第3話 はじめての施術

 午後1時。ゼミの講義が終わり、次の授業までの空きコマ。

 陽太と真帆は、学生がほとんど立ち入らない、使われていない演習室に入った。

 外から見えないように、カーテンをそっと閉じる。カーテンの向こう、窓の外では風に揺れる木々がざわめいていた。


「……ここで、いいの?」

「うん。授業もないし、人も来ないから。一応、マットだけ持ってきた。床、冷えるといけないから」


 いつも通りの柔らかい声で、陽太は言った。


「ありがとう……ございます」


 真帆は少しだけ頷いて、リュックからハンドタオルとカーディガンを取り出す。

 ブラウスを脱ぎ、下着の上にカーディガンをそっと羽織った。


 床に敷かれたヨガマットの上に座る。

 陽太は目線を合わせるように、斜め後ろに位置を取った。


「じゃあ……肩まわりから触れるね。急には胸にはいかないし、嫌なところがあれば、すぐ言って」

「はい……」


 真帆の背中が、少しすくんだまま返事をした。

 鼓動が、耳の中にまで響いている。

 でも、陽太の手が肩に触れた瞬間――


 びくん、としたのは、くすぐったさでも、緊張でもない。

 温かさだった。

 まるで、熱を持った湯たんぽをそっと当てられたみたいに、陽太の手は信じられないほどあたたかかった。


「……すごい。あったか……」

「よく言われる。でも、これがちょっとした特技なんだ」


 くすっと笑う陽太の声が、耳の奥に落ちていく。

 その声に、少しだけ肩の力が抜けた。


 指先ではなく、手のひら全体を使って、ゆっくりと肩甲骨のまわりを押し流していく。

 同時に、真帆の呼吸が浅いことに陽太は気づいて、声をかけた。


「息、止まってるかも。ゆっくり吸って、吐いて……大丈夫。深くなくてもいいから、自然にね」


 真帆は小さく頷く。

 肩の下、背中の筋肉が少しずつ緩み始める。


 血が、流れている――そんな感覚があった。

 寒さで凍っていた川に、春の水がとろとろと流れ込むような、そんな感覚。

 肩の奥が、背中の下の方までじんわり温かくなっていく。


「このあたり、少し冷えてるね。脇の下から胸の外側にかけて」

「え……わかるんですか」

「うん。触るとすぐにわかる。冷えてると血も流れにくいから、脂肪も育ちにくい。ちょっと流してみようか」

「……はい、お願いします」


 真帆の声は、最初よりも小さくて、でも、どこか委ねるような響きがあった。


 陽太の手が、やわらかく脇の下に滑り込む。

 ごつごつした指ではない。やさしく包み込むような圧で、円を描くようにマッサージしていく。


「……くすぐったい、かも」

「ちょっとだけね。でも、すぐ慣れるよ」


 胸の外縁――バストの横側から、内側へ向かって、リンパの流れに沿ってゆっくりと撫でられる。

 布の上からではあるけれど、体の内側にまで熱が届くようだった。


 おなかの奥がふっとゆるみ、胸の内側で、なにかがじんわりと広がっていく。


「少しずつでいいからね。毎日じゃなくても、ちゃんと向き合ってあげれば、体は応えてくれるよ」

「……それって、自分を大事にするってこと、ですよね」

「うん、まさにそれ。焦らなくていいし、誰かと比べなくていい。変わるって、すごく静かなことだから」


 言葉が、ゆっくりと真帆の胸に染み込んでいく。

 心の奥に、ぬくもりが満ちていくのを感じた。


 不思議だった。

 マッサージを受けているのに、胸が張ってくる感じがした。

 皮膚の下をなにかが通っているようで、あたたかくて、気持ちよくて――


 まるで、自分の体が目覚めていくようだった。


「……陽太さんの手、ほんとにすごいです」

「そうかな。ありがとう。でも、すごいのは真帆ちゃんの体だよ。ちゃんと、応えてる」

「……うれしい……です」


 そのとき真帆は、育乳とか、胸が大きくなること以上に、「自分の体を大切にしていい」ということを、初めて許された気がした。


 陽太の手の温もりが、そっと彼女の心まで包んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る