあと、口を開けた。


「美桜様には僕がついてますから、ご友人がいようといまいと全く問題ありません!」


「……蘭……」


 美桜は振り返り、半分泣きそうな顔で蘭を見つめ、お殿様はハアとため息を露骨につく。


「蘭が美桜の逃げる口実になってしまうのはよくないと思うがの。まあいい。着替えたら今夜も一緒に夕食を取ることにしよう」


 美桜と蘭は下がり、美桜の部屋に行く途中で美桜の父である北条兼定子爵とすれ違う。蘭は子爵をとお呼びしている。口ひげを蓄え、舶来の布でびしっと仕立てたスーツを身にまとった旦那様は、美桜と蘭を認めると済まなさげに言った。


「済まん。これからまた会合だ。今日も一緒に食べられそうにない」


「父上は政治の道で日本の未来を切り開かねばならないお立場です。がんばってきてください」


「美桜~~お父さん寂しい~~」


 旦那様は愛娘の美桜の肩を抱くと半泣きになり、名残を惜しみながら玄関に走って行った。


「今夜も派閥の会合ですか?」


「ロシア情勢が緊迫しているから当然ね」


 蘭と美桜は外へ駆けていく北条子爵をその場で見送った。外にはもう迎えの馬車か自動車が来ているのだろう。


 そして途中でこの屋敷に2間だけある洋風の部屋の前を通る。美桜の母、貴子が執務に使っている部屋だ。蘭は貴子をとお呼びしている。この屋敷には電話を2本引いており、そのうち1本の電話を使って奥様が北条家の財政的な屋台骨である北条商会の差配をしている。北条商会の主な取引先は日本海軍。軍事物資から生活必需品まで日本海軍に納品しており、(劇中の時間軸の)今は世界大戦が終わって景気がひと段落するかというタイミングで、何故かまた忙しくなってきたらしい。


 ちょうど電話が終わり、廊下を歩いていた2人に気付いたのか、引き戸が開いて奥様が顔を出した。


「ごめんね。まだ落ち着きそうにないの~~」


 蘭は美桜と奥様の顔が並んでいるのを見ると、本当にそっくりな母子だなと思う。美桜の美貌は母の奥様譲りだ。


「お母様もお身体を労ってくださいね……」


 美桜は心配そうに笑うしかないようで、蘭も釣られて同じように微笑んだ。奥様は苦笑いする。


「うーん……ほどほどにしたい~~」


 しかしまた電話が鳴り、奥様は洋室の奥に引っ込んでいった。


「奥様、今日も大変そうですね」


「お母様をわたしがお助けできればいいのだけれど……」


 しかし美桜もまだ15歳の女学生に過ぎず、商社の経営について何の手助けもできない。手作りスイーツを持って陣中見舞いに行くのが関の山だ。


 美桜は洋室の引き戸を閉めて廊下を歩き出し、2人はようやく自分の部屋まで戻ってくる。

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